ミス&ミスター・クライング・ベイビー


Extra No.02 はじまりのはじまり


「駅ビル前…ここだよね」

電話を切ってからすぐに支度をして家を出た。
真田さん(魔法の声音を持つ彼女)には「服装は普段着で構わない」といわれたけれど、やっぱり社会人としてさすがに 私服で面接というのは、こっちの気が引けてしまう。かといってスーツも違う気がしたので、ネイビーブルーのタイトスカートに 着飾ることを遠慮した小さなフリルのシャツ。一応オフィスカジュアルを選んだつもりだ。

「どんな会社か聞くだけのつもりがこんな展開に…」

何が起きるかわからないものだなぁ。ほんの数時間前まで、わたしは求人広告と睨めっこしていたはずだ。 行き交う人々を見つめながらそんなことを考える。


待ち合わせに指定された場所には10分前に着いた。
家からは電車で3駅分。近未来と下町が往来するような駅前のとあるビルの前だった。
説明さえしてくれれば直接向かいますと言ったけど、真田さんに「いいのよ!うちの人間に迎えに行かせる!ううん、行かせてほしい」と 頼み込まれてしまったので断れなかった。やっぱり、真田さんには人を説得させる何かが備わっていると思う。
ふと、「うちの人間」ということは、迎えに来てくれるのは真田さんではない誰かなのだろうと考えた。
今さらながら少しずつ緊張してくる。

夏の手前にしては日差しも強い。黒の手提げ鞄からタオル生地のハンカチを取り出して額をそっと拭いた。
すると、不意に自分の顔に影ができる。


「……あんたがってヤツ?」
「え」


ハンカチを片手に持ったまま、目の前の顔を思わず凝視した。
男の人…というよりはもっと少年っぽさが残る「男の子」だ。わたしの一つ、二つ下くらいかな?ぼんやりそんなことを思う。

「は、い…。です。……っ」
「オイ!?」

どうやらぼんやりの度を超えてしまったらしい。
暑さのせいか立ち眩みを覚えてそのまま後ろに倒れそうになる。どうりで彼の顔が霞んで映るはずだ。
けれど、目の前の男の子が咄嗟に腕を差し出すとわたしの背中に回してくれた。そのおかげでわたしの身体は 悲鳴を上げるどころか、地面に触れることさえなかった。
一瞬の出来事だったけど、すぐに彼にお礼を言う。

「ご、ごめんなさい…ありがとうございます…」
「立てるか?」
「はい…大丈夫です。すみません…」

わたしの返事を確認して、彼はゆっくりとわたしを一人で立たせてくれた。
ありがとうともう一度お礼を言うと、彼はきょろきょろと辺りを見渡して神妙な面持ちのまま「おまえそこで待ってろ」と 命令口調で言う。もちろん助けてもらったので逆らえるわけもない。

「は、はい…」
「ぜってえ動くんじゃねえぞ」
「はい!」

すると彼は従順な返事に気を良くしたのか、ニヤリと口角を上げてどこかへ行ってしまった。
視線で追いかけてみる。駅ビル前の大きな信号を人ごみに紛れて渡る。簡単に見失って、わたしはすぐに視線を足元に戻した。
もしかしたら呆れて帰ってしまったのかもしれない。面接をするまでもなく体力のない、きっと使えないやつと判断されたかも。 会っていきなり倒れられたら、それも仕方のないことだろう。はぁ、と溜め息を吐く。
まだ少し立ち眩みの余韻が残るなか、日差しの強さは相変わらずわたしを照らしていた。

「っ!?」
「待たせたな」

突然頬にひんやりとした感触が伝う。驚いて顔を上げると、帰ってしまったと思っていた先程の男の子がまたわたしの前に立っていた。 差し出された右手にはペットボトルのミネラルウォーターが握られている。

「あ、あの、これは…」
「おめえのだよ。こんな暑ちぃとこ立ってっから倒れんだ」
「でも、そんな…申し訳なさ過ぎて」
「オレがいいっつったらいいんだよ」

そういって握る力を放棄した彼の右手からペットボトルが落ちる前に、わたしは慌ててそれを受け取った。 その様子にまたも気を良くしたように笑うと彼はすぐに歩き出す。ついて来い。そう言われたので素直に従う。 でもその前に彼の背中にお礼を言った。

「あ、ありがとうございます」
「…別に。これでチャラだからな」
「…え?」

お昼を過ぎた日曜日の街はとてもにぎやかでひとつの音を聞き取りづらい。彼が何かを言った。

「さっきの電話の件、これでチャラな」
「さっきの?って、もしかして」

「「"しつけーんだよテメェ"」」

声が重なる。彼が思い出したように笑いながら再び歩き出す。わたしはというと、金魚のように口をパクパクとさせる他なかった。 こ、こいつが犯人か!同時に思い出すのはあのときの怒りの感情。3回目の呼び出しで一方的に暴言を浴びて電話を切られたのだ、 怒りたくもなる。けれど、あのときほど鮮明に怒りや苛立ちを思い返せない。複雑な心境だった。それを短時間で 薄めてしまったのは、きっとわたしの両手に握られたペットボトルのせいだろう。

「……全然気付かなかった」

前後左右にいろんな人が歩いていく。その隙間を掻い潜るように、けれど堂々と歩く彼を追いかけた。 倒れかけた人間への気遣いの心があっても、あんなふうに電話を取ることがあるだなんて。もとより、初めて会うのだ。 電話の声と会って実際に聴く生声の差すらわかるはずもない。
とりあえず、彼の背中を見失わないよう注意を向けつつ、わたしはこの煮え切らない思いを流し込みたくてミネラルウォーターを口にする。


『悪い子じゃないんだけど…』


真田さんの電話越しの声がこだましていた。