ミス&ミスター・クライング・ベイビー


Extra No.01 はじまり


今立っている場所が偽者ではないという確信が欲しい。
1ミリでもいい。1グラムでも。本物どころか単位さえ知らないわたしは、その世界を知るまで何をしあわせと呼んでいたのだろう。 過去か未来か、それとも。



「事務員募集。月給22万円以上〜有給、保険完備。詳細はお電話にて」

随分と大雑把な求人広告をまじまじと見つめる。仕事内容が空欄だ。
各企業が大々的に社名を名乗る中で、とんだブラック企業だったらどうしようという保身と、どの広告よりも目に入ってしまう好奇心で忙しかった。 こんな投げやりな募集に誰が食い付くのだろう。そう思いかけて、不況の荒波にもれなくもまれる派遣社員がここにいるじゃないかと一人ゴチる。これがこの企業の 作戦か、と下らないことまで考える。日曜日だった。
家から通うにもちょうどいい場所だし、少し詳細を伺うくらいならいいよねと自分に言い聞かせて携帯を手に取った。 その広告によれば「ご連絡の曜日・時間帯は問いません」と書いてある。

「…………」

1回目。繋がらない。留守だろうか。

「…………」

2回目。繋がらない。もういちど番号を確認する。

「…………あ」
『しつけーんだよテメェ!!』

3回目。怒鳴られたと思ったら突然電話を切られた。
再度広告に載っている番号を確かめてみる。間違ってはいない。
恐怖よりも驚きが勝って、いったい何が起きたのかわからなかった。し、しつけーんだよ?誰が?わ、わたしが!?

「信じられない…!」

募集を出したのはそっちのはずだ!それに対して連絡することがしつこいだなんて…ますます不信になる。
もう一度かけてみるべきかしばらく悩む。でも、結論よりも早くわたしは行動していた。責任者に文句を言いたい。 それだけだった。


「…だいたい、だったら連絡日を指定すれば良……あ」
『もしかしてたった今お電話くれた方?』


4回目。ワンコールもしないうちに受話器から聞こえてきたのは、先程とは打って変わって穏やかな女性の声だった。
わたしは怒りを忘れ「は、はい」と答えた。思わず声が上擦ってしまう。
すると、温厚そうな声は「先程はごめんなさい。本当に申し訳ないです」とわたしに謝罪する。

「あ、いえ…こちらこそお忙しいところ申し訳ありませんでした。また後日…」
『あー待って!いいの。あなたは悪くない。全面的にこちらに非がある。ごめんなさいね、悪い子じゃないんだけど…』

落胆したような声音。よかった。自分の非、もとい同じ社員の非を謝れる常識人もいる企業だ。
さっきの電話は「悪い子」と呼ぶには幾分成長した男の人の声だったけど…きっと電話の向こうにいる彼女も、その「悪い子じゃない子」には 手を焼いているのかもしれない。
見えない企業にあらぬ想像を付け加えた。すると、ちょっとだけ親近感が沸くから不思議だった。
わたしはほっと胸を撫で下ろして、それから言葉を続ける。

「で、では改めて。御社の求人募集の広告を拝見したのですが…」
『あぁ!求人のね!お電話ありがとう』

跳ねた声音が歓迎されていることを知らせてくれる。嬉しくて、電話越しに頬が緩んだ。

「いえ。あの、いくつかお伺いしたいことがあるのですが、お時間宜しいでしょうか?」
『もちろんよ。あ、そんなにかしこまらないで。御社というほどの会社じゃないから』
「は、はぁ…。お気遣いありがとうございます」
『いいのいいの。それで、ご質問は何かしら?』
「はい。まず事務職とあったのですが、どういった業種なのでしょうか?」

気兼ねない女性の声に少しだけ普段の自分を装えた。
けれど、問いかけと同時に受話器からは無言が広がる。 まずいことを質問してしまっただろうかと慌てて広告を見直すけど、募集広告自体にはやはり業種の記載はない。
こういうときの電話マニュアルなんて知る由もなかった。きっと今、わたしの眉根は情けないことになっていると思う。
とりあえず、あの安息を約束してくれるような声音を再び鼓膜に届けるにはどうしたらいいのだろう。 そう思うけど、なかなか言葉は出てこなかった。

『…………』
「あの……」
『……ねえ』
「は、はいっ!」

怒られるのだろうか。地雷原を歩いていたら、突然、肩を叩かれた気分だ。

『頂いたお電話で申し訳ないけど、あなたこれからお時間ある?』
「……へ?」
『突然なんだけど会って話せないかしら?』
「あ、会って、ですか?」
『ええ。電話で説明するより、それがいちばん手っ取り早いのよね』

もちろんあなたの都合で構わないわ。
彼女の物言いは、人をまったく不快にさせない大人らしさがある。誰かを頷かせるために存在するような声がカタチになって響く。 会社というよりも、今は彼女に興味がある。
休日返上。きっと後悔しないと思った。

「はいもちろんです!」
『そう、よかった!さっきの無礼もお詫びしたかったから』
「さっきの……?あ」

思い起こすこともあやうく困難になりかけた。
怒りさえすっかり忘れさせる魔法の声音。
もしも受話器の向こうの彼女が魔法使いなら、事務員はどんなことを手伝えるのだろう。