24年ぶりに逢ったその人は、射抜くような目でわたしを見つめた。

『…

呼ばれた名前に、その時初めて自分の存在を確信した。
深紅の髪、着ている服、声音や喋り方一つを取ってみても、あの頃の彼とはまるで違う。生きている場所も時代も違うのだから当然だろう。わたしが眠り続けていた年月の分、きっと世界は大きく変わっている。魔界も霊界も人間界だって。 それでも、目の前にいる彼が蔵馬さんであることに躊躇はなかった。わたしの中の細胞全てが叫んで知らせている。

彼があの、銀髪の妖狐だと。



「…ここは?」

瞼が開く感覚。何年ぶりだろう。わたしの瞳は、もう長いこと何かを見つめていない。ずっと真っ暗で音のない世界に横たわっていた気がする。眼前に広がる景色は、少し青白く光る不思議な空間だった。隣には一定の間隔で棺が置かれている。
瞬きの次は首を動かした。腕にも感触がある。動かせるとわかって、一つひとつ確認しながら、そっと起動するように身体を起こした。
不意に男の人と目が合う。彼はヒィと怖ろし気な声を上げながらコエンマ様ー!と、まるで逃げ出すように部屋を出て行ってしまった。コエンマさま?一体誰のことだろう。何もわからず、わたしは自分が今まで眠っていたであろう棺の中でじっと座っていた。ここはどこだろう、そんなことを考えながら。




「…して、お主、自分の名前は憶えておるか?」
「はい。あの…」

次に通されたのは、とても広くとても高い場所だった。ここが霊界であること、コエンマ様と呼ばれた彼は閻魔大王のご子息であること、そしてこの部屋は彼の部屋で、先程までわたしがいた部屋は憩魂室と呼ばれる彷徨える魂の眠る部屋だったこと。そこまでをコエンマさんから聞いて初めて、今度は彼から質問された。わたしの名前は。

「…です」
「ふむ。で間違いない。他に何か覚えていることはあるか?」

コエンマさんは、あたかもわたしの名前を知っている様子だった。霊界のことだから、きっと魂の何もかもを管理されているんだろう。コエンマさんの言葉に続く。

「魔界にいました。研究所で働いていて」
「研究所?」
「はい…魔界の、植物や薬草、治療もしていた記憶があります」

わたしの一句一言を、コエンマさんはしきりに紙らしきものに書き込みながら、時折聞き返したり頷いたりしている。
彼の話によると、わたしは24年もの間、ひたすら眠り続けていたようだ。自分のことなのにまるで実感が沸かなくて思わずぽかんとしてしまった。24年…気が遠くなりそうな年月だ。人間でいえば四半世紀。ずっと呼吸だけを携えていたことになる。長いこと眠っていたことだけしかわからなかった。
けれど、不思議と記憶を辿るのに躓くことはなかった。淡々と受け答えを済ませる。
魔界での生活。僻地にあった山奥の研究所。幼い時に母を亡くし、女手一つで叔母の冥花おばさんがわたしを育ててくれたその経緯。それから―

「……炎」

突然、脳裏に焼き付く揺らめきが甦る。鮮明で、赤黒い。今にも熱を帯びだしそうな大きな炎。
言葉にした瞬間、わたしはまるで魔界に行ってしまったかのような錯覚に陥った。燃えている研究室、割れたガラスや実験道具、焦げ落ちていく植物、あっという間に広がっていく黒煙。その場にはないはずの幻想に飲み込まれそうになり、力強く踏ん張ってみても炎の海に沈んでしまいそうだ。怖い、怖い。

「……突然、男達が、火で…火を…」
?」
「研究所と、冥花おばさんを…」
、もういい。今日はここで休むとしよう」
「……おばさんは、冥花おばさんは…」
、大丈夫だ。落ち着け…ぼたん、茶を淹れろ」
「は、はい!」

わからない。思い出そうとした瞬間、全てが火に包まれ消えてしまう。わたしは泣き叫びそうで、怖くて、震えていた。異常な様子からある程度の過去を理解したのか、コエンマさんは机から離れるなりわたしの背中を優しく擦る。過呼吸を起こしそうだったわたしに丁寧に深呼吸を誘導してくれる。その間に、早急にお茶を用意してくれたぼたんさんと呼ばれた女の人が、大丈夫かい?と声をかけてくれる。わたしはまるで子供みたいに怯えていた。

「無理に思い出すことはない。ゆっくりでいい」

コエンマさんの落ち着く声音。ぼたんさんの淹れてくれた温かいお茶。
飲み込むことが精一杯で、その日は終わってしまった。




翌日、用意された部屋でぐっすり眠ったわたしを迎えに来たのはぼたんさんだった。
よく眠れたかい?と微笑む彼女に頷くと、嬉しそうに手招きをした。

「アタシの部屋においでよ」

そう提案したぼたんさんは、口元で人差し指を立てると、女同士の秘密だよと悪戯に笑った。


「…わぁ」
「ぼたんちゃん自慢の着物コレクション!」

彼女の部屋に案内されるなり、箪笥の引き出しやクローゼットからは溢れんばかりの和服や小物が眠っていた。柄も違えば生地も違う。色合いも、着物に合わせる小物や下駄も。
わたしは気付くと口を開けて、その様々な美しさに圧倒された。久方ぶりに感じるこの感覚が嬉しくもあり、楽しかった。ぼたんさんと視線が合うなり、わたしたちは笑い出す。すごいですね、そうだろ〜、ぼたんさんこれも似合いますね、ちゃんてば褒め上手だねぇ、そんな会話は尽きることがなかった。
ふと、一つの藍色の着物に目が留まった。それに気付いたぼたんさんが、着物に手を伸ばし取り出してくれる。

「気に入った?」
「…はい、とても」
「お目が高いねちゃん!藍色はね、深みとか賢者の色、なんて呼ばれる色だよ」
「賢者の、色…」
「アタシなら…帯はこれを選ぶかな」

そういって差し出されたのは、美しい銀色の長帯だった。冷ややかで、どこか品のある色。

「銀色には、知性とか才能とか、影、なんてイメージもあるみたいね」

どこで学んだんだろう。ぼたんさんはスラスラと色についてその意味を教えてくれる。藍色は賢者の色、銀色は知性、才能…胸の中で言葉を繰り返す。記憶の中で、誰かが動いた。


「…銀髪の、妖、狐……」


え?と、ぼたんさんがわたしの顔を覗き込んだ。本当に今自分自身が呟いた言葉なのだろうか。はっとして、心の中に言葉を押し込める。銀髪の妖狐。知性、才能、冷ややかな、影―
わたしは知っている。魔界で起きたこと、そして、24年前のかけがえのない日々を共に過ごしたあの人のことを。
呆然と立ち尽くしていたわたしに、ぼたんさんの口から思いがけない言葉が降ってきた。

「ね、ねえちゃん?もしかして、銀髪の妖狐って…」


蔵馬のこと?


蔵馬。銀髪の妖狐。妖狐蔵馬。
言葉を理解した瞬間、わたしはその場にへたり込んだ。ちゃん!とぼたんさんの声がするけど、足に力が入らない。どうして彼女が蔵馬さんのことを知っているんだろう。ううん、それよりもどうして、わたしはすぐに思い出せなかったんだろう。あの尊く慈しんだ日々を、どうして。
蔵馬、その名前を聞いた瞬間、昨日とは別の涙が溢れてくる。まさか彼の名前を聞ける日が来るだなんて思いもしなかった。研究所での日々、彼と過ごした時間、最後に交わした言葉。知性的で、才能に溢れて、時折冷たい影のような人―そのどれもが今、鮮明に甦ってゆく。

「ぼたんさん」
「なんだいちゃん?大丈夫?立てる?」
「わたし、お話ししたいことが…」

いつまでも、泣いてばかりじゃいられない。涙を拭い言葉を紡ぐ。
昨日の今日だからか、ぼたんさんは心配そうな顔で本当に大丈夫なんだね?と念を押した。
頷くわたしに力強く笑って、ならコエンマ様にお伝えしてくるよと言った。わたしは手に持ったままの着物とぼたんさんを交互に見つめると、それはアタシからのプレゼントさ!と彼女が言った。

「あの、でも、こんな素敵な着物…」
「いいんだよ!大事にしてやってくれたらさ」

着付けは今度教えてあげるから。ぼたんさんの強い説得に、わたしは有難く頷いた。






「ふむ。なるほどな」

ぽつりぽつりと話し出すと、溢れていく記憶があった。
昨日のように取り乱すこともなく、淡々と24年前の真実を思い出しながらコエンマさんに伝える。例に倣って椅子に座り、机の上で何かを書き込んでいくコエンマさん。時折わたしの方を確認しながら、ふむふむと相槌が聞こえる。わたしのすぐ後ろにはぼたんさんが立っていて、どこか心配そうにわたしとコエンマさんのやりとりを見つめていた。

「つまり、お主と冥花、そして蔵馬の3人は研究所内でやりとりがあったのだな」
「…はい。叔母と蔵馬さんはいつも仲良く口喧嘩したりして…」
「随分矛盾した関係だな」
「ふふ、そうですね…」

自分でもおかしいと思う。口喧嘩は仲良くするものではないし、コエンマさんやぼたんさんから聴く妖狐蔵馬は魔界の海賊として相当悪名高い。それなのに、冥花おばさんやわたしに見せる彼の姿は、もっと近しい存在だった。特に、あの頃のわたしにとっては。思わず笑ってしまう昔話。けれど、コエンマさんは頭を抱えている様子だった。

「あの…?」
「いや、まさかあの時代の蔵馬にそんな一面があるとは思わなんだ」
「…そうですか。彼の暗躍ぶりは間近で見たことがなかったので、悪い印象がないです」
「それは仕方のないことだ。だからといって達が匿ったことにもならんだろうし」
「そんなつもりは叔母にもわたしにも、微塵もありませんでした」
「ヤツ自身も、今は更生しているとは思うが…な」

コエンマさんが細い目をさらに細くして苦虫を踏みつぶしたような表情を作る。妖狐蔵馬。彼は、そんなに悪い人だったんだろうか。コエンマさんやぼたんさんの知らない蔵馬さんをわたしは知っている。指の先まで品があることも、優しく抱き寄せてくれた胸も。
ふと、彼の言葉が引っかかる。今は、更生。今は?頭の中に疑問符が浮かぶ。


「……ひょっとして、ご健在、なんですか…?」


信じられなかった。なぜわたしは、自分と冥花おばさんがいない世界には当然彼もいないと思ったんだろう。まして魔界なら、永く生きらえることは珍しくもなんともないのに。呆然と立ち尽くすわたしに、コエンマさんはそこに気付いてしまったか、といった表情だろうか。一度頭を掻いて、持っていた万年筆を机の上に放った。








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