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「ごめんくださーい」 少しだけ弾んだ声。 水分補給をしにたまたま離れの居間にいたオレは、コップを置いてすぐさま玄関に足を向ける。時間帯的にも、聴き慣れた声も、きっと―だ。 引き戸がカラカラと音を立てて開くと、蝉の声が一層強くなる。そこに立っていたのはやはりだった。日傘を畳みながら視線を上げる。 「おはようございます」 「蔵馬さん!」 戸を開けたのがオレで、は幾分驚いているようだった。 それもそうだろう。ここへ来て初めてオレが彼女を出迎えた。目をぱちくりさせてまじまじとオレを見つめる。自分でも、どういう風の吹き回しなのかさっぱりだった。もそう思うはずだ。けれどはすぐに微笑んで、これを、と手に持っていた紙袋を差し出した。 「水ようかんです」 続けては、人間界のお菓子はとても綺麗でいつも迷ってしまいますと言った。 袋の中から見えるパッケージの水ようかんは、確かに繊細に象られている。 「いつもすみませんね。彼ら、これを結構楽しみにしてたみたいです」 オレが本堂を指差してそう言うと、はどういたしましてと小さくお辞儀をした。 本堂ではすでに6人が稽古に入っている。この修行と称したやりとりも、魔界トーナメントの本番もそろそろだ。精の出る声が響き渡る本堂を見つめながら、少し間を置いてが、しばらく来れなくて申し訳ありませんでしたと言った。 きっとそれはこの差し入れを楽しみにしていたあの6人への詫びだろう。 オレが上がる様に促すと、は小さな動作で靴を脱ぎ、居間に上がった。 「今日は、仕事は休みですか?」 オレの問いかけに、が答える。 「今日は午後からなんです。皆さんのお昼ご飯を作ったら帰るつもりです」 オレの様子を窺うように言葉を選んでいるのか、ゆっくりと紡いで着地する。少し前ならその言葉に、彼女がここに長居することはおろか、差し入れを持ってくることにさえ良い顔が出来ない自分がいた。 それが昨日、の名前を呼んでから、嘘みたいに心の中の彼女にも、今目の前にいる彼女の一つひとつの言葉や仕草にも苛立たない。いや、それまでが過剰だったと思う。 逐一思い出される言い様のない虚無感や怒り。 あの日と再会してから、ずっと頭の中に研究所の事があって、冥花がいて、そしてがいた。そうしてオレはその現実を拒絶していた。まとわりつくのは赤黒い炎だ。 「そうしてくれたら助かります」 それなのに。 こんな言葉がつらつら言えてしまう程に、オレの中で何かが軽くなった。 最初はを見ることすら出来なかったのが、今はそれがなぜだったのかわからなくなるほど、に感じていたもやもやしたものはなくなってしまっていた。 オレの言葉には一瞬虚を突かれたような顔をしたけど、すぐに顔を明るくして嬉しさを溢れさせた。 「あの、蔵馬さん」 「はい?」 コップに入れた緑茶を彼女の目の前に置くと視線がかち合う。 「昨日は、その…送って下さって、ありがとうございました」 そう礼を告げた。律儀だなぁと思う。オレは小さく噴き出しそうになるのを堪えて、構いませんよと返した。その会話を皮切りに、はにこにこと他愛もないことを話し始めた。今日は良いお天気ですね。人間界の夏という季節は本当に暑いですね。 さも自分に舞い込んだ朗報を伝えるようなその姿を、オレは相槌を打ちながら楽しんだ。 でも、目の前にいるのは、24年前突然いなくなっただ。生きている実感を深めれば深めるほど、疑問が浮かぶ。 訊いてみたいことが沢山あった。知りたいことが雪崩れ込んでくる。 最後の夜、はどうしていたんだろう。なぜ彼女だけ助かったんだろう。襲撃者たちは?現在のあの場所は?が経験したことを何でもいい。彼女自身から訊かなくてはいけない気がした。 でも、訊けないでいた。 9月になった。だがそれだけで和らぐほど、夏の暑さは単純じゃない。 8月のまとわりつく空気をそのまま引き継いだような風が吹く。は今日も寺を訪れて、差し入れを持って来たり掃除をしたり食事を準備している。稽古の休憩ごとに鈴駒や酎が走ってやってきて、そのたびにも笑っていた。そんな光景を横目に、流れる汗を拭きながら不意にオレはコエンマの言葉を思い出した。 『は魔界での戦乱に巻き込まれ大怪我をした。それからずっと彼女の中で時は止まったままだ。なんせ人間界でいえば24年間眠っておったわけだからな』 途方もない年月を彷徨っていただろう。当然と言えば当然だが、今日まで彼女の口から具体的な当時の話は聞けていない。話すことで恐怖が甦るのか、はたまたオレへの気遣いなのかはわからない。どちらも、ということもあるだろう。 その全てをの口から聞いて、ようやく過去が清算されるはずだ。 けれど、オレが今さら訊くのも時機を逃しているように思う。そんなことを悶々と考えて、今日が過ぎていく。ここ数日ずっとこの調子だった。 「それじゃあ、わたし、今日は帰りますね」 ハッと現実に引き戻されてを見た。は相変わらずにこにこしていて、そんな彼女の言葉に鈴駒が、えー!もう帰るのかよーと反対の声を上げる。 は戸惑いながら、鈴駒の頭を帽子の上からぽんぽんと撫でて、また来ますねと言った。 その光景にチクリとした痛みが胸に走るけど、絶対に表面には出さない。こういうところは妖狐の頃から変わらない。 が立ち上がるのと同時にオレも車のキーを持って、送りますと言った。 「あー!蔵馬抜け駆けだー!」 「ズリィぜ蔵馬!!そやっていっつもおいしいとこ持ってきやがって」 陣と酎の非難を背中で受け流しながらと玄関に向かう。いいんですか?と心配そうに見つめるに、いつものことなのでと返す。するとがそうじゃなくて…と言い淀んだので、オレはピタリと足を止めた。 「ここ数日、いつも送ってもらってます…」 「オレがしたくてしてるだけです」 ぎゃあぎゃあと煩い居間の6人をよそに、が固まって、次の瞬間には耳を真っ赤にした。よく見ると首まで。 あぁ、こんな彼女の仕草を遠い過去の中で幾度が見てきた。ぼんやりとそんなことを考える。 外に出て寺の下に停めてあった車に乗り込むと、もわっとした空気が身体にまとわりついた。すぐにエンジンをかけて冷房を強にした。 「寒かったら言って下さい」 「は、はい。あの、」 「はい?」 ありがとうございます。きっと彼女はそう言うに違いない。オレはミュージックプレイヤーの再生ボタンに手をかけようとした。 けれど、放たれた言葉は大きく外れた。 「…今度、その…一緒にでかけませんか?」 顔を伏せてが言った。…言ったのか?でかける?が。オレと。頭の中で言葉が繰り返される。 まさかこのオレが虚を突かれる日が来るなんて思いもしなかった。しかも相手はだ。 若干の間を空けて、断る理由も特に見つからず、けれどオレがどうしたんだと問いかけるより早く、がさらに言葉を紡ぐ。 「お、お店のお客さんに、素敵な喫茶店と公園を、教えていただいたんです…」 だから、その。お散歩でもいいので。 体まで真っ赤に染め上げそうな面持ちで、はオレの答えを待っている。密かな驚きに口を閉じたオレを窺っている。 「いいですよ」 特に断る理由もない。返事をするや否や、は勢いよく顔を上げて目を輝かせた。 「あ、ありがとうございます!」 彼女の中のオレがまるで芸能人のようでおかしかった。 そこまで喜ばれるとくすぐったい。けれど嫌な気は全くしなかった。 「今日も、ありがとうございました」 ぺこりと頭を下げて、が礼を言う。 詳しい日時はまた改めて決めることにして今日は別れた。車を降りるまでほくほくとした表情のを見て、やはり疑問をそのままにしてはいけないと強く実感する。 なぜなら彼女の頬が染まる理由を、オレはわかってしまっている。 それは妖狐の頃―24年前のあの日から、が変わらず抱えている思いだ。 終わらせるためじゃない。はじめるためには、オレが避けては通れない道なんだろう。 |