頭の中で、もう何度思い返しただろう炎の色。

『今でも…その………薔薇の花は、お好きですか?』

舞い上がる火の粉と一緒に焼き尽くされてしまえばよかった。思いも言葉も、何もかも消えてしまえば、今になってこんな思いを抱くこともなかったはずなのに。
けれど結局、オレの何もかもが燃えることなんてなかったのだ。



「・・・・・ま。くーらーまー!!」

キンと耳を劈くような声に呼ばれて、はっとして顔を上げた。
ふと見れば鈴駒と酎が立っていて、その後ろに鈴木と死々若丸が並ぶようにこちらを見つめていた。今日も攻防の組み手をさせながら、そういえば鈴駒に「こういうときはどうするんだ?」と問いかけられていた気がする。
すまない、と一言呟いてから指示を出すと、なるほどな!と納得しながら再び組み手を開始する鈴駒と酎。
その様子を見ながらようやく自分がぼんやりしていたことに気付いた。

「めずらしいな、蔵馬」
「今のお前の首ならオレでも取れそうだ」
「すみません、ちょっと考え事をしていて」

苦笑するオレを心配そうな顔で鈴木が問いかける。

「どうしたんだ、最近」

蔵馬らしくないというか…。そう言葉を濁す鈴木。誰かに心配されるほど顔に出ていたなんて不覚だった。今までのオレにはないことだろう。
確かに最近のオレはどうかしている。暇さえあればぼーっとして、見ているはずの六人の指導さえ頭に入ってこないときがある。まったく、と頭を振って気を引き締め直しても、浮かんでくるのはのことだけだ。

そろそろ休憩にしようか。そう言い放ったオレの一声にそれぞれが動きを止めると、よっしゃー!と鍛錬中以上に気合いの入った声が境内に響き渡る。
とりあえず、休憩の合図と共に全員が食堂へと向かう。
すると鈴駒が冷蔵庫から何やら嬉しそうに箱を取り出した。「これ、美味いんだって!」そういってフタを開ける。中身は食べやすそうなフルーツゼリーの詰め合わせだった。
修行に付き合って5日が経ち、はほとんど毎日師範の寺へと顔を出す。
3日目はフィナンシェ。4日目はかりんとう。日々変わるからの差し入れが、寺に缶詰状態の6人にとって楽しみになりつつあった。けれど、受け取るのはいつもオレ以外の誰かだ。

がみんなにって、さっき持ってきてくれたぜ」

今日の差し入れ。オレをこんな風にさせる原因からの。


用意されたスプーンを片手にキッチンのシンクにもたれかかる。
6人はそれぞれ、扇風機を独占しあったりソファに寝転げたりしている。差し入れを持ってきた張本人の姿はなかった。
もしかしたら今日はもう顔を見せないのかも知れない。そこまで考えて、オレは思いを掻き消した。

それにしても、オレ自身もよく過去の話など事細かに覚えているものだ。
交わした言葉、かち合った視線、具体的な内容。どれも忘れたって構わないものばかりのはずが、どうしたって鮮明に思い出せてしまう。に会ってから今日まで、蘇ってばかりだ。
ゼリーを口にした瞬間、特有の涼しさと食感が広がっていく。おそらく体感温度は一度くらい下がっただろうか。グレープフルーツの酸味が今の身体にとても心地いい。あぁ、妖狐の頃の自分だったら、こんなこと思いもしなかった。
戦闘ばかりに身を投じて、やさしさの欠片さえ持ち合わせていなかった。あの頃のオレは確かに、を気に入っていた。
いや、それ以上の感情が芽生えていたのに。

「・・・・・・・」

スプーンを持つ手が自然と止まった。するりと頭に入り込んできた言葉に、オレはまばたきを繰り返す。
感情が芽生えていたなんて、随分と簡単に表せたものだ。気持ちを知りながら伝える術から逃げていたなんて、妖狐のオレが聞いたら青臭いと詰るだろうか。けれど、今さらそんなものを思い浮かべたって所詮は過去の感情だ。
第一、あまりに日が経ち過ぎた。一体何年会わずにいたというのだ。

言い聞かせるように言葉を飲み込む。だが、このゼリーを持ってきたのは自身であることに変わりない。それがとても不思議な感覚だった。
残りのゼリーを口に押し込む。後半はかけこんだせいでさほど味は覚えていない。




がぱたりと来なくなったのはそれからだった。
そのうち来るだろう。コエンマも、霊界で色々と手続きがあるのだと言っていた。そうはじめこそ気にも留めていなかったつもりが、2日、3日経ってもが来る気配はない。ついには一週間が経ったが、やはりは姿を見せることはなかった。

「なぁ蔵馬ァ、、どうしちまったんだろーな」

鈴駒が項垂れたように呟く。眠気のせいもあってか、その目に覇気がない。

「さぁ、何か霊界で頼まれごとでもあるんじゃないですか?」
「頼まれごと?」
「えぇ。きっとまた姿を見せてくれますよ」
「そ、そっか…うん!そうだよな!よーし!!オレ明日も頑張んぞー!」

おやすみ!と威勢良く布団に入る鈴駒をよそに、その言葉に納得させているのは自分自身のような気がした。
が来るようになった頃、オレはあれだけ億劫がっていたじゃないか。それなのに何だというのだ、この有様は。認めたくないと意地を張っても、オレの生活に確実にが馴染んでいた。それを証明する以外の何ものでもなかった。



8月が終わる。リフレッシュ休暇も合わせた3週間の夏休み。その半分以上を終えようとしていた。とはいっても、ほとんどが玄海師範の寺と自分の家とを行き来するだけだったが、結局、が姿を見せなくなってもう9日が経とうとしている。いちいち日数を覚えている自分自身にほとほと呆れてしまう。

今までは当たり前に過去の中に実在していた人間。大げさに気にしたことさえなかっただけの女。それが今さら、たった9日姿を見せないことが何だというのだ。気になどしてこなかった。
今までも、そしてこれからも、だ。
それなのに、なぜオレの視線は彼女を探しているんだろう。着替えを取りに戻る家までの道すがら、通り過ぎる街で、信号で。往来を気にして見ている。時計を見つめてしまう。
それがすでに気まぐれなんかじゃないことは、オレがいちばん理解しているはずなのに。
探してしまっている。オレは、彼女を。を。

「・・・・・・・

無意識のうちに口から漏れていた。このうねりを上げる海のような感覚は一体何だというのか。
が最後に来た9日前、そういえば彼女には会わなかった。そこまで気にかけていなかったし、鈴駒が冷蔵庫から取り出したゼリーを見て初めて、あぁ今日も来ていたんだということを知った。
だから特別何か騒がすようなことも、冷たくあしらうこともしていない。それこそ普段どおりの。そこまで考えて、ふと頭を振った。だから、どうして、そうやって、事細かく覚えているんだ。いちいち関連付けてはああでもない、こうでもないと。堂々巡りに神経が苛立つ。

「・・・・・ちっ」

舌打ちなんて低俗な真似、まさか今になってする日が来るなんて思いもしなかった。大体何なんだ。いきなり目の前に現れたと思ったら、突然消える。は何がしたいのか。もうこれ以上、こんな思いで振り回さないでほしい。もう関係さえないと思っていたのに。完全に、断ち切ったはずだと。
信号が青に変わるなりオレは必要以上にアクセルを踏んでエンジンをふかしてみせる。そんなことしたって、思いだけ置いていけるわけではない。

すると、次の信号で止まった瞬間だった。
見慣れない花屋。そこに、見慣れた姿が目に飛び込む。


だった。


ショルダーバックを掲げて、寺に来るときとは違う装いに身を包んでいる。いつも結ばれているはずの髪は下ろされて、少しばかりの化粧もしていた。人々の往来が多いこんな場所で何を。そう思うと同時に、信号が青に変わっていたことに気付いた。気付いた、というよりは後続車のクラクションに気付かされたと言った方が正しい。
ウインカーを出し、仕方なく路肩に車を止める。が大きな袋を両手に店内へ一礼すると、肩かけのバックが揺れた。

「…何してるんです」
「わ!?」

運転席の窓から声をかけた。全く気付いていなかったが驚いて声を上げる。その様子を見つめながら、魔界にいた頃にもこんなやりとりがあったと脳裏を掠めた。
あの時は確か、庭の生垣に夢中だったの背後から声をかけた。オレは夜に襲撃が控えていて、そのことでが苛立っていた日。
何もかもが燃えて消え失せた最後の日。
オレに死ぬなと言い残して、自分は目の前から消えた。それが今、同じ人間界で話をしている。

「蔵馬さん…」

かけられた声の正体に胸を撫で下ろすような声音。それもそうだろう。人間界に彼女を知っているのはオレかコエンマ、あの6人だけだ。
食い込んだビニール袋の取手のせいでのか細い手がさらに青白く映る。運転席を降りて何も言わずに荷物を取り上げた。ずしりと重みがかかるそれを後部座席に置く。
は「あの…」と戸惑いを見せていたが、構うことなくオレは助手席の扉を開けた。
無言の命令は何より絶対だ。


「…しばらく顔を出せなくて申し訳ありませんでした」

車を走らせるなり、沈黙を破ったのはの方だった。
そんなこと、別に謝る必要などない。オレが来て欲しいと望んだわけではないし、にだって霊界とのやり取りがあることくらい理解している。
それなのに、この苛立ちは一体何なのだろう。オレは今日まで明らかに不愉快だった。それは今この瞬間ももちろんだが、を見かけるなり、安堵も同居した。そんな自分に拍車をかけて不愉快になる。どうしてオレがホッとしなくてはいけないのだ。どうしてに一喜一憂を握られているんだ。…握られている?本当にそうなのだろうか。

でも、妖孤のオレなら有り得ない感情だったはずだ。

「あの荷物は何ですか」

出てくる言葉と思いが反比例していて気持ち悪い。そんなことはどうだっていいのに。は運転するオレの横顔を一瞥してからすぐに俯いた。「あれは…」そう小さな声で言葉を紡ぐ。

「土と肥料です」
「土と肥料?」
「はい。お花屋さんで不要になった土を頂きました。コエンマさんに聞いたら、人間界にはお花を売る専門店があると仰っていたので」

だからあそこにいたんです。はぽつりぽつりと喋り続ける。


「わたし、もう一度植物と関わりたくて。いつか、冥花おばさんのようになれたらって、あの頃はそんなことばかり考えていましたから…だからコエンマさんにお願いをして、8日前からあのお花屋さんでお世話になっています」


8日前。それはが寺に姿を見せなくなる前日だ。
あの日から今日まで、慣れない人間界で、慣れない仕事をこなすの姿は想像に容易い。がずっと来なかった理由は、それだけだった。別に気まぐれでも何でもなく、仕事だった。こちらを向いていないのをいいことに、オレはの顔を盗み見る。たしかにの横顔には、少しばかりの疲れが浮かんでいた。

「早く追いつきたいです。おばさんの背中に」

ひたむきでめげない。真っ直ぐに前を見つめては言った。その姿が記憶の中のと重なる。




いつも冥花の後姿を追いかけていた。
仕事になると叱咤され続けるを誰より間近で見てきた。あれはいつだったか。大きな争いが魔界内で頻繁に起きていた頃だ。
冥花は回診で研究所を離れなければいけなかった。当然、所内は一人で対応しなければならない。薬を求めて外にまで溢れ出る魔族を相手に、きっと慌てふためき泣くのだろうと踏んでいた。

けれどは違った。


「あなたはこの薬草を飲んで安静に」
「茎の部分から出る水分を傷口に垂らして下さい」
「大丈夫、良くなりますよ。念のため消毒しておきますね」
「他に痛みはありますか?」


気丈に振舞い一人ひとりに最善の処置を施す。冥花ほど手慣れた様子はないにしろ、不器用さが際立つほどでもない。土壇場で発揮する意地を見せつけられた気がした。困る姿を鼻で笑ってやろうと考えていたのに、まったく計算が狂った。

その後全ての診療を終えて、最後にオレがの前に立つ。すると突然、オレの怪我を見るなり今まで涙一つ見せなかったがぼろぼろ泣き始めた。

「す、すみません…」

唇を噛み締めながらは懸命に手当てをしていく。オレは何も言えなかった。どれほどのプレッシャーを一人きりで抱え込んでいたのか、簡単に見て取れる表情だったからだ。
腕に包帯を巻くの潤んだ目とかち合う。

「…っ、蔵馬さん…わたし……立派な研究員になります…」

はオレにそう言った。そんなことは前々から周知の事実だ。しかしは言ったのだ。まるで宣言するように。立派な研究員になりますと。





早く追いつきたいです。おばさんの背中に。

助手席に座る彼女はそう言った。あの頃のみたいなことを。みたいな表情で、声で──
信号が赤に変わる。ゆっくりとブレーキを踏んで、彼女に視線を移した。


「……?」


それは呼吸をするように。久しぶりに、その名前を口にした気がした。。オレの問いかけに不思議そうにまばたきをして笑う。

「はい」

澄んだ声音が突き抜けるようにオレの耳に響いた。今までのどんな言葉よりまともだった。瞬時に、記憶が頭の中をあざやかに巡る。
研究所で初めてその姿を見かけた時。薔薇が咲いたら見に来て欲しいと必死に紡がれた言葉。蕾ひとつにまるで命をかけるような情熱。オレに伝わらなかった思い。

あの頃のと今目の前にいるが、ブレることなく一つになった。









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