魔界にしては空気が澄んだ陽の当たる山奥に、その研究所はあった。
途中の山道にはこれといった目印や標識などはなく、研究所と称した平屋敷の入り口にぽつりと営業時間を知らせる看板が掲げられているだけの建物だった。


あくまで魔界の薬草に詳しい所員が切り盛りするいち研究所。


それでも、魔界屈指の植物研究者を一目拝もうと日々の来客は絶えなかった。
種族同士での抗争や紛争、地位と名誉の縄張り争いが今より盛んだったあの頃の魔界にとって、特許のない藪医者でもなんでもいい、ただただ増え続ける怪我人に藁にも縋り付きたい思いがあったはずだ。

医者という肩書きこそなかったものの、傷の治りが期待できる、いわば魔物たちの最後の砦。
決して桁外れの数の患者が来るわけではなかったが、常連はいつも治りの早さに笑みを零して帰って行ったし、精神的な部分で支えられていた者もきっと少なくはないだろう。

そんな魔界に属さない場所と相見えたのは、名が知られるようになってしばらく、オレが初めてその場所に立ち寄ったのがそもそものキッカケだった。




その研究所にいたのは気の強い女所員だ。
本当なら金品の一つでも盗むつもりでいたが、オレを見て怯むこともない女の、有無を言わせない雰囲気に圧倒された。

口うるさい冥花と呼ばれたそいつは、どんなヤツとも適度な距離が取れる有能な女だった。オレの身の回りを探るだとか魔界地区の管轄に引き渡すような素振りもまるでない。客は客だと割り切って余計な詮索を一切しないところもまた興味が沸いた。

以来身を隠すのに適した隠れ家のようなその場所に、
オレは暇潰しにと怪我もしていない身体を運ぶようになったのだ。



「ほら次の患者さん呼んであげて!チンタラしないの!」
「は、はいっ!」
っ、それ終わったらお薬出しておいてあげてね」
「わかりました!」

魔界で立て続けに起きた抗争後も、研究所はまるで別世界のように時が流れていた。

異変に気付いたのは、今まで男並みの仕事振りを見せていた冥花の隣に見たことのない女がいたのがはじまりだ。
汚れたものに触ったことさえないような手で怪我人に包帯を巻き、薬草を傷口に塗りつけていく。時には目を逸らしたくなるような怪我の具合に涙を溜め、懸命に踏ん張って手当てをしていた。

その様子を見ながらどこか征服欲に似た快感が背中を通り抜けていくのがわかって、喉の奥で笑いを噛み締めるのに忙しなかった。暇を持て余すオレはただ研究所内の椅子に腰掛けているだけなのだが、当然女の手伝いなどするはずもなく、てんてこ舞で泣きそうな表情に意地の悪い考えが思い浮かんでは消え、押し寄せては引いていく。

けれど、患者が来ればあーでもないこーでもないと冥花にためらいもなく叱咤されながら、助手の女は簡単にへこたれた様子を見せない。 それどころか来る客去る客にいちいち笑顔を振りまいて、照れたようなその態度がやけに支持を得ているヤツだった。



「あたしの大切な姪よ」

名前は。男勝りな冥花が目を細めて告げた。



けれど、そのは死んだ。
冥花共々、もう何十年も前に。人間界に来る前のずっとずっと過去の話だ。経験上、記憶は実体化して遡ったりはしない。


それが今、オレの目の前に、同じ世界に、はいる。




「……どういうことですか」

6人に休憩をとらせる形で離れへと移動させた。をその中に置き去りするように座らせたものだから、きっと今頃あの6人との間には奇妙な空間が生まれている頃だろう。
酎あたりが手を出さなければいいが。そう思い留まってオレとコエンマは本堂の壁に寄りかかりながら話を続けた。
声を上げれば裏返りそうな喉を、潤すように唾を飲み込んでゆっくりと問う。
何から話せばいいものかとぼやくコエンマをよそに、オレはただじっと耳を澄ませていた。


「二週間くらい前かのう…憩魂室内の動きが騒がしくてな。なんでもとある魂が目覚めたとかで当然ワシの耳にも入ってきた。 先程も言ったが、その部屋に置かれている魂のほとんどが生と死を彷徨い続けておって、滅多に魂が意識を取り戻すことはない」
「……」
「色々と手続きもあるからな。とかく話を聞こうとワシの部屋に案内して、彼女の今までの経緯を話しておったときじゃ。忘れかけていた記憶の一部を思い出したとが呟いたのは」
「…忘れかけていた?」

コエンマはオレではなく、本堂の床の間を見つめて言った。


「うむ。は魔界での戦乱に巻き込まれ大怪我をした。それからずっと彼女の中で時は止まったままだ。なんせ人間界でいえば24年間眠っておったわけだからな。もちろんお前が人間界に追われて来たことも、南野秀一となって生まれ変わったことも知らない」
「……」
「眠れる魂がどこを彷徨うのかはワシにもわからん。…が、ずっとずっと一人だった。蔵馬、お前がを死んだと勘違いしていたのも無理はない」


ずっとボタンを掛け違ったまま現在に至るのだからな。
コエンマがそう言うと、つい昨日までの仕事の日々さえ懐かしく思えた。
魔界での戦乱、人間界に来たばかりの頃、今の自分―
それこそ、どれもずいぶんと昔のことだ。やけに耳に響く言葉ばかりが並ぶ。


「…話を終えて銀髪の妖狐と言われたときはまさかとは思ったが…ひょっとして蔵馬のことかと問いかけたら、のヤツ、なんと言ったと思う?」
「…さぁ」
「目を見開いて言ったよ。"ご健在なんですか?"とな」


少しだけ自嘲するように言葉を紡ぐコエンマ自身、この現状を受け止めることに精一杯努めようとしているのだろう。

死んだと思っていた存在が生きていた。
意識こそないものの呼吸を携えて、今日まで、ずっと。

当事者のオレさえどこか客観的に聞こえてしまう笑えない御伽噺みたいだ。


南野秀一として生まれて24年の月日が経つ。その長い年月をは誰にも気付かれないように静かに眠っていた。オレがコエンマから初めての怪我や欠けている記憶があることを聞いたように、彼女もまたオレが魔界から姿を消したことも、生き延びたことさえ知らないまま。

常識的に考えて到底短いとは言えない時間だ。どの事実もあまりに逸脱している。
それなのに、突きつけられた突然の宣告を、現実として受け止めろというから無理な話だ。


「6人の指導を兼ねてなどと、試すような真似をして悪かったな」
「いえ…そうでもしなければオレが来ないと思っただけでしょう」
「…やはりお前に嘘は通じんか。まぁ、こう言っていいものかわからんが…」
「え?」

コエンマはバツの悪そうな表情で、隣に立つオレを見つめた。


には、頼れるヤツはお前しかいないんだ。色々と世話になるかも知れん」


オレたちの間を沈黙と蝉の声が抜けていく。
先程まで蒸し風呂だった室内が、日が暮れて嘘のように心地よかった。



今日のところはは責任を持って連れて帰ろう。そうコエンマは言った。その言葉に少しだけ反応を見せると、コエンマは気付いたようになんだと訊ねた。いえ、何でもないです。返事をすると、離れに着くまでお互い口を閉ざしたままだった。6人とのいる一室の襖を開く。

一瞬、ソファに座っていたが振り返ると視線がかち合った。

「お疲れ〜って、コエンマ!来てたんか!」
「おぉお前ら元気そうだな。どうだ?訓練一日目は」
「もうばっちりよ!妖気もビンビンだぜ!」
「蔵馬の訓練は地獄だが成果も目に見えるからな」
「ほほう。なかなか繁盛してるじゃないか、良かったな蔵馬」
「それはどうも。みんな待たせてすみません」

みんな。その言葉の中にはいない。気付いているからか、も何も言わなかった。
コエンマが帰るぞと促すと、は小さく頷いてソファから立ち上がる。横目に映すだけでその姿を視界が拒もうとする。この状況が、今なお理解できない自分がいた。

「お邪魔して、すみませんでした」

昼間なら蝉に掻き消されてしまいそうなほどか細い声音。
その場にいた誰もがの存在に疑問を持っているはずだったが、誰も訊ねるものはいない。
けれど、儚げに微笑みながらぺこりとお辞儀をするその姿に、見たところ6人は好感と興味を抱いている様子だった。

「では、またな。お前らもよーく訓練してもらえよ」
「わぁーってるって!今度こそ決勝目指してっからな」
「うわぁ、酎ってばそれは言いすぎなんじゃねえ?」
「んだとぉ!?」
「まぁまぁ。コエンマ、蔵馬への仲介役ありがとな」
「うむ。精進しろよ」

背中を向けてひらひらと手を振るコエンマの後ろを、そっと追いかけるようにが歩く。
お嬢さんもまた来いよー!と言った酎の一声に、は遠慮がちに振り返って頭を下げていた。
その光景を見つめながら、今日知った事実を頭の中で何度も繰り返してみるものの、なかなか上手くいかなかった。

「オイ蔵馬!おめえやっぱ一人身じゃねえな!?」
「なぁなぁあの子誰だよ!?蔵馬の女か?」
「可愛らしい人だな。あまり話す方じゃないが…」
「ふん、くだらんな」
「そういう死々若丸だって結構気にしてたくせに」
「コエンマが連れてきたのか?」
「コエンマの女…?まさかな。自慢しに来たわけでもねーべ」
「てことはやっぱり…」

あらぬ視線を投げかけられて、オレはようやく話の意図に納得する。自分自身未だに受け止め切れていない事実を彼らにどう説明すべきか悩んだ。とりあえずは誤解を解いて、またも6人の期待を裏切る結果にようやく少しだけ笑えそうだった。

「なんだぁ、違げェのか」
「あんなにイイ女放っておくたァよ、罪な野郎だぜ」
「また来るんだろうか…」
「来るんじゃねえか?蔵馬も知り合いなんだろ?」
「…まぁ」

やはり。予想以上につまらないと顔に書かれた6人。
ただ、オレしか知らない現実を置き去りに、さっきまでその存在さえ知らなかった彼らの口からの話題が出ることが不思議でしょうがなかった。

言い換えれば気に入らない。

同時に、やはりこれが現実であることを知らせていた。
数時間前から躊躇っている。オレは、と向き合うことを、きっと。

泊まり込むつもりで持ってきていた荷物を本堂に取りに戻った。
もうずっと忘れていた24年間分の感情を、今日一日で使い果たした気がする。







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