迫りくる足音。逃げる姿は差乍ら脱兎だ。躓いて土手から転げ落ち、そのまま川へと流される。
 一番大事な記憶がどうしてか思い出せない。わたしはどこにいたんだっけ。誰かと何かをしていたんだっけ。笑い合える大切な居場所が出来たはずなのに。




 溺れる―そんな死に近い感覚を覚えて目を開く。
 げほげほと下品に咳込むと同時に大量の水分が口元から溢れた。けれどそこは川どころか外でさえない。い草や古びた家具の匂いが混じったどこかの室内だった。正確には和室と和室の間にある欄間から縄で吊し上げられている。
 畳の上には吐き出したばかりの水分が零れ落ちていて、この光景もまた夢かと疑った。けれど体中に食い込む縄の痛みがそうではないことを知らせている。
 ぜぇと浅くなった呼吸を整えるズキリと肺のあたりに痛みが走る。どこだろう、ここ…。誰かに何かをされていた?ふと、自分の口の周りが乾くにつれてべたついていく感触に気が付いた。感覚が少しずつ正気を取り戻してゆく。口内に何らかの苦みを感じる。お酒でも飲まされたのだろうか。


 「起きたかえ」


 その時だった。隣室の襖が開き、一人の見覚えのある女が現れる。表情には幾分疲れが滲んで、恨みがましくこちらを睨んでいる。結われた髪はこじんまりとまとめ上げられ、肩を出し、胸元はこれでもかと強調されていた。一見立派な打掛の裾を引き摺りながら歩くこの女…ついこの間確実に見た顔だ。頭の中を総動員させて考える。

 「堪忍してえな。アンタのせいでわっちの相手いなくなってしもたやないの」

 聞き慣れない独特な口調。わっちの相手。どこで……


 「まだ寝ぼけてはるん?野良犬はん」


 野良犬。そうだ、この女は芸者の…一つずつ点が繋がっていく。

 何者かから身を隠そうと必死に走った。
 茂みで息を潜めるはずが、意外にも身を置く場所が小さいことに気付けず、後方の傾斜に足を取られ崖から転げ落ちたのだ。幸いにも木が緩衝材の役目を果たし、怪我は全身切り傷程度で済んだ。目が覚めるとそこは戦場の跡地だったようで、空には大きな満月が浮かんでいた。
 いつもより明るい夜空も手伝って、おそらく戦勝軍側の呑めや唄えやの大宴会が催されていた。誰かに見つかる前にその土地を後にしようとしたところで、包帯の男に「陣左」と呼ばれていた若い忍びと謎の面をつけた男に捕らえられた。そうして屋敷の庭に敷かれた茣蓙の上、包帯の男から尋問を受けていた時、この女は傍らで笑っていた。人のことを野良犬みたいだと蔑んで。


 「あらぁ嫌やわ。こんな状況で何ですのん、その目つき」


 思い出したら急に腹が立ってきた。この女に対してだけじゃない。勝手に薬学帖を覗かれ、大切な筆を何度も何度も放ったあの包帯の男にも。
 けれど、吊るされたこの状況では平手打ちはおろか身動き一つ取れない。軋む欄間を無視して、ゆらゆらと振り子のように情けなく揺れるだけだった。
 おお怖い!女が打掛の袖を扇子代わりに口元を隠しケラケラと笑った。睨まれても何を言われても、こんな姿を晒す相手を前にすれば余裕で躱せるからだろう。不意に女がわたしの顎を強く掴んで持ち上げた。揺れが止まり、視線が交わう。


 「身動きも取れんと、悔しおすなぁ?いい気味やわ」


 そう言ってぐいと口元に徳利を近付けると、強引に何かを含ませてくる。予想もしない行動にわたしは再び咳き込んだ。けれど無理やり顔を上に向けられて、今度はそれらを大量に飲み込んでしまう。く、苦しい…!数本ある徳利を持ち替えては苦みのある酒のような液体を執拗に飲ませてくる。息継ぎができない。咽て逆流した液体が口や鼻から溢れる。その様子を見た女が下品でお似合いやねと満足そうに微笑んだ。嗚咽や呼吸が荒くなると声とは言えない音が出た。でも今はそれどころではない。


 「げほっげほ…っ、げえ…んぐ…っ」
 「これはね、良薬なんよ。雑渡様は相手をしてくれへん。ほなら野良犬で遊ぼうか思うて」
 「けほ……っは、ん…げほ…」
 「そろそろさっき飲ませた一陣が効いてくる頃や」


 女の、嘘みたいに赤い紅を引いた唇がわざとらしく弧を描くのと同時だった。ぐわんと頭の中が鈍く響く。な、なんだろう、これ……。首を支える力が入らず、思わず仰け反り頭が後ろに倒れた。次に襲ったのは急激な体温の上昇。全身がまるで炎の中にいるかのように、頭の先から爪先までカッと火照り始める。

 「ほうら、な?体がぽかぽかしてきたやろ」
 「…っ、はぁ、…は、」
 「可哀想に。今からもっと恥ずかしいことされんねんで」

 言いながら女がわたしの頬に指を滑らせた。それだけのことなのに、びくりと肩が竦んでしまう。どうしたんだろう、何を飲まされたんだろう。どうしたら元に…頭ではわかっているのに体中が疼く。
 女が正面に立った。蹴飛ばせばいいものを力が入らず、そもそも抵抗しようという気が失われてしまっている。その手が小袖の裾にかかる。ゆっくりとたくし上げられて、いよいよ太腿が露になった。


 「綺麗な肌…野良犬のくせに憎たらしい子やね」
 「っ!」
 「首振ったかて無駄やで。身体は触れてほしゅうてしょうがな…」



 「随分とお楽しみだねえ」



 女の背後から突然降って来た声音。ピンと空気が張り詰めるのがわかる。
 強く瞑っていた瞼を開くと、そこにいたのは昨晩わたしを尋問したあの包帯の男だった。忍び装束とは違う着流しに身を包み、片手に煙管を携えている。
 わたし以上に、目の前に立つ女の方がこの状況に驚いていた。女から男の姿は見えていない。ぼんやりと映す視界からでもわかる位、男は、静かに怒気を纏っていた。

 「ざっ…、雑渡さま……」

 女の肩越しに一歩一歩こちらに近付いてくるのが見える。畳の上でも足音一つ立てなかった。慄いた女が青褪めた顔で後退る。雑渡様と呼ばれた彼は傍にあった火鉢に煙管を置くと、構うことなくわたしの横に片足立ちをした。もう片足の太腿部分でわたしの腰を、片手で背中を支えながら欄間を見上げ、複雑に固定されていた縄をするすると解いていく。強い握力と体幹。完全に支える力を無くした縄が畳に落ちるより早く、男はわたしを姫抱きしそっとその場に下ろしてくれた。邪な思惑など微塵もないのに、触れられた箇所がじんわりと熱を帯びていく。男は足元に転がる徳利を一瞥する。


 「こ、これは…、違いますのん雑渡様…!これは、その…」
 「…去ね。私は今ここ数年で最も機嫌が悪い」


 無論お前のせいでな。ぞくりと背筋が凍る声色。獲物に狙いを定める目つき。ひっ、とまるで蛇に睨まれた蛙のように女が和室から走り去った。わたしはその様子を上がり続ける体温を感じながらただぼんやりと見つめることしか出来ない。
 自分の体がおかしい。今までだってこんな…情欲に駆られる思いを抱いたことはなかった。獣にでもなってしまったのか。


 「…済まない。怪我はないか?」


 心配そうに男の手がわたしの頬に触れる。随分熱いな。男が言った。その瞬間全身がまるで性感帯にでもなってしまったのではないかと思うほど粟立つのがわかる。誤魔化すように強く首を振ると、安堵した男がため息を吐いた。向けられた視線にすらびくりと反応してしまう。
 まさか心配されたり、謝られるなんて思いもしなかった。逃げ慄いた芸者のしたことで、決して包帯の男が悪いわけじゃない。先程まで腹が立っていた男にこんな感情を抱くだなんて、わたしはあの芸者に飲まされたお酒のせいで気が触れてしまったのだろうか。言葉が出ないことがこんなにも恨めしい。

 「すぐに水を」

 立ち上がろうとする包帯の男。行かないでほしい―気付いてほしくて着流しの裾を噛んだ。そんなことまでしてどうにかしてほしいと思うくらいには異常だった。だって、目の前の男はわたしの大切な筆を何度も何度も中庭の草むらへ放り投げては、息を切らすわたしを見て面白がっていた人間だ。意地が悪いに決まっている。そうわかっているはずなのに、何故救いを求めてしまうんだろう。頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。しまいには涙が溢れた。こんな姿、絶対に見られたくないのに。
 引っ張られた男が振り向き、驚いた様子を見せる。お願いだからどこにも行かないでこの体を慰めてほしい。どうかおかしなこの気持ちを収めてほしい。言葉を忘れた女にはひたすらに男を見つめることしかできなかった。鼻から抜ける空気がとてつもなく熱を帯びている。

 「野兎、お前」

 男が呟く。野兎。おそらくわたしのことだろう。野良犬よりは幾分呼ばれ心地がいい。そんなわたしの心情を知る由もない男が足元の徳利に手をかけ、確認するように匂いを嗅いだ。


 「…催淫薬か」


 厄介なことになった。男の顔がそう語っていた。








 「…っ、んん…!」

 太腿の裏に触れた男の大きな手がさらに足を広げさせる。小袖の裾はほとんど意味を成していない。正面に回れば秘部は丸見えだ。お産のような格好に恥じらいがよぎる。けれど、それすらも今は欲を誘発させる起爆剤でしかなかった。
 適当に見繕った座布団の上に男が座り、その足の間で膝を立て、男の胸元に背を預けるようにして座らされていた。上半身の縄は解かれないままだ。後ろ手に縛られた両手が男の腹に当たる。

 「は、ぁ…っ!」
 「…もっと力を抜け」

 骨ばった長い指が閉じた花襞を開かせる。男の指は熱かった。火傷の後遺症だと言う。着流し姿はより一層火傷の影響が見て取れたが、男はそれ以上は何も言わなかった。その熱に余計浮かされてしまう。
 隠れた秘芽に触れ優しく擦ったり、強く摘ままれたりしながら、宛がわれた快楽にしとどに濡れていた割れ目が悦びの涙を流した。ビクビクと腰が跳ね足を閉じようとした。男はそれを妨げるように、両足をわたしの脛の上に置き力を込める。
 かと思えば、引っ込めた手が今度は胸元に食い込む縄に移った。双方の膨らみの部分だけが強調されていて卑猥だ。衿幅を緩め、小袖がたっぷりとしたのを確認すると、男が縄の間から胸を肌蹴させた。余った布地は縄の下に仕舞われる。熱のこもった小袖の中から突然外気に触れた胸の先端がぴんと張る。けれどそこには触れてもらえず、男の指はたぷんと揺れる膨らみを堪能するばかりだった。

 「んっ、っ…はぁ、は」
 「そう逸るな……ほら」
 「っ!?はぁ、ん──っ!!」

 焦れったかった指の動きが先端の芯に触れる。コリコリと親指と人差し指の腹で捏ねられて思わず吐息が漏れた。目の奥に衝撃が走ると同時にずるりと男の胸にしな垂れかかった。はぁはぁと苦しむ一人の女を前に情けの奉仕だ。慕いもしない女相手に、男だってしたくてしてるわけじゃないことはわかっている。こんな役目をさせてしまったことに罪悪感だってある。本来は慕い合う誰かとするべき行為だった。

 「は、…はぁ、…っ、は」

 けれど、行為に直結する以外男の手つきは優しかった。息も絶え絶えなわたしに呼吸が整いやすくなるよう鍛え上げられた胸元で背中を支えてくれていたり、額に張り付いた前髪をどかしてくれたり。穏やかな口調も手伝って、意地が悪いだろうと決めつけていた男に安心して身を委ねてしまう自分がいる。

 「野兎」

 男の中でのわたしの呼び名だ。そうして今度は男の指が太腿を撫で上げながら再び秘部に辿り着いた。一度達したはずの体はすぐに熱を取り戻し、ぞくぞくと快感が駆け上る。これから何をされるのか想像してしまう。ひとしきり入口を弄んだ後、男は苦しいだろと言って指を一本埋めた。燃えるような熱を携えた指をいとも簡単に飲み込んでしまうことが屈辱的だった。この悔しさは男にも伝わっているはずだ。こんな姿を見られたくない。それなのに、体勢のせいもあり、男の指の動きが嫌でも視界に映る。顔を上げて目を瞑ると、口元からだらしなく唾液が流れた。


 「…イけ」
 「ふ、っ!───〜ッ!!」


 色を含んだ言葉攻めは二人だけが知る秘め事で。男の吐息交じりの声が耳元を掠めるたびにもどかしく、下腹部が焦れる。こくんと従うように上下に首を振り頷くと、暴れまわるように荒々しかった熱が男にも伝染したのか、指がぬぷりと音を立ててもう一本埋められた。規則的に上壁を押し上げるように動かされると、わたしの体が一層大きく仰け反った。


 「私以外の前で啼くなよ野兎」


 指の動きを止めてもらえず、腰までも強く掴まれ、逃れられない初めての刺激に透明な飛沫が溢れ出る。敷いていた座布団に淫靡な染みが広がっていった。







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