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こんなにも美しい夜長を託されたのは、中秋の名月と鳴かない一匹の雌兎。 迷信を信じ込む人間は滑稽だ。けれど、興に乗れぬ人間はそれ以上に救いようがない。もしもあの月で兎が暮らしているなら、餅の一つくらい搗けるだろう。言うことをきかない兎なら首根を掴んで放り投げてしまえ。さもなくば、芸でも仕込んで一生檻に閉じ込めたらいい。 忍ぶことも許されないほど明るい夜だった。濃紺の空に浮かぶ雲の流れまではっきりと見て取れる。陣左がすっと隣に膝をつき、私の耳元で囁く。 「何者かが迷い込んだようです」 猪口を眺めながら短く返事をすると陣左はすぐにその場を退き、私にしな垂れかかっていた女が、なぁに?と甘ったるい声を上げた。 タソガレドキ軍が戦に勝ち、珍しく忍隊にも芸者の女が宛がわれた日に限ってこうだ。尊奈門や他の連中は酒に呑まれ、芸鼓よろしく座敷遊びに興じている。あれではどちらが芸事を披露する側かわからない。その姿を廊下から横目で確認した私に気付いて、尊奈門が声を掛けてきた。 「あれぇ、組頭。どちらまえー?」 半分ほど開いた目と回らない呂律。こうなった人間には何を説明しても無駄だろう。私は片手を上げ、なんでもないよとだけ返した。これ以上は関わるなという意味も込めて。 後ろからは置いてきたはずの芸者がわっちを置いていくなんてとへそを曲げながらついてきていた。あしらうのも面倒で、ひとまず流れに身を委ねることに決めた。 ![]() 障子を開き、縁側を挟んだ外側に一人の女が座らされていた。茣蓙の上で正座をし、後ろ手を縄で縛られ俯いている。その女の斜め前に陣左が立ち、私の気配と足音に気付いた二人の視線が一斉にこちらに向けられる。 「ご苦労だったね陣左」 「いえ」 労うと陣左はそれ以上口を挟まない。こいつは私の所作や言動一つひとつの意味を汲み取ってくれるから楽だ。一方で、私の後を追ってきた芸者は腰を下ろすと、この状況に興味津々と言った様子だ。 「なんですのん?これから何が起きますのん?」 私の腕を引っ張り鼻息を荒くする。審尋するだけだと言っても隣に座ったまま芸者は退く様子を見せない。私は痺れを切らし、まずは捕らえた女に問いかけた。 「で、君は?」 「………」 女は何も言わない。視線を落とし口を噤んでいる。女の言葉を待つ間、その身なりや様子から考察してみる。所々破け、汚れた小袖。顔や腕、肌蹴た足には擦り傷がついている。髪は元々は綺麗だろうに型崩れして見栄えが良くない。敗戦側の人間が、戦勝軍側の陣地と知らずに迷い込んだ。そんなところだろう。待てど暮らせど言葉を発しない女に、先程からこの調子でして…と陣左が補足した。 「それは?」 「此の者の所持品です」 ふと、正座をさせられている女の前に一冊の書物と一本の筆が置かれていた。私の視線に気付いた陣左がそれら一式をこちらに寄越す。 そのとき初めて女の口があっと象られたので、私は筆を遠くに放り投げる。驚いた様子の女は立ち上がり、筆を探しに走った。手を縛られて走りづらそうなのと、いくら満月の夜といえ少し伸びた草の中から筆を探すのは大変そうだ。女が筆探しに夢中になっている隙に書物の中身を確認する。書物だと思われたその冊子の中身は、何やら手書きで文字や挿絵が描かれている。よく見るとそのどれもが薬草や薬の調合に関してだった。 手が使えなかったためか筆を口に銜え、息を切らしながら女が戻ってくる。 「は……はぁ…っ」 「すごいね。その女が持ってたの?」 「はい。タソガレドキへの密偵や回し者の疑いがあったため捕獲しました」 聞こえているはずの私や陣左のやりとりにも反応がない。私は座敷を降りて女の前に屈む。覗き込むと、身なりとは対照的に綺麗な瞳をしていた。怯えている様子はないが、眉根が困っていた。結ばれていた薄い唇につい加虐心が芽生えてしまう。 銜えていた筆を少し強引に引っ張る。そうしてもう一度投げる振りをした。再び女が驚いたような顔をする。それが面白かった。 「!」 「話したら止めてやる」 そう言って再び筆を放る。女は立ち上がり、同じように探しに走る。そうして三度、四度と繰り返した。けれども女は頑なに口を開かない。筆を銜えて戻ってくるたび、芸者がきゃっきゃと下品に笑い「野良犬みたい」と言った。野良犬?どこがだ。私にはあの満月から溢れて落ちた野兎に見える。杵も臼も失って、餅さえ搗けない哀れな野兎。帰る場所も伝えられる言葉も無いのだ。 「喋る気になったかい?」 「っ、はっ、は……ぐっ」 乱れた呼吸もそのままに、七度目に筆を銜えて戻って来た時、野兎が初めて私を睨んだ。泣くまいと耐える潤んだ瞳にぞくりと快感が腰元を走る。けれども彼女は蹲り、ついにはその場で気を失ってしまった。 (「組頭やりすぎです…」陣左の声で我に返る) Favorite♡ next |