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沈黙は雪に覆われた冬の森のようだった。一見表面は静寂で包まれていてもその下では生命が息づいている。冷たく見える外見とは裏腹に、その胸の内に秘められた温もりは春を待つ新芽のようにいつしか芽吹き、花開く時を待っている。 彼の内面の深い思索と豊かな感情にもっと触れてみたいと思った。 「ごめんください」 「はいはーい」 立派な棟門の分厚い潜り戸を叩くと、中からすぐに男の人の声がした。いつもなら無断でくぐるのだが、戸を隔ててすぐ向こう側に庭掃きをする箒の音と人の気配があった。 「どちら様…って、ちゃん!」 「小松田くん!おはようございます」 おはよーございまぁす。ふにゃりとした声音が弾む。小松田くん。忍術学園の事務員さんだ。温かそうな首巻きをしているけれど、鼻先は少し赤かった。 潜り戸を開けてくれた彼から入門票と筆を受け取る指が悴んでいた。まだ朝夕は肌寒い卯月上旬。冷たくなった指先にはぁと息を吹きかけて温めた。効果があったのかわからない字で氏名を記入しながら、再度小松田くんにそれらをお返しする。 「そっか、今日は野菜を届けてくれる日だもんね」 言いながら小松田くんは自身で頷いている。忍術学園はわたしにとって重要な取引先だ。学園長先生と食堂のおばちゃんに、わたしの作る野菜や香の物を甚く気に入っていただけたおかげで、二、三日に一度こうして食材をお届けしている。村から歩いて四半刻ほど、道中の前半は比較的平坦な道であることも有難かった。 「あっ!いけない!」 「え?」 「食堂のおばちゃんに頼まれごとをしてたんだった!ちゃん少しここで待っててー!」 突然何かを思い出し遠退いていく小松田くん。けれど彼はすぐに踵を返して、ぜぇぜぇと息も絶え絶えにわたしに入門票と筆を差し出した。 「はいこれ!誰か来たら書いてもらうようにお願いして!」 「あ、え、あの…」 「すぐに戻るから〜!」 自分で掃き集めたであろう桜の花びらを再び散らしながら、小松田くんの背中がどんどん小さくなっていく。ぽつんと取り残されたわたしは彼のドタバタぶりに笑いが遅れてやってきた。 「ふふ…小松田くんらしいなぁ」 相変わらず騒がしくて面白い人だ。わたしの行先も食堂なのに、あの様子からしてそんなことは頭からすっかり抜けてしまっているんだろう。幸いなことに忍術学園は山奥に佇んでいる。そのためこの時間帯は特に人の出入りは激しくないことを知っていた。このお仕事を始めて半年が経つけれど、知る限り出入りがあるのはわたしのような食料調達の関係者や学園長先生のお知り合いくらいだった。 どうせ誰も来ないだろう。かと言って時間を持て余すのも居心地が悪かったので、渡されてしまった入門票をひとまず門に立て掛け、先程まで小松田くんが持っていた箒を拾い上げた。彼の動きに連動するように散らばった桜の花びらを再度一ヶ所にかき集め、区切りのいいところで空を見上げる。ぼんやりと朧げな卯月独特の空と優しい淡い桃色が学園中を彩っていた。桜の咲く季節は少し薄暗い時間から村を出ても怖くないから不思議だ。 「すみません」 夜道は夜道で夜桜が月明かりに照らされていて美しいし―そんなことを考えていた時、不意に誰かに声を掛けられる。誰も来ないと決めつけていたわたしは驚いて肩を竦め、振り返ると同時にまじまじとその人を見つめてしまった。 「あ……」 「…?私の顔に何か?」 「あ、いえ、…」 鋭い瞳に問いかけられ、思わず目を逸らしてしまう。すぐに門に立て掛けていた入門票と筆を慌てて彼に手渡した。何故わたしが小松田くんの代わりに入門票を管理しているのか。一瞬そんな表情をされたけれど、彼は入門票を受け取ると何も言わず慣れた手つきで氏名を記入していく。 「どうも」 「あの…」 続く言葉もないのに彼を引き止めて、驚いたのはわたし自身だった。彼は眉一つ動かさずこちらを振り返る。何か言わなきゃ…!逸る気持ちが言葉を急かす。 「さ、桜、綺麗ですね…!お団子が食べたくなります…」 言葉尻が小さくなる。ああもうほんとに何を言ってるんだろう…穴があったら入りたい…!初対面の、しかも学園の人間でもない女にそんなことを言われて彼は大層訝しんでいるに違いない。恥ずかしさを誤魔化すように笑うと、目の前の彼は桜の木を一瞥してから再度わたしを見据えた。 「そうですね」 そういって少しだけ微笑むと、すたすたと長屋のある方へと歩いていってしまう。無意識のうちに懲りずに彼を引きとめようとしていた手は、持っていた入門票と筆に呆気なく阻止された。 ![]() 「あ、利吉さんいらっしゃったんだ」 しばらくして戻って来た小松田くんが入門票を受け取りながらそう呟いた。わたしの氏名の下に達筆な文字で山田利吉と書かれている。もしかしなくとも先程の彼のことだ。小松田くんの反応から、忍術学園にはよくいらっしゃる方なんだろうと窺い知れる。 忍術学園まで往来して半年が経つ。けれど、それまで彼には一度もお会いしたことがなかった。二、三日に一度、明朝のやりとり程度で帰路につくのだから無理もない。それでもお魚を届けに来る兵庫水軍の皆さんや、お寺の和尚様、他校の先生方にはお会いしたことが何度かある。比較的学園関係者の知り合いは多い方だと思っていたけど。 「利吉さん、はどんな方?」 「へ?ちゃん、利吉さんにお会いしたの初めて?」 「う、うん」 小松田くんが首を傾げる。気まずいことは何も無いはずなのに、どうしてか心が落ち着かない。わたしの興味とは裏腹に、小松田くんは特に気にも留めていない様子だった。曰く利吉さんは凄腕の忍者で火縄銃の名手で変装もお見事。忍術学園の生徒なら誰もが憧れて、町娘にも大人気。 「うちでもみんなが一目を置く人だよ〜。くノ一だって!」 同業や同性の忍たま達からはもちろん、女性人気も伝わってくる。もう一度利吉さんの顔を思い浮かべてみるけれど、やっぱり…本当に、素敵な人だった。 整った眉、切れ長の目、漆黒の髪の毛。通った鼻筋に口角の上がった口元。背丈はわたしよりも幾分高くて、細身だけど引き締まった身体。まじまじと彼を見つめてしまっただけあって、事細かに記憶している自分が恥ずかしい。絶対不審に思われたはずだ。 一体彼は何をしにこんな朝早くから忍術学園に来たんだろう。たった一瞬のやりとりだったのに、そんなことがどうしようもなく気になってしまう。頭の中は初めてお会いした利吉さんのことでいっぱいだった。 「全然似てないよねえ。山田先生と」 「え?」 なんでここで山田先生のお名前が?不覚にも赤くなり始めた頬を押さえて、小松田くんの言葉に間抜けな声を上げた。 「だって利吉さん、山田先生の息子だもん」 「えぇええっ!!?」 驚きのあまり悲鳴を上げる。桜の木に止まっていた鳥たちが数羽羽ばたいていく。山田先生って、実技のあの山田先生だよね…?言われてみれば凛々しい目つきはどことなく似ている気はするけど、他はそんなに似ていないような…。追いつかない思考に口をあんぐりさせていると、ちょうど早朝の課外授業に向かおうとしていた一年は組の面々が門の前に集まってきていた。ハッと我に返ったわたしに、くすくすとは組のみんなが笑っている。姉おはよー!朝から小松田さんと何の話?ないしょの話?乱太郎くんやしんべヱくん、喜三太くんがせっつく。…いやそれよりも今は。 「ちゃんおはよう!今日も威勢がいいね」 「何よりだな」 真っ赤な顔のまま小松田くんと向き合うわたしを尻目に、にこにこしながら声を掛けてくれたのは土井先生と、山田先生。そして、 「……」 たった今まで話の中心だった山田利吉さんその人だった。 呆れた視線を一瞬だけこちらに寄越すと、そのまま一礼してそれでは、と学園を出ていってしまう。は組のみんなが利吉さんさようならー!と騒いでいるのを横目に、わたしの顔は赤いまま、腰が抜けたようにストンとその場に尻もちをついた。 |