8 - 1:冷えたラブコールの透明度
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 なんてことをしてしまったんだろう。食堂と倉庫のリフォーム費用を五条さんが出してくれていたのは知っていた。けれど、私生活の経済的な余裕を奪い、あまつさえ怪我までさせていたなんて…。工事費用は学校側が後から立て替えるものなんだろうと漠然と考えてしまっていた詰めの甘さや確認を怠った自分が嫌になる。きっとわたしも心のどこかで何事においても「五条さんなら大丈夫」という甘えが働いてしまっていた。本当に失礼極まりない話だ。昨日までの呑気な自分がいっそ恨めしい。


 「さん、五条さんの荷物なんですが……」


 伊地知さんの声でハッと我に返る。その手には衣装ケースや中身が見えないボックスが積まれている。

 「すみません!とりあえずこちらにお願いできますか?」
 「わかりました」

 ひとまず玄関を入ってすぐ右手にある廊下のスペースを確保して、伊地知さんが運んできてくれた五条さんの荷物を置いてもらうことにした。午前10時。朝の二部制の食堂を終えて、次はお昼の準備のためわたしも再び食堂に向かう時間だ。日差しは強く、今日も猛暑日の予報が出ている。
 五条さんはというと、暑い中でも朝から生徒たちを引き連れて任務へと出かけていらっしゃるので、代わりに伊地知さんがお部屋の荷物を運ぶ手筈となっていた。


 「あの、…どうかわたしにもお手伝いを…」
 「お気遣いなく。さんに手伝わせてしまうと私が殺されますので…」
 「ころ…?」
 「いえこちらの話です。言っても校内ですし、忘れ物があればすぐに取りに行ける距離ですから」


 先程から何回もお願いしては宥められてしまう。手伝わせてほしいと懇願してはみたものの、頑として荷物の運搬も五条さんのお部屋の清掃もさせてもらえない。それどころか荷物に指一本触れさせてもらえなかった。それなら最初から最後までわたしに任せてくださいと五条さんに伝えておけばよかった。本当に、わたし一人の無自覚のせいで一体どれだけの人に迷惑をかけているんだろう。積み重なった五条さんの荷物を見ながら自責の念に駆られる。

 「これでしばらくの生活に必要なものは運べましたかね」

 ふうと額の汗を拭う伊地知さん。冷やしていたタオルとペットボトルの飲み物を渡すと嬉しそうに受け取ってくれる。

 五条さんの右手の怪我が治るまでの間、彼の身の回りのお世話をすることになった。
 リフォーム費用を一括ですぐにでも返せればよかったが、食堂員の身分で当然そんなことが出来るはずもない。このしばしの生活は費用を支払うことも拒絶されてしまったわたしに対する五条さんの唯一の譲歩だったと思っている。その優しさや恩をこれ以上仇で返さないようにするのがわたしに求められた最も重大な使命だ。


 「本当に…ただただ申し訳ないです…」
 「大丈夫ですよ。さんのせいではないと断言できます。…まぁ、五条さんが怪我をしたと聞いた時は腰を抜かしましたが」


 伊地知さんの言葉に少しだけ気持ちが軽くなる。けれど、決して許されるとは思っていない。術師最強と謳われる五条さん。この世界のことを詳しくはわからなくても、彼が怪我をすることは彼自身が怪我をしようと思わない限り無理に等しい。そんな例え話を誰からもされるくらいの余程の事態。呪術師界の宝のような人を傷付けてしまったわたしの罪は相当に重い。
 同時に過るのは、そんな相手と対峙したのがもしも五条さんじゃなかったら―そう考えただけで怖かった。五条さんでよかったなんて思わない。でも、生きて帰ることができたのは五条さんだから。
 そんな彼でさえ、怪我の影響で今日の任務にも少なからず支障が出てしまっているかもしれない。不甲斐ない自分自身に溜め息が漏れてしまう。


 「でも、どうしてさんは今回の件了承したんですか?」
 「え?」
 「介助生活、と呼ぶんでしょうか。快諾だったと五条さんから聞きました」
 「それは…」



 ―悟と硝子のこと、どうかよろしく


 頭の中で二ヶ月半前の食堂のプレオープンの日の映像が流れ込んでくる。

 あの日、リフォーム工事に携わってくれた関係者を招いての食事会で一人だけ遅れて食堂を訪れた男の人がいる。オールバックに小さなお団子、大きなピアスが耳朶を伸ばし余計に福耳に見えた。穏やかな口調とは裏腹に着ている幅の広いズボンは裾で締まり、工事現場の人が着る作業着のようであり、制服のようでもあった。この学校の出身者とも言っていた。五条さんや家入さん、七海さんや冥冥さんの名前を並べられ、まさか彼の口から知った名前が聞けるとは思わず興奮気味だったわたしは、肝心のその人の名前を聞きそびれてしまったのだ。
 切れ長の目をさらに細め薄っすらと微笑むその表情が酷く切なくて、けれど久しぶりの母校だからか、嬉しそうでもあった。姿を消す直前の彼の言葉がどうしてか今も胸の奥にこびり付いて離れない。

 「食堂の、プレオープンで」

 五条さんと家入さんをよろしくと彼は言った。関係性はわからなくても、彼にとって二人が大きな存在だったことは感じ取れたし、わたしにお願いをするくらい何か切羽詰まった状況だったのだろうかとも考えられた。

 でも、その日のことも彼のことも今日まで誰にも言えないし聞けないでいる。伊地知さんにならと思う反面、今もブレーキをかけてしまう自分がいた。


 「プレオープン、ですか?」
 「あ、いえ。なんでもないです。ただ自分がそうしたかったんです」


 少しだけ首を傾げた伊地知さん。深くは追及せずそうですかと納得してくれる。名前も知らないとある男に、五条さんと家入さんのことを託されたから何かあったら力になろうと思っていたなんて、話したところで訝しげな顔をされておしまいだ。
 それに、五条さんのお世話や介助生活の提案にそうさせてほしいと願ったことは事実だ。わたしにできることなら何でもしますと宣言した気持ちに嘘はない。

 「なので、一生懸命務めます」
 「よろしくお願いします。何かあれば私や他の職員もいつでも頼ってください」

 罪悪感と不安でいっぱいの今のわたしには伊地知さんの優しさが痛いほど身に沁みる。その気遣いに御礼を伝え、職員室に戻る伊地知さんの背中を見送った後、わたしも急いでお昼の食堂の準備に取り掛かった。




◇ ◇ ◇




 一日の中で最も賑わいを見せる昼の食堂運営を無事に終えて、ようやく落ち着いたのが午後15時前。二部制の後半で虎杖くんたち一年生の姿を見かけたので五条さんも既に高専には戻っているはずだった。けれど今日は食堂には現れなかったため、きっと任務の後処理などで忙しいのだろうと思うことにした。
 一人掛け用のカウンター席で自分の昼食にありつこうと準備をしていたとき、不意にガチャリと入口のガラス扉が開いた。

 「たっだいま〜」
 「…五条さん!」

 突然の訪問者に驚きの声を上げるわたしに構うことなく、アイマスクをした五条さんはその長い脚でスタスタとわたしの前まで歩いてくるなり迷いなくわたしを抱き締める。

 「ご、」
 「あー最高……ただいま
 「お、おかえり、なさい…」

 な、何これなにこれなにこれ。降って湧いたようなこの状況を必死に考える。少し屈んだ五条さんの声が耳元からすぐの距離で聴こえる。ただいま。安心したような穏やかな声音に包まれて一気に体温が上昇していく。本当に予測不能な事態に陥ると、人はきゃあとかうわぁとか、そんな言葉さえ出なくなるんだ。一向に緩まない五条さんの左腕に抱き締められながらそんなことを思う。

 「ご、…五条、さ」
 「んー?」
 「…ごはん!ごはん、食べました?」
 「んーん。と食べようと思ってまだ」
 「な、なら、一緒に食べましょう?ちょうどわたしも今からお昼…」
 「だめ。もう少しこのまま」

 ね、いいでしょ?吐息交じりにそんなことを言われしまい為す術がなくなる。ぎゅうううと音がしそうなほど密着されて、わたしの体は固まった。い、良い匂いがする。外は信じられないくらい暑いはずなのに、五条さんからは汗の匂い一つしない。目を閉じてしまえば最後、もうずっとこのままでいたいとさえ思ってしまう。
 ふと、食堂の窓が一面ガラス張りで中庭から丸見えであることを思い出した。瞬間、固まっていたわたしの体が反射的に五条さんの胸を押し返す。いくら居心地がいいからってなんてことをしているんだろう。実際どれくらいの時間が経っていたのかはわからない。五条さんは一瞬つまらなそうな顔をしたけど、耳まで赤くなったわたしを見て満足そうに笑う。

 「赤くなってかわいー♪」
 「も、もう…!ごはん!ごはんにしますよ五条さん!」
 「照れてる照れてる」

 けらけらとからかう五条さんをカウンターに座らせて、わたしは二人分の食事を用意し始めた。今日から介助生活が始まるというのにこんな調子では先が思いやられる。五条さんのペースに巻き込まれる自分自身にだ。
 一度じっくり深呼吸をしてから再びカウンター席に戻る。カウンター席は中庭とは反対の山側の景色が見える特等席だ。アイマスクを取ってその景色を堪能している五条さんの横顔が絵画のように綺麗だった。

 「わー、今日も美味そうだね」
 「A定食がハンバーグ、B定食が銀だらの西京焼きでした」

 戻って来たわたしに気付くと、五条さんは口角を上げて二種類の定食に目を輝かせる。

 「じゃあ僕はA定食で」
 「わかりました」

 言いながらA定食を乗せたトレーを五条さんの前に、B定食のトレーをわたしの席に置いた。カウンター席用のスツールは少し高く、座りながら横を向く五条さんがわたしの座る右隣の椅子が動かないようにと補助してくれていた。顔を見せるなりハグをしたかと思えば、こういう場面では紳士にもなれる。こんなに魅力的で魅惑的な彼と、今日から一つ屋根の下で暮らせるだろうか。御礼を言って腰掛けると、五条さんがにんまりと笑ってわたしに言った。


 「が食べさせて」


 ピシッと再び固まったわたしに五条さんは右手に付けているアームカバーを見せる。そ、そうだった!五条さんのペースにすっかり流されていたけど、そもそもこの件があっての介助生活だ。利き手である右手を使えない五条さんの主張はもっともで、彼にごはんを食べさせられるのはわたししかいない。むしろこのためにわたしがいると言っても過言ではない。左手だけで食事をするのは相当練習をして慣れてからじゃないと難しい。これ以上五条さんの時間を消費させないために、わたしは一旦B定食のトレーを右によけて、五条さんの前に置いたA定食のトレーを自分の前に運んだ。ナイフとフォークでハンバーグを一口サイズに切り分けていく。五条さんはなんだか嬉しそうだ。

 「はい、あーん…」
 「あーん………うっま。が食べさせてくれるからさらに美味い」
 「ならよかったです…」

 タイミングを見計らって白米も運んだり、副菜のサラダやスープもバランスよく食べてもらう。開いた口、唇の形、時折伏せられる瞼や睫毛の長さまで、どこを切り取っても一つひとつの動作に付いてくるすべてが美しく思わず息を飲む。これでいて術師業界で最強だなんて天は二物を与えまくりだ。
 時間をかけて五条さんの食事の補助を終えたとき「のごはんが冷めちゃったね、ごめん」と謝られた。わたしは首を振り全力で否定する。

 「いいんですそんなこと…。わたしこそ、本当にごめんなさい」

 自分の分はいい。でも誰かに食べてもらうごはんはできるだけ温かいまま提供したい。ましてや五条さんにご迷惑をおかけしている身としては、ごはんを一緒に食べることが許されているだけで有難いくらいなのに。泣きたい衝動を堪えた。喉がぎゅっと掴まれたような気がして、誤魔化すように五条さんに問いかける。


 「一つ、聞いてもいいですか?」
 「ん?」
 「五条さんはこれだけは許せないとか、されたら嫌だってことありますか?」


 西京焼きに箸を入れながら、ずっと確認したかったことを尋ねる。五条さんの怪我の様子から見て少なくとも一ヶ月以上は生活を共にする。その上で、いくら五条さんが優しい人だと言っても何かを我慢させたり無意識でも彼の嫌がることだけはしたくなかった。五条さんの顔から表情が消える。


 「…離れないでくれれば。あとは何も」


 さっきまでの軽口とは違いやけに重みのある言葉に、思わず銀だらの身がぽろりと箸から零れ落ちる。食事をすることも忘れて五条さんを見つめると、硝子玉のような彼の薄い色素の瞳が遥か遠くを見据えていた。



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