7:曹達色に溺れたさかな


 僕は、今の彼女の目にはどんな姿に映るだろう。完璧で優しそうで、底知れない男かな。
 まさか空気みたいな存在だとは言わせないけど。


 6月の湿った空気が肌に纏わりつく。
 普段なら気分が悪いはずのそれも、浮足立つのはようやく今日の顔が見られるからだ。出張続きのせいでリフォーム後今日が初めての食堂利用だった。
 本当はプレオープンの日、少しでもの顔が見たくて食堂に行ったけど、入口が施錠されていて立ち入れなかった。中ではリフォーム業者を招いての定食を振舞う会が催されていた。そこまではよかった。

 『お姉さんの料理マジで美味かったッス!』
 『可愛くて料理も上手いとか最ッッ高です』
 『おねーさん彼氏とかいるんですか!?』

 聞こえてきたのは、数人の若手の職人がにちょっかいをかけている声。しょうもないことほざいてたっけな。扉は施錠されていても、上窓は換気で開けっ放し。丸聞こえだ。あの馴れ馴れしさを思い出すだけではらわたが煮えくり返る。
 出来たばかりの食堂のガラス扉をぶち破って、の料理の代わりにその口に僕の拳をぶち込んでやりたかった。割れた破片を飲み込ませるのも面白い。怒りを収められたのは、が食堂の完成をどれだけ楽しみにしていたかわかってたから。抗議のつもりで、ガラス扉を割る代わりに室内にも響くようドアノブを思いきり音を立てて鳴らして、あのときは去った。


 七海いわく、は一日でも早く僕に御礼を伝えたがっているらしかった。きっと食堂と倉庫だった場所を僕のポケットマネーでリフォームしたことについてだろう。礼なんか必要ないのに。
 でも、付け込める弱みがあるなら最大限に利用させてもらう主義だ。アームホルダーで右腕を固定して、僕は今日から怪我人を装うことに決めた。

 「ごちそうさまでーす!」
 「はーい、ありがとうございましたー!」

 二ヶ月半ぶりに聴こえた声。だ。
 食堂に一歩入ると、まずはイートインスペース。採光のため一面をガラスにした窓際の一人用席、はっきりと区切られたボックス席。正面には横向きの長いカウンター。その向こう側でがテキパキと動いている姿が目に入る。
 天井では空調のファンが回り、壁から壁に向かって大きな梁が二本剥き出しになっていた。それなりに素材にはこだわってもらった。なんせが最も長く過ごす空間だ、居心地いい方が僕としても鼻が高い。の仕事柄季節に関係なく割烹着や長袖を着ていることが多いから、暑過ぎず寒過ぎない環境も絶対条件だった。

 「あ、五条先生!」

 ちょうど悠仁と野薔薇が二部制の後半で昼食を食べ終えて、食堂を出ようとしているところにバッティングする。

 「出張終わったんだー…って、怪我?」
 「は?うそでしょ?」

 もうほとんど人がはけていた食堂に2人の声が響く。ありがたいことだなと思う。固定された右腕と僕の顔を交互に見つめながら、どんな相手と戦ったんですか…と悠仁が唾を飲み込むのがわかった。僕が怪我なんかしたら、そりゃ誰だってそういう反応になるのが正しい。

 「うん、ちょっとね…」

 ここからは、僕の演技力が試される。

 「ここのリフォームにお金かけたら、生活費工面するの難しくなっちゃって…」
 「…はぁ?」
 「呪霊と対峙してる時にそのことが過って、つい判断鈍っちゃってね」

 このザマだよ。苦笑する僕を野薔薇が眉間に皴を寄せながらじろじろと訝しむ。疑ってるんだろう。対して悠仁は口元に手を当てて何か考えているようだった。果たしてこれが吉と出るか、凶と出るか。

 「や、でも。めちゃくちゃ質の高い工事だってナナミンも言ってたし」

 前者だ。悠仁が馬鹿で心底助かる。野薔薇も七海の名前が出た途端、そういうもんなのかしらと話を着地させた。悠仁はさらに、俺もパチやって下手こいたことあるからわかるぜ先生!と謎の賛同まで始める。快楽のためのギャンブルと、僕のに対する愛情を同じ天秤にかけられるのは納得がいかない。けれど、今だけはそれでもよかった。

 「君たちに話す内容じゃなかったね。大人の話だから言い触らすなよ」

 口止めも忘れない。ハーイと間延びした声で悠仁たちが食堂から出ていく。カウンターに視線を移すと、眉根を寄せて僕を見つめると目が合った。…勝ち確じゃん。

 「ご、五条さん」
 「久しぶりだね!帰ってきたら食堂がすごい綺麗になってて感動したよ」

 僕の声とは対照的に、の表情は曇っている。もしもこれがドラマだったら、台本には『わざと明るく振舞う。金欠を匂わせない素振り』とか書いてあるだろう。は唇を噛み締めて僕の右腕を見やり、僕は決して自分からそのことを口にしない。が罠にかかるのをただ待てばいい。は、あの、とかその、とか、何かを言いかけては止め、言葉を慎重に選んでいる様子だ。

 「……先ほどのお話、本当でしょうか?」

 かかった。やっぱり僕と悠仁たちの会話はの耳にも届いていた。騒いでくれた悠仁と野薔薇に感謝だ。エキストラとしては優秀過ぎる。でもここで尻尾を掴まれるようなヘマはしない。僕は知らんぷりを決め込む。

 「先ほどのって?」
 「聞こえてしまいました…虎杖くんたちとお話してた内容…」

 その瞬間、がぎゅっと目を瞑り、勢いよく頭を下げた。僕はの可愛い後頭部を撫でてしまいたい衝動を必死に抑える。

 「そんな大変な思いをされているとは知らず、わたし…っ、本当に申し訳ありません!」

 リフォームのことへの御礼がなかなか出来なかったこと、実は予算が小さくないこと、僕の生活費を圧迫していること、集中力低下が怪我を招いたこと。そんな中自分は綺麗になった食堂に喜んでいただけだったこと。はそれら全てに謝罪をしてるんだろう。嘆かわしくて、やさしくて、本当に他人を疑うことを知らないを体現している。
 対して僕は嘘だらけだ。生まれてこの方金銭面の心配なんかしたことがないし、なんなら今月も口座への入金額は低くない。何より戦いの中で僕が怪我をすることなんてほとんどない。あったとしても、それは自分で治せるか硝子が治してくれる。でも術師じゃないにはきっとわからない。わからないから、顔面蒼白になっている。

 「かかった費用も、何年経っても、き、きちんとお返ししますので…」
 「そんなことしたら怒るよ。絶対しないで」
 「でも…じゃあ、えっと…」

 うーんうーんと頭を抱えて困り果てる。さあ覚悟しろ。目の前の詐欺師に自分の何を引き換えにする。

 「わ、わたしにできることがあれば、何でも仰ってください!」

 それはつまり、どんな形でもいいから僕に寄り添いたいのと同義語だ。悪くない答えに思わず目を見開く。何でもということは、のすべてが該当するはず。そうじゃないなら、無意味な取引だ。

 「じゃあ」
 「は、はい」
 「怪我が治るまで、が僕のお世話してくれない?」

 相手が頷くことしかできない問いかけをするとき、快感で身体が震える。
 不安そうなはソーダの水槽に囚われた一匹の魚だ。水質で死ぬか、喰われて死ぬか。生きる術がないのなら、丸呑みするより餌を垂らして従わせろ。

 「お互い行き来するのも面倒だし、しばらくの部屋に居候させてもらうね」

 目に涙を溜めながら懸命に頷くに、最低な僕はすごく気分が良くなった。交渉成立。このために食堂裏の倉庫をの部屋に改築したようなものだ。あり余る富の遣い道として最も有意義だと自負してる。


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