20 - 1:熱いブランデーで焦がす純度
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 右側には青色の安らぎ。左側にはピンクの魅力。
 背中には透明な浄化。黄色の知的好奇心が目の前の鏡に石を投げた。
 伏黒くんの目が好きだ。切れ長なのに歪みがなくて、紫色の蛍石の光みたいに優しく鋭い。



 どうしてこうなったんだっけ。薄暗い廊下を伏黒くんに手を引かれながらぼんやりと考える。

 突然の報せだった。15時頃、普段あまり鳴ることがない携帯のバイブレーションが今日に限ってなかなか切れることがなかった。画面はそば処花ゑからの着信を知らせていて、久しぶりの電話に心躍る気持ちよりも先に一抹の不安が頭を過った。

 『!お父さんが…!』

 ぐしゃりと胸の奥を掴まれたのかと思うくらい目の前が真っ暗になった。連絡をくれたのは花ゑの奥さんで、店長が過労で倒れたこと、即時入院が決まったことを知らされる。時折電話の向こうで泣きながら言葉に詰まる奥さんの声を聞くのが辛くて、雪が降る12月下旬にも関わらず、わたしは身なりもそのままに食堂を飛び出し病院へと向かった。
 お店の創業50周年も無事に迎え終わり、ちょうど一段落過ぎたタイミングだった。気が緩んだのでしょう、そう言われベッドで眠る店長の容体は幸いにも大事には至らず、お医者様には2週間の安静を言い渡された。大丈夫とわかっていても、病院のベッドで点滴を受ける店長の顔色は色素が薄く感じられ、場所も相まって不安な気持ちが込み上げていた。

 病院から帰るとすぐに学長室に向かった。夜蛾学長に事情を説明するとしばらくの休暇をいただけることになった。

 『親父さんの傍にいてやりなさい』

 わたしと店長に血縁関係はない。夜蛾学長もそのことをご存じのはずだ。それでも家族同様の待遇を許してくれるその優しさに、張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れて、わたしは恥ずかしげもなく泣いてしまった。ありがとうございます。声にはならない声でそう伝えるのが精一杯だった。
 泣き腫らした顔で職員室にいる教員および補助監督の皆さんにもしばらく食堂をお休みする旨をお話し、労いの言葉をかけていただきながら部屋を出た時だ。


 『さ…』


 違和感を察知して言葉を飲み込む。声をかけたのは伏黒くんだった。
 一日の内に起きた目まぐるしい出来事に返事をする気力もなくて、出来得る限り口角を上げてみたつもりだった。笑えもせず泣けもしない。随分酷い顔をしていたと思う。伏黒くんは何も言わずにわたしの手首を掴むと、スタスタとどこかへ歩き始めた。



 そうしてこの状況に至る。

 「…伏黒、く」

 ようやく気力が少しだけ戻り彼の名前を呼んだ。応えがないことに不安が募っていく。いつもならさん、そう優しく呼んでくれるのに。けれど途中で軋んだ床の音は確かに二人分だ。夢じゃない。
 痩せ型と思っていた彼の背中はスウェットの上からでも広く男の人を感じさせる。一方で、お風呂上がりだろうか、いつもは掛けていない黒縁の眼鏡と乾かしたばかりの重力に従う黒髪が、普段の伏黒くんよりも彼を幼く見せていた。足の長さが違う分、彼の歩幅は一歩が大きい。それにしても随分急いでいるみたいだった。

 「廊下だと寒いんで、ここで」

 そういって連れて来られたのは伏黒くんの部屋だった。
 やっと声が聞けた。安堵と同時にパタンと静かに扉が閉まる。しんとした室内はモノトーンで統一され、家具の配置もシンプルだった。床にはいくつか洋服と雑誌が散らばって、点けっぱなしにされたストーブのおかげで部屋全体が暖かい。
 東京も山間部は雪が積もる。山深い場所にある呪術高専も例外ではなく、ここ数日は雪予報が続いていた。いつだったか今年は寒冬が見込まれるとニュースで知り、通販サイトで暖房器具を探していたら、今伏黒くんの部屋に置いてあるストーブの色違いを見つけて購入を検討したことがある。冬の寒さを今ほど想像できない季節に調べていたせいで、そういえば商品をお気に入り登録したまま購入するのをすっかり忘れていた。こんなに部屋を暖めてくれるなら雪が降る前に買えばよかった。
 ほんの束の間気が紛れている間に、掴まれていた手首は優しく握り直され、窓際のソファーに座るよう促された。背中に少し外の冷気を感じる。

 「良かったら」
 「あ、ありがとう」

 受け取ったペットボトルがじんわりと指に温かさをもたらしてくれる。伏黒くんの部屋に辿り着く前に立ち寄った自動販売機で、彼が2人分の飲み物を購入してくれていた。一つはコーヒー、もう一つは温かいミルクティー。わたしの好物だ。腕を引っ張られても無言でも、彼の選択は優しさを忘れていなかった。
 自分の好きなものを覚えていてくれたこと、予め蓋を緩めて渡してくれたその気遣いに、夜蛾学長の優しさや目の前の現実を思い出して再び泣いてしまいそうになる。

 「何があったか訊いてもいいですか」

 伏黒くんは、わたしが掛けているソファーの前で目線を合わせるようにしゃがむと、右手をわたしの左太腿の隣、左手はわたしの右太腿の隣にそれぞれついた。ちょうど首元くらいの高さにある伏黒くんの顔が、心配そうにわたしを覗き込む。

 「食堂…お休みしてごめんなさい…」
 「それは大丈夫です。さん来る前はこれが普通だったし…寂しいすけど」

 気恥ずかしそうに視線を逸らされる。伏黒くんの照れた様子にわたしの心がふわりと軽くなり、数時間ぶりに小さく笑うことができた。いつも虎杖くんや野薔薇ちゃんと食堂に来てくれる。わたしもごはんを食べてもらえることが楽しみだった。
 でもしばらくはそんな時間もお預けだ。

 「実は、前の職場の店長が過労で倒れてしまって…」
 「…そうだったんですね。心配ですね」
 「うん…さっき病院に行って、ひとまず容体は落ち着いてたんだけど」

 伏黒くんは視線を戻し、静かに話を聴いてくれていた。
 店長夫婦はわたしに社会を教えてくれた恩人だ。お寺での生活から外の世界をほとんど知らなかったわたしに、手に職を与えてくれた師であり、和尚様同様、第二の両親のような存在だった。60歳を過ぎたと言ってもしらけ世代は気持ちが若い。店長も奥さんも活気と人情味溢れる江戸っ子気質で、小さなことにあまりクヨクヨするタイプではない。そんな店長が倒れた。それは蕎麦処花ゑにとって支柱を失うようなものだ。今まで一度もこんなことは起きたことがなかった。

 「…わたしのせいかもしれない……」
 「え?」
 「わたし、が退職しちゃった、から…っ」

 店長の負担がぐっと増えて知らない間に疲れを蓄積させてしまったんだ。店長だけじゃない。奥さんや兄弟子たち、アルバイトのみんなにも。
 ずっと心に引っかかっていた思いを口にした瞬間、涙腺が壊れてしまったように涙がとめどなく溢れていく。
 
 「大晦日…、た、大切な、ひっ、日なのに……ぜ、ぜんぶわたしの……」

 他のお店なら店長が無事だった時点でほっと胸を撫で下ろせたかもしれない。けれど花ゑは蕎麦屋だ。これから訪れる年末が一年で一番の書入れ時だった。飲食店にとって、書入れ時に休業するということは死活問題になる。けれど、店長不在の中でお店を回すことも難しいだろう。50年続く蕎麦屋の二代目として、店長だってそんなことは当然わかっている。きっと年末に向けて準備を始めよう、そんな時期だったはずで、わたしが退職してから迎える花ゑにとって二回目の大晦日だった。

 「さん」

 名前を呼ばれて顔を上げる。目の前にいる伏黒くんの瞳は真っ直ぐだ。少しだけ眉間に皴を寄せている。ミルクティーの入ったペットボトルを強く握り締めていたわたしの指に伏黒くんの大きくて長い指が触れた。力んだわたしの指をやさしく解かせる。

 「蕎麦屋の皆さん、誰一人そんな風に思ってないですよ」
 「…で、でも…っ」
 「さんは確かに戦力だったと思います。俺たちも毎日あんなに美味い飯食わせてもらってますし…でも辞めた後も店を回せる算段があったからこそ、安心して見送れたんだと思います。今回は不運が重なっただけで」
 「ふし、黒く……」
 「今は考えすぎて対処しきれないと思い込んでるだけです。例えば」

 店長が倒れた事実は戻らない。それなら二週間の安静期間中はお見舞いに行って沢山顔を見せる。休みをもらえたのだから食堂のことは気にせず、復帰の時にまた日常に戻ればいい。誰かに何か言われたわけでもないのだから憶測で自分を責めなくていい。奥さんや兄弟子たちがいるのだからお店だって乗り越えられる。
 伏黒くんはそう一つひとつの現実に、どう考え、何をしたらいいかを導き出そうとしてくれる。

 「まずは自分のやるべきことが何か、悩んで解決するか、分別して考えましょ」

 目の前のわたしよりも年下の彼の言葉に素直に感嘆してしまう。どの言葉も今のわたしには有難いほど心に響いていく。

 「ん…うん……そうだね…、本当にそう……」
 「人間一人で抱えられる量は限られてますから」
 「うん…ありがとう。すごいね伏黒くん、先生みたい…」

 店長が倒れ入院したことで気が動転してしまっていた。あれもこれも不安の種に変わっていく気がして、八方塞がった気持ちになっていたのに…伏黒くんは大人だ。しかもとびきりの。ポジティブな意味を込めて伝えた先生みたいという言葉に引っかかったのか、それって喜んでいいんですよね?と冗談めかして雰囲気を和ませようとしてくれる。まるで高専の先生たちに似たくはない、そう言っているような気がして、わたしは思わず笑ってしまった。
 彼から貰った言葉を胸の奥で反芻する。すると何故だか降り注いだ不運すべてがどうにかなるような気がして、自分にもまだ何かできるはずという活力が湧いてくる。


 「…大晦日、わたし、花ゑのために働きたい」


 自分の中の真っ直ぐな気持ちが音になって飛び出した。嘘偽りのない思い。わたしにできること。
 それでこそさんだと思います。伏黒くんも安心したように笑ってくれた。

 「伏黒くん…本当にありがとう」

 そうと決めたらまずは部屋に戻って荷造りからだ。休暇とはいえわたしの身勝手でお店に出るのだから、念のため夜蛾学長にももう一度お話をして、奥さんにも連絡しておこう。兄弟子たち、アルバイトの亜古ちゃんも元気にしているだろうか。わたしが行くことで少しでも花ゑの戦力になれればいい。
 ゆっくりと視界が開けるように物事が前向きに考えられるようになってきた頃、窓の外では降り続ける雪が一層強くなり、外気と室温が拮抗している気がした。スウェット以外何も羽織っていない伏黒くんがそろそろ風邪を引いてしまわないか心配だ。お風呂上がりにごめんなさい。御礼と謝罪を伝えてソファーから立ち上がろうとしたその時だった。


 「…報酬、貰ってもいいですか」


 不意に、伏黒くんが言いづらそうに口を開く。その言葉にハッとして今の今まで自分のことでいっぱいいっぱいになっていたことを反省した。
 16歳の男の子の貴重な時間を奪い、あまつさえこんなにも素敵な言葉を貰いながら受講料も何もお返ししないなんて、危うく無礼になるところだった。わたしとしたことが、社会人にもなってどこまで伏黒くんに甘えているんだろう。受け取ったミルクティーもご馳走になったままだ。

 「ご、ごめんなさい。全然気が利かなくて…!」
 「…いえ」
 「今持ち合わせがなくて、部屋に帰ればあるから、取っ」
 「キスしてください」

 少しでも持ち合わせがないかポケットを探っていたら、聞こえるはずのない単語が飛び交い思わず顔を上げる。聞き間違いかと耳を疑ったけど、伏黒くんは真面目な顔でわたしを見つめている。

 「き…?」
 「キス」
 「…だれが?」
 「さんが」
 「わ、わたしが」
 「俺に」

 わたしが、伏黒くんに、キス。

 言葉を理解した瞬間、みるみる体温が上がっていくのがわかった。唐突にくらくらする。きっと今部屋の電気を点けられたらわたしの顔は鬼灯みたいに赤く色付いてるはずだ。
 でも、いつもと変わらない様子の伏黒くんにとって、この報酬に深い意味なんてないのかもしれない。もたもたすればするほど意味を持たせてしまうかもしれない。慰めて励ましてくれた伏黒くんにとって迷惑になることだけは避けたい。早く御礼をしなくちゃ。伏黒くんが望む形で―焦る気持ちにそう言い聞かせた。

 握っていたペットボトルを横に置いて、わたしを挟むように両隣についていた彼の手にそっと自分の手のひらを重ねる。伏黒くんの指は冷たいはずなのに、わたしの心臓は熱を持ったみたいにばくばくとうるさくなる。黒縁眼鏡の奥で伏黒くんの目が見開くのがわかった。少しだけ前屈みになると、伏黒くんの形のいい唇に自分のそれが触れる。

 「……今日はありがとう。伏黒くんに、また助けてほしい」
 「さん、」

 唇が離れると、低く掠れた声に名前を呼ばれる。顔の上に影がかかり、同時に強く引き寄せられた。ずるりとソファーから滑り落ち膝が床についた状況で、気付くとわたしは伏黒くんの腕の中にいた。伏黒くん。そう呼びたくても声が出ない。はく、はくと口元が空回る。
 おでこには伏黒くんの鼓動が響き、頬にはスウェット生地の冷たさが、背中と後頭部には引き締まった彼の腕の感触が服の上からでもありありと伝わってくる。どういう状況だろう。真っ白になった頭では何も思い描くことができない。


 「俺に…貴方を守らせてください」


 ストーブの灯火と雪空の明かりだけがわたしたちを照らす部屋で、耳元に寄せられた彼の唇が切なげにそう告げた。



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