◇扉を開けた鍵の色


02

ごめんね、と。
紫煙に溶けるような小さな声で謝罪を呟けば、デカい借りだな、とすぐさま返される素っ気無いお許しの言葉。
振り出しに戻るたびにこうして積み重ねてきた雷禅への借りは、今では相当なものだと思う。返せと言われた事はないけれど、どうやって返したらいいのかもわからない。
そして、音を立ててグラスが触れ合う瞬間に、雷禅と比べられる破目になった可哀想な相手を想い心の中で懺悔する。

比べてごめんなさい。
こんな人、他にいるわけない。

それはなんだか悔しくて、哀しくて、アルコールが頭を巡るにつれて涙がこぼれることもあったけど、何に対して泣いているのか、自分でもわからないから性質が悪い。
そんなわたしを見て雷禅はやはり、馬鹿女と言う。言われなくてもわかってる。わかってるけど、どうしたらいいのかわからない。
ふたりの関係はとても自然だけれど、同時に不自然な気がして仕方ない。時折訪れる違和感の正体は何なんだろう。
絡み合うなんて艶っぽさも皆無の、真正面からぶつかった視線は、酷く挑戦的にも見えるし、穏やかにも見えるし、そして何故だか苦しげにも見える。

目は口ほどにものを言う。

それなのに、彼の瞳が告げる感情をわたしは未だに読み取れない。


「――で?何をしょげてるって」
「…あのね雷禅。それが失恋したての人間に言う台詞?まだ二時間も経ってないんだけど」
「いつもの事だろうが」
「不吉な事言わないで」
「告白しようとした相手から婚約報告されたくらいで、今更ヘコむ女でもねぇだろ」

悠々と煙草の煙を吐き出しながら、悪びれもせず言い切った雷禅へ、あんまりだと抗議の声を上げる。


「あいにく、失恋の耐久性なんて持ち合わせてませんから」
「数ヶ月毎にやけ酒浴びてるヤツとも思えねェな。スキルアップはどうした」
「そんなスキルいらないもん」
「オレの貴重な時間と引き換えだってことわかってんのか?おまえが失恋しただのなんだの騒ぐたびに、朝まで付き合わされるこっちの身にもなってみろ」
「終電ギリギリなのにおかわり頼む雷禅がいけないんでしょ!」
「そういうおまえもな。日付が変わってから手当たり次第にボトル頼んでんじゃねぇよ」


ぐっ、と言葉に詰まる。 そもそも、筋金入りの腐れ縁である躯や黄泉相手に鍛え上げた雷禅の舌にわたしが敵うはずもない。

呆気なく白旗を掲げる。


「…大丈夫。これが最後のヤケ酒だから」
「おまえの最後は一体何度あるんだ?」

容赦のない雷禅の台詞に、返す言葉もありません、と小声で呟き縮こまる。殊勝な態度と見て取ったのか、雷禅が満足気に口角を上げると、言った。

「ふん。フラれる前にわかって良かったじゃねぇか」

それはそうだけど、と呟いて、ほぅ、と掌中のグラスへひとつ、溜息をこぼす。


――いいな、と想えたひとがいた。
淡い想いは時の経過と共に膨らむはずだと、甘い幻想を夢見た。

雷禅に匹敵するような大きな存在へと変貌を遂げるに違いない、と。

その時点で既に過ちを犯している事実からは、目を逸らす。好きになれるのならそれでいい。
そう思っていた。


「どうした。半端な感情で恋愛ごっこしてるだけじゃなかったのか?」
「酷い言い様」
「事実だろ」

言い返せない自分が悔しい。そして、全てお見通しの雷禅が憎らしい。飄々とした顔で何を考えているのか詰問したい。
嫉妬、という淡い期待は、とうの昔に消え去った。吹けば飛ぶような頼りない男の影に、この雷禅が嫉妬するはずもないのに。
特別だと騒ぐのは周囲だけで、雷禅が言った訳ではない。自分が勝手に、雷禅を特別視しているだけ。

「・・・・・満面の笑みで言われちゃったの」
「あ?」
「君にそっくりなんだ彼女、って・・・・・さすがに今回はヘコんだ」

居心地が良すぎて抜け出せない雷禅の隣から、今に、嫌でも去らねばならない時がくる。それはきっと雷禅にとって、特別なひとが現れた瞬間。
一体、どんなひとなのだろう。間違ってもわたしに似ているなんて言って欲しくない。
そう、胸が苦しくなるほど切願した。


「顔も雰囲気も背格好も性格も、ついでに言うとルノアール好きなところまでそっくりなんだって」
「・・・・・で、辛気臭ェ面してるワケか」
「悪かったわね、もともとこういう顔なんです」
「あぁ、そうだったな」
「もう!ひとが落ち込んでるのに・・・・・」

減らず口を叩いてばかりの雷禅を睨もうと勢い込んで顔を上げた瞬間、低い声が飛んできた。


「おまえに似たヤツなんかいてたまるかよ」
「・・・・・・・」


息が、止まる。
瞬きを忘れた瞳の先には、相も変わらず仏頂面な横顔が。

「・・・・・・雷禅」

やっとの想いでその名を呼ぶと、見るとはなしに燻る煙へ視線を放っていた漆黒の瞳が、ふ、とこちらへ向けられた。
視線がぶつかる。絡み取られる。様々な感情の光を宿したその双眸に、読み取れそうな気がしたのは、願望のせいだろうか。


「どうせおまえの事だから、とことん似通ったヤツと比べられてダメ出しされたような気になってんだろ」

すい、と視線をあっさり外すと、感情を微塵も感じさせない淡々とした口調で、当然のように雷禅が言い放った。

「どうして…わかるの」
「オレにこのスキルを身に着けさせたのはてめェだろうが」

フン、と鼻を鳴らすと雷禅が、てめェのヤケ酒に付き合うたびに嫌でもスキルアップしてンだよ、とぶっきらぼうにそう告げた。

「…お見通しだね、ホント」
「当たり前だ。何年来の付き合いだと思ってる」
「もう忘れちゃったよ長過ぎて」
「お前が健忘になるくらいって事だろ」

どれだけ悪態を吐かれても、瞳に宿る優しさを知っているから、怒るよりも笑ってしまう。
なんだか切ない。

「・・・・雷禅の言う通り。物凄くショックだったの。わたしに似ているのに、わたしじゃダメなんだって。わたしじゃ足りない部分があるんだなぁって」
「くだらねェ」

あっさり一蹴された。


「半端と本気の違いに決まってんだろうが」
「・・・・・」
「おまえは、そんな事も見抜けねェようなヤツを好きになったのか?」


あぁもう本当に。
このひとじゃなきゃ、ダメなんだ。
目頭が熱くなる。
見る目がないと全否定しない、雷禅の優しさが身に沁みて。

「・・・・・ううん」

見る間に視界が滲み、今にもほろりと涙がこぼれそうになるのを、ごしごしと目を擦ることでなんとか堪える。

「擦ると益々ブスになるぞ」
「よっ、余計なお世話…!」
「男にフラれたくらいでいちいち泣いてんじゃねぇよ」
「フラれてません」
「似たようなモンだろ」
「…哀しくて泣いてるんじゃないの。・・・・・嬉しいの」

怪訝そうな顔を向けた雷禅に、小さく笑った。涙はまだ溢れていたけれど、きっと、笑顔だった。


「雷禅がいてくれて良かった」


こぼれ落ちたのは涙ではなく、本心からのその言葉。

「・・・・・フン」

何故だか虚を突かれたように言葉を失った雷禅だったけれど、それもほんの一瞬のこと。


「今頃気付いても遅ェんだよ」
「いつも感謝してるのに」
「どうだかな」
「…今だって感謝してる。さっき雷禅が言ってくれた言葉、本当に嬉しかったから」

わたしに似たひとなんて、いないって。
すると雷禅が、ふ、と口の端に微かな笑みを浮かべたかと思うと、次の瞬間には打って変わって意地悪く、いかにも人を小馬鹿にしたような表情で、いるワケねーだろ、と鼻で笑った。

「ザルをすっ飛ばしてワクの女なんか冗談じゃねぇ。うわばみは一匹で十分だ」
「・・・・・ちょっと待って。何その基準」
「他にどんな基準があるってんだ。おまえをはかるのに酒量以外に何がある?あぁ、国宝級の馬鹿なところか?」
「…ッ、もう!さっきから大人しく聞いてれば、好き勝手に言ってくれちゃって・・・・・・っ」

目くじらを立てて、忌々しいほどやけにたのしげな雷禅へと身を乗り出した途端、細い一本脚に支えられた止まり木の上で、一瞬、身体が揺れた。
あっ、と思った時には既に遅く、支点を失った身体は大きく傾ぎ、唐突な浮遊感に襲われて、視界の隅に映った黒光りするマホガニーの床に叩きつけられる恐怖から、きつく瞑目し身体を硬くした。
落ちる――そう思ったのに。

無様な醜態を晒すはずだった身体は、止まり木から落下する事無くその場に留まっていた。血の気も失せるような浮遊感に代わり、身体を包んでいるのは紛れもない、ぬくもり。

「・・・・・何やってんだ、馬鹿」

すぐ傍で聞こえた、多分に呆れを含んだ低い声に、弾かれたように眼を開ける。至近距離に、雷禅の顔。
声が、出なかった。
雷禅と出逢ってからもう、幾年経っただろうか。こうして、雷禅が隣にいる事が当たり前となって久しい。
けれど、今まで、これほど間近で雷禅と視線を交わすことなど、なかった。

漆黒の双眸から目が離せない。
肩に回された力強い腕。
抱き止める胸の逞しさ。
静かな息遣い。

全てが、初めて知る雷禅だった。


「・・・・・・っ」

意識した途端、思い出したように全身が騒ぎ出す。早鐘を打つ鼓動、否が応でも火照る頬――震えが止まらない。
はっきりと認識した。

――雷禅が好きだ。

「・・・らい、ぜ・・・・・」

震えを落下の恐怖だと受け取ったのか、雷禅は大きく溜息を吐くと、

「暴れんじゃねぇよ。椅子から落ちても拾わねーぞ」
「・・・・・拾ってよ」
「あ?」


腕を戻しかけた雷禅の動きが止まる。
何言ってんだおまえ、と訝しげな瞳が言っている。

胸が苦しい。