◇扉を開けた鍵の色


03

のどの奥に何かがひっかえているような、そんな感覚。
たまららず、瞳をつむる。
縋るように握り締めたシャツ。

「・・・・・・おい、

雷禅が微かに困惑したのが、その声と気配でわかった。
今まで一体、何度雷禅にその名を呼ばれた事だろう。初対面から『』だった。さんとも、もちろんと苗字で呼ばれる事もなく、ただ、と。

?」

低い声に心が震える。
雷禅にその名を呼んでもらえて幸せだと、今更ながら、そう想った。呼ばれるたび、きっと、もっと好きになっていく。これからもずっと。
大きく息を吸い込むと、自分から身体を起こした。雷禅のシャツを握り締めたままの指が微かに震えている。 
どうか、想いの丈を告げる声は震えませんように。雷禅に、届きますように。
伏せた視線の先、震える自分の手を見つめながら、祈るような想いで口を開いた。


「雷禅が拾ってくれなきゃ困る」
「…まだ落ちる気かてめェは」
「雷禅がいるから安心して馬鹿できるの」


この止まり木のように不安定な日常でも、支えてくれるひとがいると知っているから。


「国宝級の馬鹿なんでしょ?それがわたしだっていうなら、雷禅がいなきゃ、わたしじゃない」
「おまえ――」


二の句を告げず、雷禅が絶句した。
滅茶苦茶な事を言っている自覚はあった。でも、止まらなくて。

扉を開けたい。

シャツを握る手に、知らず力が入る。どれだけそうしていただろう。頭上から降ってくる沈黙が、ふ、と苦笑に変わったのがわかった。

「・・・・・・屁理屈もそこまで言えりゃ上等だ」

聞こえてきた声は、半ば呆れたような響き。けれど、温かい。
その声に勇気付けられるようにゆるゆると視線を上げると、すぐさまこちらを見下ろしている雷禅と目が合った。
引っ込んだはずの涙がまた、出そうになる。

「器用なヤツ。なんだその顔は」

雷禅こそ。そう言いたかったけれどそれは、声にならなくて。初めて見た、こんなにも優しい表情の雷禅を。
それが、嬉しくて胸を締め付ける感情が何でできているのか、今のわたしには判別できない。
ただ、ふとした弾みで泣いてしまいそうなだけ。

「…一応、笑ってるんだけど」
「それがか?」
「おかしい?」
「福笑い並みにな」
「雷禅の笑顔と張るね」
「…素面で言ってんじゃねーよ」

そう言う雷禅自身が素でむっとしたのがわかったから、思わず笑ってしまう。目が笑みの輪郭を結んだ拍子に、ほろり、と。満々と湛えられていた涙が耐えかねたようにこぼれ落ちた。
それでもくすくす笑いは止まらなくて、そんなわたしを見て雷禅が呆れたように、お決まりの文句を口にする。

「…ったく。馬鹿女」

馬鹿と言われて嬉しいひとなんてこの世にいるとも思えないのに、全く怒る気にもなれないわたしはどうかしている。それもこれも、悪態を吐くこの声が優しいから。涙を拭う、頬に触れた手が温かいから。

「皺になるだろうが。いい加減、離せ」

シャツを掴んだ手に、雷禅の大きな掌が被さる。
静かに引き降ろされた手は、けれど雷禅の掌にすっぽりと納まったまま。手を繋ぐ、たったそれだけの行為で、どうしてこんなに胸を高鳴らせているのだろう。
懐かしい記憶の中のファーストキスよりもっと、切なくて、甘い痛み。よく考えたら、雷禅と手を繋いだ事すらなかったのだと、今更ながら気付いた。
当たり前といえば、当たり前のこと。手を繋ぐ必要が――理由がなかったのだから。

明らかに女のそれとは違う、雷禅の長い指。
カウンターの下で指を絡めて、互いのぬくもりを分け合って、目の前の、逸らされる事なく真っ直ぐに向けられた漆黒の瞳を見つめ返す。お多福並みだなんて本当は思っていない。未だに爆笑しているところは見たことがないけれど、ごくたまに雷禅ののぞかせる笑顔が、とても好きだ。

雷禅が、好き。


「・・・・・・拾ってくれたひとには一割あげる」
「フン。そんなモンじゃ足りねェな。報労金は上限二割までだ」
「下は五分じゃない」
「誠意にしちゃ随分としょぼいじゃねぇか」
「なら、大マケにマケて三割」
「・・・・・・出し惜しみするほどのモンでもねぇだろ…」
「暴言。やっぱり謝礼なし」


軽口を叩きながら、潤む瞳は酔いのせいか。酒に酔ったのか、ぬくもりに酔ったのか、それすらもわからない。

「甘いな。おまえはオレにデカい借りがあるだろうが」

すっと細められた瞳に、ただならぬ気配を感じ取り、防衛本能から思わず怯んで身を引こうとした瞬間、逆に繋いだ手を強く引っ張られ、倒れ込んだところを雷禅の胸に受け止められる。
絡めた指はきつい。耳元に感じる雷禅の吐息。心臓が壊れるとしたら、きっと今だ。
狂ったように鳴り響く鼓動に、耐えられるような心臓とも思えない。

「…それについては出世払いと言う事で」
「いい加減、耳揃えて返してもらわねぇとな」
「分割払いでお願いします」
「好きにしろ。年利は50%だがな」
「……法定利率越え過ぎなんですけど」

悪徳高利貸し、と呟けば、雷禅が喉の奥で小さく笑うのが手に取るようにわかった。耳にかかる雷禅の吐息に、意識が溶けてしまいそう。





耳元で囁かれて、ぞくり、と全身の肌が粟立つ。
吐息と共に吹き込まれる低音に、堪らず眼を閉じた。雷禅に、こんな艶めいた声でと呼ばれたのは初めての事だった。

身体が、心が、震える。

そっと耳に触れた、柔らかな感触。ぬくもりが伝わり、じん、と熱を帯びてゆく。瞑目しているのに、くらくらと眩暈がする。
甘美の二文字が過ぎる。尋常でない量のアルコールが全身の感覚を麻痺させるのより、もっと。
思考も焼き切って、何も考えられなくなってしまう。ただ、雷禅を感じるだけ。
耳に口唇を押し当てたまま、雷禅が囁いた。


「…つべこべ言わずに全部寄越せ」


甘さを内包した掠れ気味の低い声に、返品不可だと告げる気力も、もうなかった。