◇扉を開けた鍵の色


01

ほろ酔いでグラスを傾ける瞬間は、ベッドの中でまどろむ一瞬とよく似ている。

その心地良さからは、そう簡単には抜け出せない。

カラン、と涼しげな音を立ててグラスの中で氷が鳴った。
店内に低く静かに流れるサクソフォンの音色。ぎりぎりまで音量を絞ったBGMの中へ周囲の密やかなさざめきが広がり、そこへ時折、シェイカーを振る小気味良い音が交ざり合う。
普段、積極的に耳にするジャンルでもないから正直、よくわからないけれど、たぶん、ジャズなんだろうと思う。シャンソンほど気怠くもなく、ボサノヴァほど開放的でもない。けれど耳触りの良いこの音色とリズムは、あまりにも違和感なく店内の雰囲気に溶け込んでいるので、こういった店にはジャズ以外ありえないと思えてくるから不思議だ。

寝室のそれに近い光と闇の配分。

重厚な一枚扉は、時の流れをも隔てるのだろうか。こちら側はいつも、動と静なら間違いなく、静で。止まっている訳ではないけれど、ひどくゆったりとしている。当たり前のように、店内に時計はない。


「時の流れがわからなくなるね」
「そうだな」


自分も雷禅も、袖を少しずらすだけで終電までのタイムリミットを容易く調べられるのに、ふたりともそうしないのは、この心地良さの所為で時間感覚が麻痺しているからに他ならない。……と思う。時間という概念を忘れがちなのは本当。終電を逃して結局朝まで雷禅と飲み交わすこともザラだ。
敢えて時計を見ないのも、本当。帰りたくないのか、帰したくないのか、自分でもよくわからないときがある。
さりげなく店内へ視線を廻らせば、自分たちと同じように、止まり木でひそひそと、慕わしげに、そして親密そうに愛を囁きあう男女の姿が目に入る。

・・・・・・間違えた。

自分たちは、百歩譲って慕わしくはあるけれど、決して愛を囁きあったりなどしない。雷禅曰く、腐れ縁なのだそうだ。
そして今夜もまた、腐れ縁という大義名分のもと、残業中の雷禅を半ば強引に、ほとんど泣き落としで呼び出して、ついさっき終わったばかりの恋とも呼べない淡い想いの弔いを、アルコールで昇華させるべくいつものようにふたりで飲み交わしている訳なのだが。
おぼろげな橙色の灯りに浮かび上がる、細い紫煙と端整な雷禅の横顔。
雷禅の手許には、彼に似合いのアルクールのオールドファッション。
触れれば冷たく、そして切れそうな氷だけれど、琥珀色の液体に浮かぶ、クリスタルにも似た耀く球体は、その表情の柔らかさの所為か、どこか違って見えた。

今の雷禅に似ている。

排他的な雷禅も、このまあるく柔らかな光の中ではほんの少し、優しく見えるから。
みんな口を揃えてどこが?と呆れたように言うけれど、実際、いつだって雷禅は優しいと思う。わかりにくいだけだと反論すると、それがわかるは特別なんだと笑われた。
特別という響きに過剰反応して、動揺をひた隠すようにそんな事ないと一蹴したけれど、本当は嬉しかった。
一番近くて、一番遠い。自分にとっての雷禅は、そんなひと。
腐れ縁という言葉を挟んで、雷禅と過ごすこちら側は、紛れもなく静。微温湯に浸かっているような、安らぎにも似た感覚。安らぎと断言できないのは、漠然とした不安と欺瞞が存在するからだ。
いつか訪れるであろう、この微温湯が冷める瞬間を恐れる気持ちと、今はまだ堅く閉ざされた扉から、あえて視線を逸らす心境はどこか、ふたりが腕時計の存在も忘れたフリでグラスを重ねる夜に似ている気がする。その扉を越えたいのか、越えたくないのか、自分にもわからない。

腐れ縁という扉を立てたのは雷禅。
腐れ縁という名に甘えて、この安らぎに安住してきたのは自分。

わたしは、雷禅が立てた扉の意味を、未だに量りかねていた。
この先はないのだと示唆しているのか、自分と同じように安住を求め、あえて微温湯に浸かる事を望んだのか。静から動へ、その扉が開かれる時はくるのだろうか。
雷禅の気持ちを確かめる勇気が、自分にはなかった。
気がつけばいつもそばにいて、言葉のキャッチボールならぬ舌戦をたのしむ余裕さえ持ち合わせ、好みも癖も、生活パターンまで熟知している間柄だけれど、それを世間一般ではただ単に親友と呼ぶことも勿論知っている。
お互いに好きだというのもあって大抵アルコールが入る付き合いを、飲み友達と評されても致し方ないのかもしれない。

けれど周囲は異口同音に、は特別だと言う。
自惚れてしまいそうな自分が怖い。雷禅は今の今まで、何一つ、艶めいた言動などしてはいないのだから。
扉は開かない。たぶん、この先も。

もう随分昔に諦めたも同然の関係だ。
馴れ合いを好まぬ性格を思えば、こうして隣に雷禅がいる事自体奇蹟のようなものだから、最近は微温湯も悪くないと思っている。
ある時はグラスを、時には盃で、ふたりで飲み交わした夜はもう、数え切れない。その間に、わたしには恋人らしきひとが何人かできたけれど、どれも長続きはしなかった。
当然の結果だと思う。

雷禅の存在は、あまりにも大き過ぎた。

雷禅以上のひとを探し求めて、結局は振り出しに戻ること早数回。
恋と呼ぶにはあまりにも拙い仮初の縁を儚んで、そのたびに雷禅とグラスを傾けた。
失恋した、と電話口で意気消沈に嘆いてみせれば、あからさまな溜息がひとつ返されて、それでもいつも、来てくれた。一枚扉の向こうから、渋面を下げた雷禅が現れる瞬間、胸が熱くなる。


――何やってるんだろう、わたし。


自問自答の始まりだ。

情けなさに声も出せないで、ただひたすらじっと淡い光に浮かぶ光を見つめているわたしの元へ、つかつかと歩み寄ってきた雷禅は大抵、開口一番、馬鹿女、と言う。
挨拶代わりの悪態にも、頭を小突かれた手のぬくもりが勝って、気にもならない。いつもの?と尋ねるバーテンに軽く片手を挙げて答えると、言っておくがオレはてめぇと違って暇人じゃねェだの、いつからオレはおまえの守役になったんだ、などと低い声でブツブツ文句を言いながら、長い年月の間に指定席となったカウンターの左端に腰を下ろす雷禅を、泣き笑いのような表情で出迎える。
そんなわたしを見て、一層苦々しそうに眉を顰めると、雷禅は咥え煙草に火を点ける。

慣れ親しんだ、匂い。


そのたびに、あぁ、雷禅が傍にいるんだと実感した。