それにしても暑いねえ。店内で待つお客さんたちが口々に呟いた。母親の経営する花屋で手伝いをしていたわたしは、休憩中の母に代わって一人で店番をしていた。依頼された花を選び終え、綺麗に形を作りながら、ふと窓の外を見つめる。それなりに人通りのある店外では蝉の声と車の音が重なり合って、強い日光を遮るためにサングラスをかける人もいれば、日傘を差す人、歩きながら団扇や扇子を扇ぐ人もいた。こんな時でもスーツや長袖を着用しなきゃいけない業種の人は大変だろう。街中を歩く誰もが、この暑さにうんざりといった様子だった。
 ここ最近、気温は30度を超える猛暑日が続いている。外で作業をしていると何度流れる汗を拭いてもすぐにじわりと滲んでくる。仕事用の黒いエプロンのポケットにはタオル生地のハンカチが欠かせなかった。

 「はー、ここは天国だね」

 友人のお見舞い用に花を包んでくれと二人の年配のお客さんが、冷房の効いた室内で仕事をするわたしにそう声をかけてきた。確かに外の暑さと比べればここは寒いくらいだ。少しばかり申し訳なくて困ったように頷くと、もう一人のお客さんが「でも、お花屋さんは冬場は寒くて大変だもんね」とやさしくフォローしてくれる。お花を良い状態で提供するのに最も適した室温は20度前後だ。彼の言うとおり、夏は天国でも冬場は地獄だった。でも、お花の鮮度を保つためにはどうってことない。

 「でもほら」
 「え?」
 「お嬢ちゃん、鳥肌立ってるよ。寒いなら少し弱めればいいのに」

 お客さんの指摘にハッとして息を飲む。悪気があって言ったわけではないその一言に胸が抉られそうだった。震えそうになる手をなんとか押し込めて、愛想笑いでごまかす。そうですね、なんて思ってもない返事をした。図星を言い当てたと気分を良くしたのか、お客さんがしてやったりといった顔で笑う。本当は寒いわけじゃない。わたしはそそくさと花束に仕上げのリボンを巻きつけて平静を装いながら、出来上がった花を見つめ気を紛らわせた。先程フォローしてくれたもう一人のお客さんが、コイツは口が悪くていけないよと苦笑していた。

 「ご友人の方、早く元気になってくれるといいですね」
 「ははっ、嬢ちゃんみてえな綺麗な子に言われたら、あいつもすぐに治っちまうよ」
 「ちゃんと伝えておくよ」
 「はい。ありがとうございました」
 「おーう、お世話様〜」

 暖色をメインに包んだ花束を抱えながら、二人は照りつける太陽の下、友人の入院する病院へと向かって行った。外に出てその後ろ姿を見送りながらお店の中へ戻る。お客さんがいなくなった店内でホッと胸をおろし溜め息を一つ漏らすと、花の色がまるでわたしを励ますように何色も目に飛び込んできた。大粒の胡蝶蘭も小さなかすみ草も嬉々として輝いている。少し外に出ただけで額から汗が流れていくのがわかる。けれど、わたしは構うことなく自分の両腕をじっと見つめ直す。まだうっすらと残る鳥肌に、過ぎたはずの記憶が呼び起されて息がつまりそうだった。

 夏なのに、あの日から鳥肌が止まない。






 「、お前技術の成績だけ良くないなぁ」
 「は、はい…」

 お昼休みに差し掛かる授業後だった。わたし一人だけ呼び出されたかと思えば、片山先生はすぐに自分の教科の成績について話し始めた。購買のパンを楽しみにしていた友人には先に教室に戻ってもらい、わたしは出来たばかりの新棟にある技術準備室の前で先生と向かい合う。普段からあまり人の通らない新棟は、お昼ということもあって誰も廊下を通らない。聞こえてくるのは教室がある旧棟からの生徒の声と、お昼の放送で小さく流れるクラシックのみだった。成績の話をされるならうってつけだ。けれど、期末テストも終えもうすぐ夏休みなんだから、ちょっとくらい浮かれさせてくれてもいいのに…そんなことを考えながら、それでも進路に直接関係のあるこの時期を棒に振るうわけにはいかない。わたしは俯きながらも真面目に先生の話を聞く。

 「他の教科は平均以上なのに…」
 「すみません…つ、次の実技のテスト、頑張りますので…」
 「もしかして、先生の事嫌いか?」

 ふいに肩を掴まれて、驚きのあまり顔を上げた。先生が嫌い?そんな質問を大人である教師がするものなのだろうか。わたしにとって先生というのはとても偉大で知的で迷いがないものだと思っていた。それなのに、目の前にいる片山先生はとても不安そうにわたしを見つめている。思えばこの時、少しでも違う雰囲気を感じ取っていればよかった。先生は何も言わないわたしに肯定か否定かを促そうと視線を逸らさない。は技術だって見込みあると思ってるんだけど…そんな呟きに居てもたってもいられなくなり、先生の言葉に合わせるように頷いた。少しだけ怖いと思った。

 「せ、先生の事が好きとか嫌いとかじゃなくて…っわ、わたしがただ、技術が苦手なだけです!」

 矢継ぎ早に紡いだ言葉。ほんのちょっとのことなのに神経を使う。先生を傷付けてはいけないと必死になって、わたしは笑顔まで浮かべている。片山先生はゆっくりとまばたきを一度すると、いつもどおりの笑顔になって「じゃあ、放課後またここに来なさい」と言った。

 「放課後って…今日ですか?」
 「あぁ。お前の苦手な箇所、先生がみっちり教えてやるよ!」
 「で、でも今日は…」
 「なんだ。そのまま成績が変わらなくてもいいのか?先生お前の為に言ってるんだぞ」

 わたしの煮え切らない態度に不服そうな先生。冗談めかしてムッとしてるけど、きっと放課後に来いと言うのは本音だろう。はっきり断らない優柔不断さが、後になってわたしに押し寄せる。面倒くさい。でも、またあんな顔で問い詰められるのはもっと嫌だ。出来事を掻き消したくて、わたしはわかりましたとだけ答えた。その反応に片山先生は納得したように何度も頷きながら、絶対に来るんだぞと最後に念を押す。すると、ようやく先生から戻っていいぞと言われたので、わたしは一礼して教室へと戻った。放課後にわざわざ補習を受けるなんて、なんという不運だろう。でもほんの一時間程度を乗り切ればきっと先生も解放してくれるだろう。あの日のわたしはそう思い、少し遅れて友人とお昼を過ごした。もしも今、過去に戻れるなら、のんきなわたしに忠告をしに駆け出したい。

 補習なんて受けないでいい。一刻も早く帰って、と。











 「…っ、……!」
 「わっ…!」

 自分の名前を呼ぶ声に突然引き戻された。目の前にはスーパーの袋を片手に、休憩から戻ってきた母が立っている。こめかみから流れる汗が外の気温を物語っていた。ガラス張りの窓の向こう、相変わらず強い日差しがアスファルトを照らしている。母は日傘の折り目を綺麗に合わせ回しながら留め具で抑えた。わたしがようやくカウンター越しにおかえりと告げると、母は随分ぼーっとしてたわね?と心配そうに眉根を寄せた。けれど、なんでもないよと微笑むと、ほっとしたように裏の事務所へ姿を消した。どうやら、何かを声に出したりはしていなかったようだ。
 どれくらいそうしていたのだろう。時計を見ると、最後のお客さんが来てから20分も経っていた。エプロンを巻いて事務所から戻ってきた母に今日は上がっていいわよと告げられる。裏の事務所は備品置き場と簡易な休憩室や冷蔵庫が設置されていて、母の言葉通り店番を終わらせようと、わたしはエプロンを外し事務所に畳んで置いた。

 「ご苦労さま」
 「お客さん、わたしがいる間に4組来たよ」
 「あらそう。ももう、立派なお花屋さんね。いつも助かるわ」

 母がにこにこと嬉しそうに微笑む。わたしもこの仕事を手伝うことは大好きだ。でも、家に帰ればもっと大好きな土をいじれる。そのことを考えるだけで、嫌な気が少しだけ紛れた。

 「頼んでばかりで申し訳ないけど、家に帰ったら洗濯物を入れておいてね」
 「うんわかった。今日は16時から病院だから、それまで庭いじりでもしてるよ」
 「ええ、わかったわ。熱中症にはくれぐれも気を付けて、無理したらダメよ。あ、あと」

 店番用のカーディガンを脱ぎ、エプロンと一緒にハンガーにかけ直していると、ふいに母が思いついたような声を上げた。レジにいる母に視線を向けると、何やら意味ありげに微笑んでいる。何がそんなに嬉しいんだろう。

 「南野くんがね、褒めてたわよ」

 唐突に母の口から紡がれた名前にさっきとは違う意味でどきりとする。南野くん。心の中で呼んでみる。すぐに思い浮かんだ彼の表情。それだけで気恥ずかしくて頼もしい。
 一体彼が、わたしの何を褒めてくれたというんだろう。褒められるべきは彼であり、何においてもわたしが彼より秀でてる部分なんかないはずなのに。ぐるぐると回る考えに、母の言葉を待った。

 「野菜を作れるなんてって驚いてた。お母様も喜んでらしたわ」
 「ほ、本当?」
 「本当よ。あなたのこと沢山聞かれたわ。色々答えちゃったけど…大丈夫だったかしら?」
 「な、何を聞かれたのお母さん!変なこと言わなかった!?余計な話しなかった!?」

 身を乗り出したわたしに、母は一瞬きょとんとしていたけど、すぐに声を上げて笑い始めた。からかわれてるみたいですごく恥ずかしい。南野くんがわたしの話を、わたしのいない場所でしてるなんて…そんなこと今まで有り得なかったことだ。しかも母から直接わたしのことを聞く彼が想像できない。
 昨夜、仕事終わりに南野くんのお家に寄った母から、かいつまんで話は聞いていた。母も気を使ってか、わたしの負担にならない程度にしか詳細は語らなかったが、南野くんと彼のお母さんに謝罪とお礼をしてきてくれたことだけはじっくりと話を聞かせてくれた。でも、まさかわたしの身の上話までされているなんて思わなかった。聞かれた内容も話した内容も、聞きたいような聞きたくないような…穴があったら入りたい気持ちでいっぱいだ。
 一通り笑い終えると、母は浮かべた涙を拭いながら余計なことは言ってないから大丈夫よと付け足した。

 「とにかく、野菜のお礼を伝えてくれって言われたの」
 「そんな……お礼をするのはわたしの方なのに…」

 してもしきれないのに。わたしの一言に、母は急に真面目な面持ちでそうだね、と言った。

 「…また、何か持って行ってあげたら」
 「え?」
 「野菜よ。できることで精一杯お返ししたらいいじゃない」

 母の言葉に、わたしはあの日の南野くんを思い出す。駆けつけて上着をかけてくれた。怯むことなく、先生からわたしを守ってくれた。絶望の中、一緒にあの夕暮れの道を帰ってくれた。そうして謹慎処分を受けてまで、彼はわたしの身代わりになってくれたのだ。ただのクラスメイトのわたしの為に―
 唇を強く結んで頷いた。わたしにできることなんて南野くんができることに比べたら小さくて限られたものだろう。でも、それを南野くんが喜んでくれるならわたしには充分すぎて御釣が来てしまう。そのために、わたしは今、できることを一つずつこなしていこう。

 「お母さん」
 「うん?」
 「ありがとう。わたし、ますます野菜作り頑張らないと!」

 そう言うと、母が嬉しそうに笑ってくれた。わたしは家からお店までの距離にと被ってきた帽子を目深に被り、事務所の入り口で入念に日焼け止めクリームを塗り直し、意を決して外に出た。
 暑い…思わず漏れそうになる声をぐっとこらえる。お店の中と外とを出入りするのと、長時間外にいるのとでは明らかに勝手が違う。お店を訪れるお客さんたちが口を揃えて第一声に暑いと言っていたのも、今なら頷ける話だ。
 ふと両腕を見やると鳥肌が完全に治まっていることに気付いた。きっと、南野くんの話のおかげだろう。どうしてか、男の人なのに、南野くんだけは怖くない。
 変わらず降り注ぐ太陽を浴びて、わたしは家へと帰宅した。








彩庭に種を蒔く日


 失いかけた宿り木。見上げると、心に一つの火が灯る。それはいつでもわたしを照らして、大丈夫だよ。そう呟いた。