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「秀一、このお野菜どうしたの?」 「あぁ。それは」 さんが帰った後、少しだけ家の中がバタついた。学校側から謝罪の連絡が入ったのだ。さんが今日、学校へ事情を話しに行ったことでオレの誤解が解けたんだろう。誤解、というのはおかしい表現かもしれない。オレはあの時の行動に後悔なんかしていないし、教師たちが勝手に予想して判断を下しただけだ。元より間違いなんか起こしていない。すぐにでもお詫びに訪問したいと言われたけど、母さんはそれを丁重に断って、結局後日こちらから学校へ足を運ぶことになった。電話を切るなり「まったく勝手なんだから」と珍しく怒っていたけど、その顔はどこか嬉しそうだった。オレをずっと信じてくれていたんだろう。謹慎処分を受けた時も、母さんは下手に内容を聞き出すこともしないで、普段通りの生活をさせてくれた。過保護だなぁとは思う。けれど、同時に感謝もしている。 そんな母さんが冷蔵庫の隣に置いていたビニールに気が付いた。ゴト、と重たい音が響く袋の中身は、じゃがいもやきゅうり、茄子にトマトにと色取り取りの野菜が詰め込まれている。 「来客があったの?お隣さんかしら」 「違うよ。クラスメートの子が挨拶に来てくれて」 「クラスメート?お友達がわざわざどうしてこんなに…」 とっても立派なお野菜ね。真っ赤に熟したトマトを片手に、母さんが言う。 「さんて、女の子なんだけど。その子の家で収穫した野菜らしいよ」 オレの一言に母さんはとても驚いた顔をして、まぁすごい!と目を輝かせた。母さんもガーデニングが趣味だから、どこか共通するものを感じたのかもしれない。嬉々として袋から野菜を取り出しながら、夕飯は豚肉とピーマンの炒め物、茄子のお味噌汁にポテトサラダにしようかしらなんて、声を弾ませている。 その姿を見つめながら、ぼんやりと頭の中にさんを思い浮かべる。華奢な腕。涙を浮かべる瞳。それを拭う指。あの日から今日までが、まるで本の中の物語のようだ。時々上手く飲み込めなくなる。でも、うちを訪ねてきた彼女を見て、やはりこれは現実なのだと知った。この野菜たちを届けたのは紛れもなく、あの日助けたさんだ。 「母さん」 気が付くと、早速夕飯の準備に取り掛かろうとしていた母さんを呼び止めていた。母さんはオレに笑顔を向ける。 「どうしたの?」 「………いや、」 「秀一?」 シンクの上に敷かれたまな板に野菜が並ぶ。その後ろには、キッチンのすり硝子の窓越しに夕暮れが宵闇に変わっていくのがわかった。開け放たれた裏口の網戸の外からは、まだ幾つかの蝉の声が入り混じって鳴いている。何もしていなくてもじんわりと浮き出る汗もそのままに、実は。そう言いかけたその時だった。 ピンポーンと遠慮がちにインターホンが鳴り響いた。ハッとして母さんが玄関に出ていく。パタパタとスリッパを履いた足音を耳に、オレはまな板の上のじゃがいもを手に取った。まだ少しだけ付く土を払ってから水道で洗う。玄関では、母さんが誰かと何か会話しているのが聞こえる。女性の声だった。どことなくさんの声に似ている。包丁を取り出すと、母さんに呼ばれた。一旦玄関に向かう。 「何?」 「ほら、ご挨拶して。お友達の…お野菜頂いた」 母さんの言葉に固まった。お友達。野菜をくれた。でも、目の前にいるのはさんじゃない。つまり、彼女は。 「夜分に押しかけてすみません。の母です」 そう言って深々と頭を下げる。ダークブラウンの髪。さんの、お母さん。顔を上げると、唇をきゅっと噛んだまま寄せられた眉や縋るような優しい目元がオレに何かを訴える。「あなたが秀一くん?」震えた声で問いかけられた。オレはもう一度母さんに促されて初めてそこで彼女に挨拶を交わした。途端にさんのお母さんが泣き崩れて、何度も何度も頭を下げる。 「…っ本当に、ありがとう…うちの娘を……ありが、と…」 「そんな…どうか顔を上げて下さい」 「そ、そうですよさん。この子は、そんな感謝されるようなことは…」 まるで状況を把握できない母さんが、オレと彼女を交互に見やりながら、とりあえず部屋に上がって話しましょうと提案した。母さんに肩をさすられて少しだけ落ち着いたのか、さんのお母さんも小さくすみませんと呟く。儚げな表情。どことなくさんに似ている。挨拶が遅れてすみませんなんて、自分よりも他人を気遣えるあたりやはり親子だなぁなんて場違いな考えを抱きながら、さんのお母さんをリビングに通した。 その夜、何度も何度も謝罪と感謝の言葉を述べるさんのお母さんから、自分の息子の謹慎理由を初めて聞かされた母さんは、彼女が帰った後、とびきりの御馳走でオレを迎え入れてくれた。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ “―というわけでした。お母様、秀一君、大変申し訳ありませんでした” “今後二度とこういったことが起きないように、教育に携わる者として最善を尽くして――” 「………」 「………」 翌日、母さんと学校へ足を運んだ。本来はそのまま謝罪は不要だとフェードアウトするつもりだったが、昨夜さんのお母さんが訪ねてきてくれたこと、理由が理由なだけに知らん顔はできないと思った母さんが、早々に学校側の対応を知りたいとこういう形を取った。別に自分たちへの謝罪など不要なことに変わりはない。その後の片山の処分だとか、退学手続きを取った今後のさんへの対応をきちんと明白にしてほしかった。それだけだ。 事実が公になった今、片山は当然警察に引き渡し、教師という職は懲戒免職となった。たださんが話を大きくしたくないと、一部の教師と警察関係者以外には口外無用となった。オレとしてはあんな男、日本中に犯罪者のレッテルを貼られたまま地獄の苦しみを味わってほしかったが、それがさんの為にならないことを充分理解していたので、あいつの処分に関しては一切口は出さない。それよりも、今はようやく取り戻せそうな夏休みを味わいたい。 「母さん、オレ幽助の家に寄ってから帰るけど」 「あらそう?じゃあわたしはスーパーに寄って帰るわね」 「あぁわかった。色々巻き込んで悪かった」 そう言って背を向けると、バシッ!と思いきり叩かれる。驚いて振り返ると、母さんが少しだけ怒ったような表情を見せた。 「何言ってるの!秀一は母さんの自慢の息子!謝ることなんかないんだから」 「…それはよかった。でもここ、道の真ん中だからやめて」 オレの呆れた視線に、母さんはハッと気づいてあたりを見回す。立ち止まるオレたちのやりとりを気にかけながら歩く人々に、なぜか頭を下げる母さん。その仕草がおかしくて笑ったら、母さんも恥ずかしそうに笑った。 「んもう、笑ってないでよ」 「ごめんごめん」 「浦飯くんに宜しくね」 「うん、伝えておくよ」 「それから…」 母さんがにっこりと微笑んでオレを見据える。 「今度、良かったらさんも遊びに連れてきてね。お母さん、彼女にガーデニングのこととか教えてもらいたいわ」 「あぁ、伝えとくよ。彼女も喜んでくれると思う」 憶測だけど、でもきっとさんなら笑顔で承諾してくれるだろう。自惚れるわけじゃないが、彼女にとってオレは、他のクラスメートよりは打ち解けて話せる存在だと思う。 昨夜、さんのお母さんから少しだけ普段のさんの話を聞けた。親が花屋を経営している影響からか、小さい頃から土いじりが大好きで、ガーデニングはもちろん、ついには小さな畑まで庭に作ってしまったらしい。暑い中持ってきてくれたあの野菜たちも、実は彼女が手塩にかけて育て上げた野菜だそうだ。てっきり彼女のお母さんや、そのご実家からの贈り物かと思っていた。そんなこと、学校生活の中では知り得なかったさんの姿だ。ガーデニングや畑仕事に没頭するさんを想像すると、どうしてか鼻の頭に土をつけたまま気付かない彼女の姿が浮かんできて微笑ましかった。うっかり笑いそうになる。 そんなオレをご機嫌と取ったのか、母さんも嬉しそうに手を振ってから街の中へと行ってしまった。 「…暑いな」 真夏の太陽がここぞとばかりに照りつける。アスファルトから熱が返って、おまけに湿気も酷い。昨日行きそびれた幽助の家を目指す前に、とりあえず近くにあった書店へと避難した。自動扉が開いた瞬間、外とは全く違った世界が広がる。なんて涼しいんだろう。こうも差があると、外を歩くのが馬鹿らしい。きっとこの店内にいる何人かも、この暑さを凌ぎにきたに違いない。買うつもりもない本を一冊ずつ手に取りながら、身体から汗が引くのを待った。本棚に本を戻す瞬間、不意に隣の背表紙に目がいった。 「…メンタルヘルス」 副題に、心の傷を負う人へと書かれた一冊の本。ぱらぱらと捲る。目次には、傷を負った人間の記憶や脳の動き、対人関係や周りの人間がどう接するべきかが書かれていた。オレはそこで手に取った本を閉じる。何か違う気がしたからだ。 今、オレはさんのことを考えている。あの日傷を負った彼女。それはきっと事実で、消せない傷跡だ。でも、これからのオレと彼女の関係をたった一冊の本を頼りに築き上げるのは無機質な行動だと思う。マニュアルなんてない。百人いたら百人が、その対処法は違うだろう。治療方法や医学的な部分は医者に任せればいい。それ以外の部分はもっと手探りで彼女を知っていきたいと思うのだ。 望まれたわけでもないのになんて身勝手な考えだと自嘲しながら、そっと本を元の棚に戻した。でもこの考えに同調してくれる人間がいることに気づいて、オレは足早に書店を出てその場所へと向かった。 彩庭に種を蒔く日 どんな小説家や権威ある人間が書いた本より、目の前で苦楽を共にした彼らの生き様の方が納得できる。 家族と呼ぶには横暴で、友人と呼ぶには物足り過ぎてる…そんな仲間だけど。 |