「蔵馬が謹慎!?」

 ガタッと音を立ててテーブルが揺れた。反動で汗をかいたグラスの中身が波を立てる。オレはその様子を一瞥してから、目の前にいる二人に視線を戻した。床に座っていた幽助と桑原くんの驚きの声と表情。幽助は目を見開き、桑原くんはパクパクと開いた口がふさがらない様子だ。室内の沈黙と外で鳴く蝉の声が見事だった。予想通り、と思う。

 「そうですけど」
 「そうですけどってオメェ…なんでまた……」

 ごくりと唾を飲み込んで桑原くんが座り直す。幽助は相変わらず身を乗り出したままオレから視線を逸らさない。改めて思うのは、この二人にとっての「南野秀一」であり「蔵馬」という存在はよほど真面目でソツなくこなす人間なんだろう。自分たちならいとも簡単に突きつけられる謹慎の二文字が、オレとなったらまるで殺人と同義語になる。反論があるとするなら、オレだって社会に対して許せないことがあれば手段を問わないことだってある。我慢を忘れ教師に呆れたり、同級生にうんざりすることも勿論だ。ただそれが自分に降りかかる範囲のことなら話は別だが。
 二人の訝しげな視線をよそに、オレはふと笑って「続きは幽助の家で話します」と告げる。その言葉にハッとしたように我に返ると、「あ、あぁ…」と気の抜けたような返事が聞こえた。

 「まぁ、夏休みに入る二週間も前の話ですから」
 「へえ…なんか意外でびびった。オレやこいつならともかく」
 「オメーと一緒にすんな!」
 「ほんとのことだろーがバカ原!……でもまぁ、なんつーか」
 「はい?」
 「人間らしくてそっちのがいーや」

 そういって幽助がニヤリと笑う。桑原くんが「そういう問題か?」と横目に幽助を見て、オレはその姿にまた笑った。

 夏休みに入って3日が経った。エアコンの調子が悪いといったら「じゃあオレの家に移動しよーぜ」と幽助が言った。来てくれたばかりの二人に何も出さないのは気が引けたので、グラスに麦茶を注ぎ、それから他愛もない話をしているときに、ふと二週間前の謹慎について口を開いたのがそもそものはじまりで。別段隠すこともないが言う必要もなかっただろうかと考えてはみたものの、幽助の家で続きを話すと約束してしまったのでそうもいかない。早いところ事の発端を知りたくて玄関でうずうずと待つ二人をよそにガスの元栓や裏口の戸締りを確認してオレはリビングを出る。
 すると、靴を履こうとしたそのとき、ピンポンピンポンと遠慮がちにインターホンが二回鳴った。宅配便だろうか。

 「あの……あ」
 「うお?」

 靴を履いて待っていた幽助がオレの代わりにドアを開ける。そこに立っていたのは、両手にビニール袋を持ったクラスメートのさんだった。「南野」と間違いなく表札に書かれていたはずなのに、オレではなく、幽助と桑原くんの二人が出たことに驚いたように目を開く。誰だろうと頭に疑問詞が浮かんでいるのが見えた。固まったように口を開いて、それからすぐにオレと視線が合った。さんは少しだけ安心したような表情を浮かべる。

 「あ、あの、突然お邪魔してごめんなさい…」

 律儀に頭を下げるさん。それを見て、幽助がオレに視線を投げかけた。オレは二人に「先に行っててくれ」と告げる。幽助は何かを察知したように「おう」と言いながら桑原くんの耳を引っ張り玄関を出て行く。「いてて」という桑原くんの声と、横に道を空けたさんに「ごゆっくりー」という幽助の声。それから命の灯火を燃やし尽くすような蝉の声が入り混じった。暑さとは対照的に7月の空は不釣合いなほど清々しい。












 生徒たちが浮かれ出す二週間前だった。期末を終えて残るは長い休暇を満喫するその目前。変わらない生物部からの勧誘をかわしながら、放課後教室に戻ろうと新棟一階の廊下を歩いていた。新棟は元々各授業の移動教室先として使われる部屋ばかりが並んでいる。生物室、化学室、技術室、調理室、被服室。そのどれもが一年前の建て替えに伴い設備や機材を新しく取り付けられた。
 どうしてもそこを通らなければ教室に戻れなかったわけではないのに。オレは滅多に通らないその廊下を黙々と歩く。新棟には同じように各教科担任の準備室や研究室も兼ねていて、生物部の顧問なんかに捕まってしまえばまた話が長くなるだろう程度の考えしか頭になかったと思う。

 ガチャ、ガチャガチャッ――

 「?」

 不意に廊下を渡りきったそのとき。ドアノブの回る音がかすかに聞こえた。放課後の学校の廊下というのはやはり物言えぬ雰囲気を抱えている。霊感が強いのだから(というより、これまでの生き方から)当然といえば当然だが。オレは振り返ってもう一度耳を澄ます。

 「誰かいるのか?」

 返事はない。物音も。だが、確かにさっき音を拾った。わずかだが不信感が沸く。廊下を今来た方向から逆に進んでみる。順に、被服室、被服準備室。

 「…………」

 誰もいない。気配すら感じない。次に調理室、調理準備室。

 「…………」

 物音はない。オレの聞き間違いだろうか。扉に手を触れて気を確認しても、やはり中から人の気配は感じられなかった。肝試しでありがちなシチュエーションに囚われた何気ない物音だろうと決め込んで、再び教室を目指そうと歩き出す。
 瞬間、鈍い音と同時に隣にある技術準備室の扉が弾くように開かれた。


 「はぁ…は、……っ!」
 「さん?」
 「…み、南野く……っ」

 さんだった。自分を抱きしめるように肩を震わせている。


 「おねが…ぅっ…みな、野く……たすけてっ!!!」


 張り叫ぶような声音。恐怖で支配された瞳。頬には涙が幾筋も浮かんでいた。いや、それよりも―破かれてボロボロになった制服はその役割をまるで果たしていない。肌さえのぞく下着姿同然の格好からは攻防の痕が見て取れた。それが、彼女が、一体何から救いを求めているのかを物語り、瞬時に理解する。「何があった?」そんなもの、聞くことさえ躊躇うような直視しがたい光景。
 すぐに彼女に駆け寄って、オレは着ていた制服の上着を被せる。彼女が居た堪れない感情よりも、今は開いたままの技術準備室の奥から感じる視線に混乱と冷静さを取り戻したい気持ちが一気に押し寄せ、それからすぐに波が引いた。蹲るようにして技術担当の片山が室内の壁に寄りかかっている。オレに気付いて、狼狽えたように呟いた。

 「…南野」
 「何してるんですか、先生」

 おそらくオレは校内で一度も見せたことのない顔つきをしている。相手がごくりと唾を飲むのがわかる。

 「こ、これは違うんだっ!」
 「…何がどう違うって?」
 「ほ、ほかの先生たちには黙っててくれ!な、な?頼む…!」
 「……下衆め」

 一歩一歩詰め寄って寄りかかり逃げ場のない片山に気付いたら手が出ていた。そう言った方が正しい。理性よりもこのときばかりは感情が血の巡りよりも早く先立っていた。
 ゴンッと鈍い音が準備室に響く。我に返って室内を見回す。さんの精一杯の抵抗だろうか、椅子や工具が散乱している。胸を突いて痛々しいその光景に、目を逸らしたかった。一体今の今までどんな恐怖を強いられてきたんだろう。それに比べたら、オレの与える制裁など取るに足らないはずだ。
 部屋を出て廊下にしゃがみ込んださんを見つめる。見慣れたオレの制服を強く強く握り締めていた。
 普段ならそこで証拠を残さないよう後にするものを、今日に限っては構うことなく、いや、とにかくこの場を立ち去りたい一心で彼女の肩を抱く。すると一瞬だがびくりと身を竦めて小刻みに揺れる彼女の小さな身体に脱力しかける。無理もない拒絶反応に現実を知った。けれど、オレであることに気付いたさんは応えるように気丈に立ち上がった。

 「…行こう」
 「ひっ……うぅっ……ん…」

 声にはならない声で頷く。さんはいつまでも顔を上げなかった。










彩庭に種を蒔く日


 どうしてこんな目に遭わなければいけなかったんだろう。その想いを、この傷を、彼女に背負わせたくない。