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それはまだ自覚も無くて、春の芽生えさえ乏しかった頃。どうして運命が決められているのかわからなかった。 「ほほう、こいつが世にも珍しい"春のこども"か…」 「さようでございます。闇市場では誰もが喉から手が出るほど欲する逸材です」 「わはははは!そいつがワシの手に入ったとなれば、また大金が動くわい」 平穏に暮らしていた。非凡ではあったが優しかった父と母。そんな二人との何気ない毎日が突如として壊されたのは、世の中の全てを財力と地位で決めてしまう悪趣味な人間たちの穢れた手だった。 誰とも違う、0か100かの極端な考え方に、振り回されて怯えていた。でも、歯向かうことすらできないでいた。冷たい鉄格子の中、手足には重く鈍い枷が嵌められて、目の前には品定めするスーツを着た二人の男。その卑しい視線を浴びるたびに、わたしは心にも枷を付けられていくようだった。 「ふぅむ、よく見ると見目美しい」 「さすがは宝条様お目が高いです。宝条様のコレクションにはもってこいの一品ですよ」 「ワシは本来宝石以外に興味はないが…以前氷泪石を生み出す女を垂金に僅かな金の差で取られているからな…」 「氷泪石?あの氷女が生み出すと言われている、高価な石ですか?」 「そうじゃ。だが盗賊だかに襲われて垂金は死んだ。その際に氷女も奪われたようだ、ざまぁない」 「なるほど…」 ニヤニヤと、まるで人の死を然も嬉しそうに話す宝条と呼ばれた男。詳しいことはわからなかった。でも、わたしと同じように攫われて、利用された人がいるんだろう。「ひるいせき」と呼ばれたそれが何なのか、その後その女の人がどうなったか。いずれ事の顛末を知るわたしも、この時は恐怖に支配されていた。そうして自分も同じ目に遭うと悟った。 「して、この春のこどもの名はなんと言う?」 「です。春でありながら、禁忌を犯して人間の男とつがいになった女の娘でございます」 そう説明する男が檻の扉の鍵を取り出す。ギィと重い音を上げて開く扉から、太く皺くちゃな手が伸ばされた。わたしは顔を顰めて全身で拒絶する。触らないで、と声にはならない声を両目を瞑ることで訴えた。けれど、それが癪に障ったのか、宝条と呼ばれた男は差し出した手をすぐさま振り上げて、わたしの髪を思いきり引っ張り上げた。 「っ…」 「貴様、なんだその態度は!今日からお前の主人になってやるというのに!!」 「い、痛…っ、はな、し…て…」 訴えはカビ臭い地下の壁に吸い込まれていく。所詮金づるが口答えするな。引っ張り上げる手を緩めずに、宝条は言った。枷の擦れる金属音が響く。うっすらと目を開けば、檻の前のスーツの男が相変わらずニコニコと表情一つ変えずに様子を見ていた。わたしの父と母を殺め、その娘であるわたしをはじめから売買目的で生かした男。全てが狂っている。 「出来損ないの小娘め。ワシがこの手でたっぷり調教してやるからのう」 それからの毎日は奴隷として生きていた。暗い暗いこの地下牢が部屋として与えられ、食事は一日に一度、水も満足に飲むことができなかった。日に日に痩せ細り体力と意識は限界ギリギリを行き来した。 近づく春の訪れを、その時ばかりは迎えられる自信がなかった。 そうして人間界の春は、3月になっても4月になっても花を咲かすことはなく底冷えした冬同様の日々が続いた。その異変に真っ先に気付いたのが他でもない、玄海おばあちゃん達だったのだ。 「ん…」 しんとした夜の空気に目が覚めた。バーベキューを終えて河原にテントを張り、そのせせらぎを子守歌に眠りについたのが数時間前。今は午前4時頃だろうか。一度覚めてしまった意識はなかなか再び眠気を誘わず、隣で眠る螢子ちゃんたちを起こさないように、わたしはそっとテントの外へ出た。 澄んだ空気が鼻を通る。寒さに思わず身震いして、自分を抱きしめるように両腕を擦る。浦飯くんたちは隣のテントで男所帯を楽しんだのか、河原には少しだけお酒の残り香が漂う。思えば確かに男性陣のテントからは随分遅くまで騒がしい声が聞こえていた。わたしは深呼吸をして伸びをする。見上げれば、藍色の夜空が星を一層輝かせていた。 「眠れないのか」 「!ひ、飛影さん…」 かけられた声に驚くと、大きな木の上に腰掛ける飛影さんがいた。彼はみんなと一緒にテントで眠らなかったらしい。確かに、あの狭い空間に収まって眠る彼の姿のほうが想像できなかった。 「…はい」 ちょっと嫌な夢を見てしまって。その一言が言えずしばし沈黙が流れる。嫌な夢。そう、それは悪夢であり、現実だった昔の記憶。俯くと、ストンと何かが風を切る。飛影さんの影がわたしを覆った。驚いて顔を上げると、目の前には何を考えているのか読めない表情の彼が立ち、わたしの頬に手を伸ばす。 「過去に囚われる必要などない」 「……はい。ふふ、飛影さんは、なんでもわかってしまうんですね」 「」 呼ばれた名前が胸に心地よく響く。わたしの言葉に、飛影さんは否定も肯定もしない。けれど、そのたった一言でわたしの見た夢が悪夢だったことを確信すると、彼はわたしの頬に伸ばした指をそっと動かしやさしく撫でた。 目を閉じる。男の人の手だ。昔はとても怖かったはずなのに、飛影さんの手は怖いと感じない。そればかりかもっと触れてほしいとさえ思う。 頬に置いた手を、そっとわたしの後頭部に置くと今度は身体ごと引き寄せられた。あ、と思った時には彼の胸に抱き止められて、そのままお昼の時のようにお姫様だっこをされる。 「ひ、ひえいさ…」 「大人しくしてろよ」 言うや否や、彼は先程まで自分自身が上っていた木の上目掛けて飛び上がる。わあと声が出そうになるのを、飛影さんの手で口を塞がれた。彼の目が、大人しくしてろと言っただろうと訴えている。 「…全く」 「す、すみません…。で、でもビックリするんですよこれ…っ!」 再び大きな声を出しそうになるわたしに、飛影さんが少しだけ焦ったように口元を手で覆う。騒ぐと落ちるぞ。小声で彼が言う。そうだ、わたしは今、太いとはいえ木の枝の上にいることをすっかり忘れていた。下を見て思わずたじろいだ。なんて高さだろう。下から見上げた時は、こんなに高いなんて思わなかったのに。ぎこちなく視線を上げると、心臓がバクバク鳴っていることに気付いた。わたしを抱き抱えたまま幹に寄りかかる飛影さんの首に、思いきり腕を回した。飛影さんが苦しそうにオイと言ったけど、お構いなしだ。 「た、高いですよう…」 「下を見るな。上だ」 「うえ?」 巻きつけた腕の力をほんの少し緩める。飛影さんの言う通り上を見ると、枝の間に煌めく星の大群が広がっていた。 「わあ…!」 なんて景色だろう。なんて星の数だろう。いつも見ているはずのこの山の星が、木の上にのぼるだけでこんなにも表情を変えるなんて。昨日は夕焼けも綺麗だった。きっと夜も晴れて星が綺麗に見えるだろうとは思っていたけど、まさかここまで肉眼で輝くなんて。圧巻の美しさに見惚れてしまう。そんなわたしを、飛影さんが見つめていることに気付きもせずに。ついさっきまで感じていた恐怖はいつの間にか和らいで、わたしは余すことなく星や大きな空を見つめていた。凛とした空気が心地よくて時折流れていく星さえも目に焼き付けることができた。飛影さんはいつも、こんな景色を一人占めできてうらやましいと思う。この星空を見て、飛影さんはいつも何を想い、何を考えるんだろう…そう思った。 「きれい…」 わたしの一言に、飛影さんは何も言わず目を閉じている。でも、口元が少しだけ微笑んでいた。きっとそれが返事なんだろう。 不意に、わたしは今のこの状況に目をやる。高い木の上。飛影さんと二人きり。そればかりか、飛影さんに横抱きされて彼の首に手まで巻いている…遠退いた恐怖に冷静さを取り戻してしまった。わたしは、自分自身の顔や身体がどんどん熱くなるのを感じる。わ、わたしは、なんて体勢で飛影さんと過ごしているんだろう。意識するなと思えば思うほど、火照りも一層強くなる。 内心であたふたするわたしに気付いたのか、飛影さんが静かに目を開いた。わたしは思わず身体を仰け反らせる。その様子に一瞬ぽかんとしたけれど、飛影さんはすぐさま状況が飲み込めたのかフッと口角を上げて、わたしの後頭部に再び手を置く。ぐいと引き寄せると、わたしは彼にもたれるようにまた抱き止められた。心臓が、先程とは違う意味でバクバクと音を鳴らす。 「逃げられないぜ」 わたしの耳元に唇を寄せて、くっと喉で笑いを堪えるように彼が言った。鼓動がさらに高鳴っていく。なんて意地悪な人なんだろう。こんな状況で、そんなことを言うだなんて。耳まで真っ赤に染まっているのも、きっと飛影さんにはバレているはずだ。自分でも自分が今どれだけ熱を感じているのかわかるくらいどこもかしこも熱い。耳元で感じる彼の吐息がくすぐったくて、ぎゅっと目を瞑った。飛影さんのおかげで悪夢のこともすっかり忘れていることに気付く。 飛影さん、飛影さん。わたし、本当に、あなたのことが― 伝えられない言葉。星たちだけが知っている想い。二人だけの夜の時間が過ぎていく。 「ふぁーあ」 「おはようちゃん」 空が白んで、朝陽が昇り始めた頃。 珍しく早起きの浦飯くんといつもどおりのぼたんちゃんが、ほとんど同じタイミングでそれぞれテントから顔を出した。 「おはようございます!」 わたしは、キャンプ用のテーブルに持ってきていたクロスをかけて朝ごはんの支度をしていた。随分早起きだなお前。浦飯くんが川辺で顔を洗いながら言う。朝からありがとうねちゃん。ぼたんちゃんも続けて微笑む。わたしはいいんですよと笑い返す。いつもより思わず声が弾んでしまう。 カセットコンロでお湯を沸かして、とりあえず起きている三人分のコーヒーを淹れた。山の朝はいいねえ、空気が美味いなぁ、そんなことを口々に二人が言い合う。本当に、朝になっても川の流れる音はやさしくて、少しだけ霞がかった山に日が当たり気持ちが良かった。数時間前まであれだけ綺麗に見えていた星たちは朝の空に潜むように消えていき、明るい一等星たちだけがまだ光を放っている。けれどもうそろそろ太陽に負けてしまいそうだ。 「お前ちゃんと寝たんか」 浦飯くんが紙コップに口をつけながら言う。ちゃんと寝たよ。返事をすると、ふーんならいいけど、と言った。 わたしは、もしかして夜明け前の飛影さんとのやりとりを聞かれていたんじゃないかと思い、ほんの少しドキドキしていた。別に悪いことをしていたわけじゃないのに、だ。上手くごまかせただろうかと内心焦っていたが、コーヒーを飲んでごまかす。 「そういや飛影は?」 「っ!げほっげほ…っ!」 「ちゃん!?」 「な、大丈夫かよお前!?」 意中の名前が出て、思わずコーヒーを咽てしまった。そんなわたしを見て、隣に座っていたぼたんちゃんも、前に座っていた浦飯くんも慌てふためく。ご、ごめんなさいと息を整え謝るけど、おかげで前方から疑惑の視線を投げかけられる羽目になった。背中を擦るぼたんちゃんの手がやさしい。 「ははーん。さてはお前、飛影と何かあったな」 「な、何もないです!変なこと言わないで浦飯くん!」 わたしの否定の仕方が彼をますます面白くさせてしまったのか、浦飯くんはニヤニヤと口元を緩めている。まだ咳き込みそうなわたしの背中を撫でているぼたんちゃんが、やめなさいよゆーすけ!と代わりに反論してくれるけど、浦飯くんには逆効果だった。正直に言っちゃいなよちゃ〜ん?まるで悪人のようなやりとりに、わたしがもう一度否定しようとしたその時だった。 「いでっ!」 突然浦飯くんが頭を押さえて椅子からずり落ちる。わたしとぼたんちゃんは何のことかわからず顔を見合わせる。すると、浦飯くんの後ろにある川の向こう岸に飛影さんが立っているのがわかった。その手にはわりと大ぶりの石をいくつか持っている。 「いってぇー……ってコラ飛影!てんめぇええ!!!!」 「手が滑った」 声が良く響く河原。そんな言葉を交わしてしまったが最後、浦飯くんと飛影さんの終わりそうにない鬼ごっこの始まりだ。ぜってえ許さねえ!そう息巻く浦飯くんとは対照的に、飛影さんはどこ吹く風といった様子で飄々と追われている。その姿を見て、ぼたんちゃんはやれやれと呆れて頭を抱えていた。慌ただしい外の雰囲気に気付いたのか、そのあとすぐに蔵馬さんや螢子ちゃんたちも一斉に目を覚ました。おはよう。何事?みんな口を揃えて聞いてくる。 みんなの分のコーヒーを追加で淹れながら、ずっとこんな日が続けばいいのにと切に願う。 この日々を、みんなを。 あなたを絶対に失いたくない。それなのに― |