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うちは温泉が出るんですよ。そう言って女中さんにこっそりと案内された内風呂は、それはそれは広くて立派な浴場だった。 仕切りを隔てた向こう側の男湯は、朝から賑やかな笑い声や流水音、桶で水を汲む音、戸の開閉音などが壁に当たって反響している。女中さん曰く合戦に勝利した翌朝で男風呂が混み合っているらしく、一方この時間の女湯は貸し切り状態だった。 湯煙がもくもくと立ち込める中、爪先に神経を集中させそっと湯船に足を浸ける。じわりと皮膚に湯熱が触れる面積が増えるたび目尻が下がり、そのまま溶けてお湯と一体化しそうになる。そうしてゆっくり肩まで浸かれば、大半の人間があぁとかはぁと呟いてしまうから不思議なものだ。 御多分に漏れずわたしも、沁みるあまりに声を出していたつもりだったが、感嘆は今日も音になることはなかった。 (極楽…) 恐らく未だ密偵や間者の疑いが晴れていないであろうわたしに、まさか包帯の男の方から入浴を提言してくれるなんて。お風呂という日常を有難く感じてしまうほど、今になって濃厚な昨日一日をよく生き抜けたものだと実感する。崖から落ち、彷徨い、忍び装束の男たちに拾われ、捕らわれ、芸者に絡まれ、それから… ―私以外の前で啼くなよ野兎 突如ありありと再生された昨晩の場景に勢いよく立ち上がると、ザパァと大きく湯船が揺れる。 (な、何思い出して…) 耳に残る吐息交じりの声音。厚い胸板。逞しい腕。慕う相手ではない男との初体験。 巻き込んでしまったことを謝罪したものの、嫌な役目を一方的に負わされた男にとって、情事で交わした言葉に深い意味などないはずだ。 けれど、途端に強く吸われた首筋やお腹がじくじくと甘く痛み出す。 ―今更恥じらっているのか 忍び装束を着た男との今朝のやりとり。それはそうだけど…と思わず頭の中で返事をしながら、ぶくぶくと目元まで湯に隠れる。ドッドッドッと心音がやけに騒がしい。 何より驚いたのは、抱かれることに後悔はないかと男自身に問われたことだ。薬を飲まされ淫欲に苦しむ女がさぞ哀れに映ったに違いない。 それなのに、律儀に問いかけられたことで男のこれまでの背景が少しばかり見えた気がした。興奮の最中とは言え、行為の始めから男の火傷痕に後ろ向きな思いを抱きもしなかったわたしは、確かに包帯の緩んだ隙間から膿んだり縮んだりした赤黒い皮膚が覗いていたが、その身体に抱き寄せられるのは不思議と怖くはなかった。けれど、無理矢理に抱くことはせず、わたしの意見を確認する行為は、つまりは過去誰かに拒絶される場面があったということだろうか。 あのときのわたしは、失った声の代わりに指文字で心苦しさを伝えることで精いっぱいだった。だって、慕い合う男女は薬の力なんかなくても、その……昨日抱いたような気持ちになったり、ああいった行為を想い合いの中で育むのが普通のはずだ。そこに包帯の男を巻き込んでしまったのは他でもない、わたし自身で― 浴場の上壁を見つめながら、はたと思考を止める。 気付けばあの男のことばかり考えて、これじゃあまるで催淫薬の効果が持続してるみたいで恥ずかしい。湯熱で温められた体とは別の意味で熱を持った頬を押さえながら、わたしは湯船の中で姿勢を正す。 そもそもいつになったら解放されるのか、忍びの格好をした彼らがどんな人間かもわからないのに、こんな思いに囚われるなんて…。包帯の男だって、筆を投げて取ってこいと命令するようなやつだったじゃない…! 一刻も早くここから出て、本来営んでいた生活に戻るために動かなくては。そのためにはまず、この場所の詳細や建物の出入り口、あの忍びの男たちの情報を集めないと…。罪悪感や妙な情に絆される必要はない。うんうんと自分に言い聞かせながら誰もいない女湯で一人頷く。 「はぁー、勝った翌朝の風呂は別格だな」 すると突然、隣の男湯から談笑に交じって大きな声が聞こえてきた。聞き覚えのある複数の若い声に驚き肩を竦ませ、ぴたりと動きを止める。 「戦勝すれば朝飯も豪華だし」 「こういう時、タソガレドキで良かったなって思うよね」 タソガレドキ。その言葉に三人の青年の顔が思い浮かぶ。 ◇ ◇ ◇ 今朝方寒さで目が覚めると、自分が和室に敷かれた布団の上にいることに気付いた。どこか見覚えのある室内に数刻前までの閨事を思い出し、一人赤面する。 体には襦袢と掛布団が掛けられていて、そうしてくれたのが誰なのかもすぐに頭に思い浮かんでいた。 (っ、!痛たたたた…) ひとまず襦袢を羽織り起き上がろうとした体に今度は初めて感じる鈍い痛みや違和感を覚えた。 途端に足の間の湿り気に気付き布団の中を覗くと、血と何かが混ざったような桃色の染みが出来ている。 今感じている体への余韻を与え、布団を掛けてくれた人物にわたしは女としての初めてを捧げてしまったんだ…。上半身を起こした状態のままそんなことを考えていたら、不意に大きなくしゃみが出た。 『誰かいるのか!』 すると、和室の外からひそひそと話し声が聞こえ、間を置いてしばらく、勢いよく襖が開かれた。廊下からそれぞれ髪色の違う上半身裸の三人の青年が顔を出す。 何事かと思っている者同士、視線が合うなりその目を見開き、室内には沈黙が訪れる。 『きっ…、貴様何者だ!』 『タソガレドキ領地と分かってここにいるのか?』 『布団から出ろ!話はそれからだ!』 口火を切るように代わる代わる話し掛けられ、わたしは慌てて身振り手振りで説明をしたつもりだった。声が出せないこと、お腹や腰が痛みすぐには立ち上がれないこと、一応昨日からここにいること。 けれど、興奮気味の三人には上手くは伝わらず、布団を引き剥がされそうになる。そ、それは色々とまずい!と必死で布団を捲られないように掴んでいると、一人の青年がおもむろに「首…」と呟き、わたしの首筋を凝視した。…首? 『…その首の痣……』 『もしかしてお前、何か病を…?』 一瞬何のことかすぐには理解が追いつかなかった。首。痣…連想しながら首元に手を這わせていく。姿見が無いのですぐには確認ができなかったが、十中八九包帯の男との情事で付いた鬱血痕のことだろう。思いもよらぬ指摘に急いで首周りを隠した。純粋そうな三人には気付かれていない。 『だから声も出ず、腹や腰が痛み、動けずにいるのか……?』 あ、そこは身振り手振りで伝わっていたんだ、と内心で呟く。けれど、大きく異なる解釈をしたまま三人の青年は頷き合って、とにかく組頭に報告だ!と嵐のように走り去ってしまった。 ◇ ◇ ◇ 浴場に反響しているこの声は間違いなくあの三人のものだ。わたしはタソガレドキと呼ばれたこの場所や、包帯の男の弱みの一つでも聞けないだろうかと情報収集がてら聞き耳を立てる。 「でもさ、組頭たちが喜んでくださるのが何より嬉しいよ」 けれど、聞こえてきた爽やかに弾んだ声にわたしは目を見開いた。そうだな!と他の二人も同意している。 組頭、はおそらく包帯の男の役職だ。昨晩審尋を受けた際も、他の男たちに「組頭」と呼ばれていたのをわたしも直接聞いている。忍び装束を着こなす面々の組頭なのだから、当然この忍隊の長だろう。 本人のいないところで慕われる会話が繰り広げられるということは、強面の外見とは裏腹に結構部下からの信頼が厚い人物のようだ。 「また来るべき時にお役に立てるよう腕を磨いておこう」 「あぁ。黒鷲隊の名に恥じぬように」 そう言って青年たちの話題は変わり、しばらくすると男湯の扉の開閉音がした。三人がいなくなったことで壁の向こう側から聞こえる声は幾分小さくなったが、浴場自体はまだまだ賑わいを見せている様子だった。 (組頭……) 青年たちのやりとりを思い返しながら、わたしは再び鼻元まで湯船に浸かる。 彼らの実直さに比べ、裏で舌を出すような気持ちで盗み聞きをしていた自分が恥ずかしかった。女は体を重ねた男に母性や情が湧くと言うけど、本当は自分だってほんの少しあの青年たちの気持ちが理解できるくせに。 もっと酷い目に遭うと思っていた。身包み剥がされ、暴力や拷問で詰問された挙句その辺の山に埋めることだって出来たはずだ。けれど、わたしが今生きてこうして温かいお風呂に入れているのは、包帯の男の計らい以外の何物でもない。 (…い、いや、でも、まだわからないもの!これが最期のお風呂になるかもしれないし…) 絆されかけては思い留まるの繰り返し。 初めて異性に触れられた自分の肌にそっと触れてみる。お湯の中でゆらゆらと映る肢体はいつもとなんら変わりはないのに、腰や下腹部には今もまだ余韻が抜けない。 巻かれた包帯を乱した男の強く優しい感触が、朝になった今もあちこちに残っていた。 ![]() 浴場を出て脱衣所の暖簾をくぐると、一人の男が壁に寄りかかっていることに気付いた。腕組みをしているその人物は、陣左と呼ばれていた切れ長の目の男だ。 昨晩タソガレドキの戦勝地とも知らずに彷徨うわたしを捕らえ、包帯の男の前に通されるまで、彼と謎の面をした男には色々と尋問されたので覚えている。 身構えるわたしに構うことなく、彼は組んでいた腕を解き、湯浴みはもういいのかと尋ねた。一定の距離を保ちながら一度だけ頷く。 「…そういえば唖だったな」 考えてからもう一度頷く。正しくは唖ではない。声が出ないことは生まれつきでも後天的な病でもなく、ただ一部の記憶と共に失ってしまっているだけだ。 文字も書けるし自分が誰かも理解している。何者かから逃げ、崖から落ちた記憶まではある。けれど何をしていて、誰に追われ、それまでどんな風に暮らしていたかが抜け落ちている。その手前を思い出そうとすると頭痛がした。 俯いたわたしの視界に何かが差し出される。それは昨晩から押収されていた薬学帖と筆だった。すぐには意味が理解できず思わず顔を上げる。 「…?」 「お前の物だろう。とはいえ、未だ完全に疑いが晴れたわけではないが」 男は顔色一つ変えずに告げた。昨日ぶりに返却される薬学帖と筆をそっと受け取る。 曰くわたしの身元について周辺を調査したが、聞き込みをした中にわたしを知る人物は一人もいなかったらしい。他の領地の忍や囮であればすぐに情報は入るし、かと言って諜報の線も完全には捨てきれない。けれど、それにしては変装もせず武器も毒も所持していない点から、一旦は保留ということになったようだ。 「全ては組頭の恩情だ。殿に掛け合い、今日から忍隊所有の屋敷内のみお前は自由の身」 「!」 「詳細を知っているのは組頭と小頭、そして私のみ。下の者たちには大まかなことしか伝えていない」 淡々とした口調。あの包帯の男が組頭ということ以外、小頭が誰なのか、目の前の彼の役職、それより下に当たる人間関係がいまいちわからなかったが、しばらくの身の安全が保証されることにわたしは安堵した。間者の疑いが晴れるまでの恩情。例えそれが限られた自由だとしてもだ。 わたしが今いるこの場所は城内のため監視下になる。忍隊の屋敷まで案内しようと男が言った。とりあえず今は従うしかない。わたしは頷き、男の斜め後ろをついていく。 「……薬学に精通しているんだな」 板貼りの廊下を歩きながら男が話し掛けてきた。勝手ながら冷たそうな印象を抱いていたせいで意外に映る。 精通というほどではないけど、薬学は今もちゃんと覚えていることの一つだ。どう答えようか戸惑っていると、男がちらりとこちらを窺う。 「読唇術を嗜んでいる。口元を動かしてくれたら多少読み取れる」 伝える術に悩んでいたことを汲み取った男がそう言葉を掛けてくれた。わたしはぽかんとしたものの、急に口元に注目が集まることに緊張を覚えて唇を結んだ。男が不思議そうに首を傾げわたしの声にはならない言葉を待っている。意を決してゆっくり言葉を紡いでみる。 "すこしちしきはあります" 「"少し知識はある"か」 男は読唇しながら意味を噛み砕き、ふむと頷いている。一方で、この簡単そうで難しい技術を習得していることに感動を覚えた。口元の動きだけで正確な思いが伝わったことが嬉しい。 「…火傷痕に効く薬もあるのか?」 歩幅を合わせた男がわたしの隣に並ぶ。 火傷痕。その単語にすぐに思い浮かんだのは包帯の男のことだ。もしかして、彼は。 "くみがしらさんのため?" 口元を動かして首を傾げた。伝わり易いと思い、敢えて組頭さんと口形する。男は小さく口角を上げて「まあな」と言った。 まただ。大浴場の青年三人組に続いて、目の前のこの男までこの場にいるわけでもない「組頭」のことを慮っている。無愛想な顔つきを柔らかくしてまで。 (…よっぽどすごい人なのかな…) わたしは心のどこかで、包帯の男が誰からも疎まれ憎まれるほどの人間ならいいのにと思っていた。意地悪で、途轍もない悪人で救いようもなく、気紛れで人を傷付け時に殺めるような。そうすれば、あの男に何をしても免罪符になるだろうと。 けれど、耳に入ってくるのはどれも包帯の男を慕う発言ばかりだ。喜んでほしい。役に立ちたい。そのために腕を磨いておく。療治においてできることはないか。 気になったことを確認してみたくなった。失礼な言い方かもしれないけれど、若いとはいえ大の男の大人たちが、たった一人の「組頭」をそこまで大切に思う理由は何ですか、と。 意を決して口元を動かす。切れ長の目の男がじっと見入る。 "みなさんどうしてあのひとを" わたしの言わんとすることを理解したのか、言い切るより前に彼が口を開いた。 「…我々にとってあの御方の存在は、命よりも重い」 感恩、恩義、忠誠、誠心、憧憬、野心、興味、仁義、献身、理由は各々違うがな。目の前の男が言葉を続ける。 「だから、どうか察してほしい。くれぐれも組頭の御顔に泥を塗る真似はしてくれるなよ」 優しくなった表情を再び引き締めて男が歩き出す。浴場で聞こえてきた三人の青年とはまた違った重みの言葉と思い。なんとなく、彼は三人よりも包帯の男に近い位置で日夜任務をこなしているのだろうと思った。それは昨晩の働きぶりを見ても相違ないはずだ。 「…?置いていくぞ、兎ー」 兎と呼ばれるのは初めてだった。 その背中を見つめるあまり、つい自分の足が止まっていることに気付いたわたしは、数歩の遅れを取り戻すように慌てて彼を追いかけた。 |