桜木くんに言いたいことはもちろんあった。けれど、その全部が無に帰すほどの衝撃に、時間差で胸が抉られていく。
 若王寺くんに、想い人ができてしまった。

 『捨てられないように大事にしないとな』

 照れたように謙遜していた若王寺くんが眩しい。そんな心配が杞憂に終わるくらい、きっと彼なら意中の相手を幸せにするだろう。彼の優しさにただ触れただけのわたしでさえ、就職初日から今日まで、ずっと幸せな気持ちを噛み締めてきたんだから。

 ひと月前、委員会前に図書室に訪れた桜木くんとのやりとりを思い返してしまう。



   



 日中利用者の少ない図書室だった。
 蔵書の量も豊富なのに勿体ない。ただ司書としては仕事が捗り非常に助かる。

 「これを借りたいんだけど」

 借りにきた人より、いつも先に本を見て応対してしまう。受付に差し出された本は『色男の極意』だった。
 なんとベタな…手垢のついた話題だ。でもよほど実習や、はたまた実生活で色恋沙汰に困っているんだろうし、何よりこんな本を借りるなんて、本人が一番恥ずかしいはずだ。相手の顔を見ないよう、引き出しの中から申込書を出した。

 「学年と組、名前と返却予定日を書いてください」
 「いつまで借りられる?」
 「…今日からでしたら、最長で下旬までです」
 「書くもの借りてもいいかな」

 受付台の木目だけを見ながら筆を渡した。
 受け取った手が、申込書に達筆な文字を記入していく。

 六年い組 桜木清右衛門

 嘘だ。思わず顔を上げてしまった。本当に、桜木くんだった。若王寺くんとよく一緒にいる、あの。
 桜木くんがわたしの目の前で、わたしの目を見て爽やかに笑った。こんな風に桜木くんを初めて近くで見た。

 「ん、なんか俺書くとこ間違ってる?」
 「いや…合ってます…」

 図書委員の若王寺くんとはそれこそ図書室や書物のことで時々やりとりをするけれど、桜木くんとの接点はあまり無い。会えば挨拶や二、三言葉を交わすくらいで、桜木くんは体育委員会や学業で忙しく、わたしは基本図書室にばかりいる。同じ学園内にいながら生活圏がまるで違う。
 就職してすぐの頃、若王寺くんも桜木くんもわたしと同い年だと言っていた。…それなのに、という言い方は偏見があるかもしれないけど、桜木くん、本当にそんな本を借りるのか。言いそうになったけど口を噤む。さすがにそれは駄目だ。誰がどんな本を読もうと自由だし、口出ししていいことじゃない。司書は、色んな人に様々な本を読んでもらうため中立的立ち位置であるべきだ。桜木くんは少しだけ首を傾げて言った。

 「誰にも言わないでね。俺が借りたって」

 一応彼の中にも自覚はあるらしい。『色男の極意』を手に持ちながら、もう片方の人差し指を薄い唇の前で立て、片目を瞑る。男の人なのに、そのあまりの美しさに息を飲み、わたしはただ声も出さずに頷いた。
 どうしよう。驚いた。こんな本桜木くんに必要ないじゃないか。彼の女子人気は誰もが知るところだし、これ以上色男になんかならなくていい。それにもしも本当にあれが参考になると思って借りてるとしたら…

 「…意外と、天然なんだ」

 呟いてしまった。桜木くんが立ち止まる。振り返ってわたしを見た。

 「…一応、説明しとくべきかな」
 「いや!あの…すみません。だ、誰にも言いません!」
 「それは当たり前」

 桜木くんが一歩ずつ引き返してくる。わたしは受付台の内側で一番奥へ後退した。

 「すすすすみませ、ほんとに!わたしが、すみません…!」

 完全にわたしの失言だった。謝るしかない。桜木くんの綺麗な目元は笑っているはずなのに、向けられたわたしは睨まれているように感じて恐ろしい。
 そういえば五年生たちが彼のことを菩薩夜叉だなんて表現していたことを思い出す。きっとみんなも、彼のこんな表情を目の当たりにしたからだ―桜木くんが受付の前に立つ。立ち姿も素晴らしく美しかった。

 「何で俺がこの本を借りたか…」

 木目の文机へ、静かに本を置く。

 「理由。さんは何でだと思う?」
 「え、それは…その…本の題名のとおりになりたいという…」
 「逆だよ」
 「え」

 つまり『色男の極意』の逆になりたい、わけだから…

 「モテるんだよね、俺」

 さようですか…。真顔で嘆いている。わたしは絶句した。自分とは対極過ぎる彼の人生に。
 開いた本の項目に視線を落としたまま、桜木くんの伏せた目元に睫毛の影ができていた。

 「だからこの本と逆の事をしたら、少しはマシになるかと思って」
 「…ま、マシ…?」
 「好意を寄せられること。好意だけならまだいいけど、振れば余計な恨みも持たれるし、忍びにとって何ひとつ利が無い」

 言いながら桜木くんが本を適当にめくりはじめる。指先を見た。肌が白い。自分を汚そうとするものを、はじく強さのある不透明な白さだ。その物言いや心構えがよく似合っていた。
 わたしは受付の奥で腕を組む。しばし考えてみた。

 随分前に若王寺くんから聞いたことがある。桜木くんは、やっぱり相当に異性から人気のようだ。
 護衛をしたお城のお姫様、学園長先生の手伝いで出向いた神社の巫女さん、お世話になった薬屋の一人娘、そして忍術学園のくノ一たち。直接だったり恋文だったり和歌だったり、様々な手段で想いを告げられる機会が多いと、若王寺くんが羨まし気に嘆いていたのを覚えている。

 『あいつは惚れさせるくせに、自分は真剣にならないんだよな。だから余計に惹かれるんだろうけど』

 これだけ整った外見だったら当然だ。振られた女の子は誰もが悲しむだろう。
 もしも今、若王寺くんに想いを寄せていなければ、わたしだって桜木くんに恋慕の情を抱いていたかもしれない。
 でも若王寺くんは同時に『清右衛門はその女子を好きな男からも要らない恨みを買いやすい』とも教えてくれた。恨まれたところで優秀な彼自身が敗けることはないだろうけど、桜木くんがそんな八つ当たりにも対処してきたのだとしたら、その心労は計り知れない。
 それを知れば、桜木くん本人にしてみると、モテるという今の状況は楽しいことばかりじゃないのかもしれない。卒業後はフリーの忍者として生きていく彼らにとって、本人の意図しない恨みを抱かれてしまうのは極力避けたいだろう。
 けれど、わたしのような人間からしてみれば、それは根本的に贅沢な悩みに思える。モテて得をすることが「一切何もない」とまではならないはずだし…後腐れが無いのなら、伸びる手だってあるはずだ。

 予鈴が鳴る。図書室にはわたしと桜木くん以外誰もいない。休憩から引き上げる生徒たちの声が遠くの方で響いていた。

 「うーん…わからない…」

 結論を呟いた。桜木くんが本を読むのをやめて顔を上げた。片方の眉を少し歪めてわたしを見る。

 「まぁ確かに。こんなものに頼るのも情けないね」

 言いながら、桜木くんは本を片手で閉じて溜息をついた。

 「これ、返しとく」
 「いいんですか」
 「どうせ参考にはならないだろうし」
 「…そんなに困ることが多いの…?」
 「いや大丈夫。俺さえしっかりしてれば」

 軽い口調で桜木くんは言った。そう聞こえるように言ったのかもしれない。わたしにはわからなかった。
 でも、こんな本を借りようとしたくらいだから、今の桜木くんは少なくとも影響を受けて苦しいという状態だと思う。

 「あの、何に一番困ってるんですか?」

 何かわたしに助言できることが…あるわけない。桜木くんは、きっと笑うだろう。だっておかしい。誰かと付き合ったことはおろか、若王寺くんに想いを伝えることもできない人間が、モテて困っている人の助けになれる可能性は極めて低い。豆腐が岩に体当たりして勝てると思うくらい、無理がある。
 でも、真面目な顔で桜木くんは言った。

 「とにかくもう…想いを告げられるのが一番困る」

 今まで聞いた中で一番声が低い。きっと本当に困っている。

 「ああ…ええと…では」

 桜木くんがわたしを見た。答えを待っているので、何か答えなければならない。

 「誰かとお付き合いしてることにしてしまえば」
 「例えば?」

 自分で提案しておきながら、桜木くんに推薦できるような個人名が全く浮かばない。今更に気が引けてしまう。
 強引にでも冗談にして終わらせてしまおう。

 「た、例えば…流石くん」
 「ないな」

 桜木くんは首を振る。同級生の同性だ、そりゃあないだろう。冗談の苦し紛れで言っている。早く気づいてもらわなければ。

 「で、では、西園寺くん…か、もしくは五年生の立花くん」
 「女らしさがちらつく分、洒落にならない」
 「それなら潮江くん?」
 「殴られたいの?もっと真面目に考えてよさん…」

 少し眉根を寄せて、すねたような口調で言う。桜木くんは本気にとってるみたいだ。申し訳ない。わたしは、最初から思い浮かんでないのです…。
 ふと、新緑の季節に吹く風のように、桜木くんの表情が明るくなった。

 「あ、自分がいるじゃない」

 反対に、わたしの頭の中では思考が凍り付いた。それくらいの衝撃だ。

 「じぶん…誰が?」
 「さん」

 うん、と微笑んで桜木くんが頷く。同じ名字の、別人のことではない。
 わたしと桜木くんは、桜木くんが想いを告げられるのを防ぐための、架空の恋人候補を考えていただけだ。その話がどこで捩じれて、飛躍して、壊れてしまったのだろう?

 「名前だけでいいから」
 「……だっ、そっ、そんなのはですね」
 「うん?」

 うん?じゃない。自信満々に、桜木くんはわたしの承諾を待ち構えている。

 「…誰も信じないよ」
 「まぁ、説得力には欠けるよね」

 うんうんと桜木くんが頷く。それはそれで、とても自然に失礼だ。でも変な名目を付けられるくらいなら、失礼くらい我慢する。

 「桜木くん。わたしじゃ明らかに釣り合いません。…他の、誰か別の人選を考えましょう…」
 「んー…」

 桜木くんが手筒をさすりながら少しの間黙り込む。よし。考えているみたいだ。そうそう、そのまま、考え直した方がよいでしょう。

 「…いや、でもさんに頼みたいかな。本当に名前を借りるだけだから」
 「いえ、あの」
 「名前以外は、一切何も要求しない」
 「ですから無理…」
 「そういえばさん。さっき勘兵衛の名前だけ挙がらなかった理由は何でだろうね」

 桜木くんは上目遣いにわたしを見た。笑いを堪えた表情だった。知られている、ということがわかった。

 「勘兵衛だけ…何でだろう?」

 わたしは返事をしなかった。

 「さんは勘兵衛のことが嫌いなのかな」

 嘘でも『嫌いです』とは言いたくない。その逆もだ。
 桜木くんから目を逸らさないことに精一杯になる。顔が熱を帯びて赤い。自分でわかる。もう今すぐ桜木くんには委員会に向かって、この場から立ち去ってほしい。

 「お互い助け合うのが得策じゃない?返事は?」
 「……たすけあえません」
 「残念。冷たい子は勘兵衛も嫌いだよ。あはは」

 全然笑えなかった。桜木くんも、本気では笑っていない。

 「で、返事は」
 「…返事って。だから無理だよ…たぬきに泳げって言ってるようなもんです」
 「なら絶対に無理ってわけじゃない」

 そこで本鈴が鳴った。桜木くんはにっこりと笑みを浮かべ、片手を振って図書室を後にした。



   



 そんなやりとりをしてひと月。
 図書室周辺の外掃除をしていた時、ふいに掛けられた声に顔を上げると、木陰で桜木くんが佇んでいた…ように見えた。
 手招きされるがまま近付くと、草木の陰に隠れ、そこは今まさに図書室裏に呼び出され、想いを告げられたであろう桜木くんが、三人のくノ一と対面している最中だった。
 当然のことながら初めて目の当たりにする現場に言葉を失い、抗う意味も込めて桜木くんの方をちらりと見つめる。けれど、彼は構うことなくわたしの肩を抱き寄せ、その隣に立たせた。

 「えっと…桜木先輩、どうして司書のさんを?」
 「ああ、付き合い始めたんだ」
 「え?」
 「え?」
 「え?」
 「えっ」

 桜木くんがのたまう。名前を借りる云々、あのときのやりとりが本気だったなんて。しかも名前だけを貸すどころか、こんな大切な場面でわたしを隣に呼びつけて、これじゃあ話が全然違う。百歩譲って名前を貸すことに承諾したとして、彼はあの時、名前以外は一切要求しないと言ったはずだ。
 けれど、図書室であんな提案をしたのもわたし自身だった。多少なりとも責任を感じ、目の前でわたしに敵意を向けるくノ一たちに、しっかり対応しなくてはと思ってしまう。

 「いつから、桜木先輩と付き合ってるんですか…」

 空気が重くなる。
 桜木くんはすごい。いつもこんな熱量の想いを向けられ、一人ひとり適切な対処の元、断らなければならない。
 感じたことの無かったこの場の空気、相手の視線、仕草、周囲の色、音。
 こんな風に相手側が複数の場合もあったり、目の前で泣かれてしまったり。わたしが桜木くんだったらこの瞬間だけでも優しくしたくなる。頭を撫でて「そんなに言うなら試しに付き合おうか」と口走りそうになる。わたしだったら飲み込まれてしまうかもしれない。
 言葉を紡ぎかけては飲み込むを何度か繰り返し、視線だけで桜木くんを見た。少しだけ体を寄せた桜木くんが耳元で巻き込んだことを謝罪する。助けてほしい、とも。それでも言葉が見つからないわたしに、痺れを切らしたように彼が耳打ちした。

 「ほら。俺のこと、勘兵衛だと思って何か言ってみて」

 そこからの記憶はあまりない。
 とにかく桜木くんの負担を減らしてこの場を収めたかったし、若王寺くんへの想いを巡らせているうちに少し熱が入ってしまった、その両方だ。


 桜木くんを助けたつもりになって、人の恋路に踏み入るような真似をした。だから自分もだめだったんだ。そんなやつに若王寺くんとの恋慕を成就させまいと、神様仏様が怒ったに違いない。
 当然の報いだった。






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