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三年生に進級する手前、私はとある異変に振り回されていた。 自分の体がこれまでにないほど色欲を求める。けれど、周りはそんな様子はおろか誰もこの話をしないので(今にして思えば当然なのだが)、自分だけが抱える病のようなものだと思い込んでいた。 身勝手で凶暴で残酷。おどろおどろしい毒素が血液のように巡る厄介な劣情を抱く一方、何食わぬ顔で勉学に励み、下級生や先輩方と会話を重ね、同級生たちと経験を積んでいく。 よくよく話を聞けば、男であれば誰もが抱く感情で、むしろここを通過してこそ正常だということを上級生を通してぼんやりと知った。感じ方は大小濃淡それぞれ違えど、女も同様らしい。 『仙蔵も、時が来ればわかるよ』 男所帯の忍たま長屋。先輩たちは皆口を揃えてそう仰った。 ![]() 十四の春。 五年生に進級すると火薬を扱うことを許され、実技や実践もより厳しいものになり、周囲からの要求が四年生の頃とは段違いだと噂はかねがね聞いていた。四年生の下期時点で座学では忍の三禁を深掘りする授業があり、男女の体や骨格の違い、性的知識も一通り学び終える。年相応に多少の恥じらいはあれど、己の欲を制し、また相手の欲を引き出し情報を得るために時に必要なものという認識を着実に植え付ける。性を知ることは女装や房中術に役立つことも多かった。 「新しく外部から研修医の女の先生がいらっしゃるんだ」 伊作が嬉々として告げたのはちょうどこの頃、五年生になりたての卯月だった。 聞けば新野先生の元に就き、保健委員の臨時顧問を務めるそうだ。くノ一教室に限らず男女共有の医務室勤務とは珍しい。その出逢いが後に自身の人生を大きく揺さぶるものになろうとは、このときはまだ予見すらしていなかった。 ![]() 或る日の昼休み。 いつものように中庭で小平太のバレーに長次と文次郎が付き合い、木の下では留三郎が武器を磨いていた。私は少し離れた縁側に腰掛け資料に目を通し、委員会仕事で不在にしている伊作以外いつもと変わらない休憩時間を過ごしていた時だ。廊下の曲がり角の向こうでドタンと大きな音が響いた。私の座っている位置からはその姿を確認することはできなかったが、突如その曲がり角から薬壺が現れるなりごろごろと転がり、今にも縁側から落ちようとしている。時同じくして一人の女が駆け込んでその薬壺を抑えたはいいものの、勢い余って今度はその人ごと縁側から落ちかけていた。これら全て一瞬の出来事である。 瞬間私の体が反応し、女が地面に衝突するより早く自身の体を滑り込ませた。女と薬壺を受け止めた両腿にトスッと重みが加わる。読んでいた資料ははらはらと宙に舞い落ちた。 「大丈夫ですか!?」 予想していた衝撃が来ないことを不思議に思ったのだろう。女はぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開く。私の胸に抱き留められる形で視線がかち合うと、驚いた女の目が急激に見開かれた。そのまましばらく固まってしまう。 「どこか痛みますか?」 「だ、…大丈夫、です……って、わ、…ごめんなさい!」 「いえ」 間を置いて私の足を下敷きにしていることに気付いた女が慌てて体を起こす。そのとき不意に鼻腔を花の匂いが掠める。心配そうにこちらの様子を窺う視線を感じながら、私も起き上がり制服に付いた土埃を払った。 「仙蔵?」 「どうした?」 異変に気付いた小平太や文次郎たちが続々と私達の元へと駆け寄り、皆の「何者だろう」という視線が女の方へと向けられる。 「あ、ありがとうございます…!えっと…」 「五年い組の立花です。あなたが新しく配属された医務の…」 「あっ!さんー!」 声の方に一斉に振り返ると、そこにいたのは委員会を終えた伊作だった。さんと嬉しそうに女の名前を呼びながら駆け寄って来る。けれど、五人の男に囲まれた研修医という異様な絵面に気付くなり、伊作は首を傾げながら「どうしたの?」と問うた。 「実は…」 「え…?」 「かくかくしかじかで」 「ええー!?」 「もそ…」 「間一髪か、良かったな」 「お互いに怪我はなかったか!?」 手短に伝えると五人が驚きや感嘆の声を上げる。長年の付き合いの甲斐あって、今起きた一連の出来事をたった九文字で見事に理解する五人。小平太に至っては「それはナイスレシーブだったな仙蔵!」とまでのたまっている。 これくらいで私が怪我をするはずもなく、愚問だと文次郎に返せば、心配を茶化しで返されたことに納得できない文次郎がなんだと!と声を上げた。 「ふ……」 「?」 「…あはははは!」 そんなふざけた男同士の乗り合いを見て、目の前の彼女は心底おかしそうに笑った。 私達ははじめ呆気にとられたものの、この乗りを理解してくれることが何故だか嬉しくて彼女につられて六人全員がつい笑ってしまう。築き上げてきたこれまでの関係性を一部でも受け入れられているような気持ちになったんだと思う。 いい人が来てくれた。気取ったり、斜に構えたりしない人が来てくれたことが素直に嬉しかった。 ![]() それからというもの、と私達五年生の絆は他の学年よりも深くなっていった。 桜木先輩や若王寺先輩率いる六年生方の勉学がこれから益々難関を極めるため、その一学年下の私達が、まだ来たばかりで不慣れなに学園のいろはを教えることは当然の流れとも言えよう。 医務室の研修医で新野先生の元に就いているといえ、は忍術学園の教師ではない。あくまで常駐してくれている外部の保険医だったが、年齢も私達と変わらないということもあって尚更親しくなるのにそうは時間はかからなかった。 「立花くん見てみて」 「ん?」 そう言ってが見せてきたのは、首からかけた学園の入門許可証だった。いつも朝早く家からここに来て、業務終わりで帰路につく。そのたび入門票と出門票を書くのは彼女にとっても事務員たちにとっても双方手間であったため、事務のおばちゃんや小松田さんが用意して渡してくれたそうだ。 「なんだか少しずつ学園のみんなに認められている気がして、すごく嬉しいの」 屈託なく微笑んだ。きっかけはそんなことだったと思う。 日常の何気ないやりとりで積み重なる言葉選びや柔らかな物言い。特別なことでなくても想いを大切に育むような声音。笑ったり怒ったり素直な感情を向けられる育ちの良さ。一方で、一流の忍びになるためと学年が上がるたび心身を作り替え、必要以上の情は持たない方が身のためだと言い聞かせる。そんな世界に身を置く自分との差異に強く惹かれていることに気付いた。 「良かったな」 けれど、そんな思慕に気付いたところでどうしようもないこともわかっている。これから自分が目指し赴く先は、大切なものが増えるほど判断力を鈍らせる場所だ。いつ命を落とすかもわからない人間が誰かを想い守ろうだなんておこがましい。そう言い聞かせながら自身を戒める。 柔らかそうな髪をつい撫でそうになった手を引っ込めて、代わりに首を傾げた。笑みを作った私にも心から嬉しそうな表情を返す。そう、私達はこれでいいのだ。 「…いつもありがとう」 「何だいきなり改まって。明日は雪か?」 言いながら五月晴れの空を見渡す。茶化す私に「もう!」と反論する。頬を膨らますその姿が可愛らしくて、普段からこうして軽口を叩いてしまう。 彼女のありがとうに意味などないだろう。私と他の五人に対する彼女の温度は悲しいが平等だ。もしも今ここにいたのが伊作だったとしても、は同じ台詞を吐いている。言葉に込められた思いを考えたところで、首を絞められるのが関の山だった。 「…どうしてかはわからないけど」 「今度は何だ?」 「何かあると一番に話したくなるのは、立花くんなんだよね」 それなのに、目の前の彼女はそんなことを言ってのけるから。 玉手箱の中で抑え付けた感情を蓋の上から雁字搦めにしたとて、の仕草や言動がいとも簡単に箱の中身を解放させてしまう。再び拾い集めることも、しまう作業も、後始末なんて何一つ手伝いもしないくせに。 何だそれは…と素っ気なく呟いて、内心ではぽろぽろと零れ落ちた愛情や庇護欲といった気持ちを拾い集めていく。けれど、最も強欲な色欲だけが拾いきれない。立ち塞がる大きな壁を前に、ぼんやりと眺めてしまう自分がいる。今日くらい乗り越えたり打破しなくてもいいのではないかと。 「それじゃあわたし、委員会行くね」 「…ああ」 「立花くんも頑張って!」 ひらひらと手を振り医務室へと向かう彼女の背中を見つめながら、私はその場に立ち尽くしていた。 抱き締めてみたい 触れてみたい 汚してみたい 泣かせてみたい 私以外のことを考えられなくしたい なあ、。お前は知らないだろう。こんなにも身勝手で醜い感情が私の中に同居していること。この思いが拾いきれない日の夜は、いつも妄想の中で私に痛めつけられていることも。 |