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眉間に皺を寄せると幼くなる。 あの表情が「かっこいい」と思えなくなったのはいつからだろう。思い出せない。 愛しいと視点が近くなってしまう。 手のひらに乗せて口づけるように、それとも胸の中に置いて優しく抱き締めたくなる感情だ。 もう幽助を、景色のように眺める事ができない。 「うん、わかった。早速帰って鶏肉のバジルクリームパスタにする」 仕事帰り、夕飯のメニューに悩んだわたしは母さんに電話をして助言を求めることにした。 まだ19時を過ぎたばかりだったけど、母さんは期待を裏切らないアルコールの巡り加減で少しだけ呂律がおかしい。簡単に想像がつく赤い顔の母さんに電話越しで苦笑していると、本題とは少し離れたところに話題が及んだ。 『そーいえばぁ、今日はエプリル、ひっく、フールねえ』 「エイプリル…あ、ほんとうだ」 一瞬耳から携帯を離す。ディスプレイには通話時間の上に小さく4月1日と刻まれていた。 今まで特に意識をして生きてきたわけじゃなかった。誕生日ほど自分に関連する日じゃないし、大晦日ほどかしこまらない。今日が何の日かなんてすっかり忘れていたわたしとは正反対に、受話器の向こうから聞こえる母さんの声はなんだか嬉しそうだ。何か企んでる?そんな考えが過ぎった瞬間、いひひと悪戯な声音で笑った。 『ゆーすけにドッキリひきゃけなはいよ』 「ドッキリ?」 『そう!普段…ヒック、息子にやられっぱなひりゃかーね、はまには協力、ひなはい!』 親孝行よ、親孝行!そこだけビシッと呂律が回る母さん。 母さんの言う「息子にやられっぱなし」が何を指すかわからない。わたしの知らないところで水面下の争いでもあるんだろうか。だとしたら物騒で、割って入ったところでとても敵う気がしない。 『いーい!今から母さんのゆーこと実行しゅうのよ!』 電話での身振り手振りが見えるはずも無い。けれどわたしは降参の意を片手で示した。 そんなわけで、わたしは今幽助の家のクローゼットに隠れている。 普段頻繁に使用する居間兼寝室とは対照的に、クローゼットのあるもう一部屋は雨の日の室内干し程度にしか使わない。襖一枚隔ててこの部屋を使わない理由は、幽助が利便性を全て居間に集約したかったからだそうだ。 たまに換気がてら襖を開けて居間と繋げた空間にはなるけど、ほとんど物置状態だった。 でも、今日はそんな襖を開ける。 クローゼットのわずかな隙間から漏れる居間の光で幽助の様子を窺うためだ。母さんの命令で仕事帰りの幽助をこの体勢で待たなければならない。しかも居間のテーブルには、一枚の置手紙を残してある。 (こんなことして、幽助の何を試すんだろう…) 母さんの悪巧みを思いついたような顔を浮かべる。 置手紙には母さんの言いつけどおり「疲れました。探さないで下さい」とだけ書いた。 そんなことを書き残したところで、真面目に取り付く幽助じゃないと思う。笑ってゴミ箱に捨てられるのがオチだ。自分で想像して悲しい気持ちになる。でも、明るくエイプリルフールでしたって笑わなくちゃ。 ガシャン ふいに玄関から物音がした。 幽助が帰ってきた、と思ったときにはドアノブが回された。息を潜めてできる限り気配を消す。 「たでーま」 おかえりなさい。思わず返してしまいそうになる口を慌てて両手で塞ぐ。あ、危ない…!バレたら母さんに怒られる。ハラハラドキドキ しながら、クローゼットの内側に入り込む光を頼りに幽助を盗み見た。 「…姉貴?」 ぽつんと響く。いつもなら先に帰っているはずのわたしがいないことに、幽助は少しだけ不信感を抱いている様子だ。残業か?なんて独り言も続けて聞こえてくる。 今思えば、わたしはこの時点で気付くべきだった。このドッキリの最大の落とし穴に。 幽助の背負う傷に。 靴を脱いで短い廊下から居間に歩いてきた幽助。 襖が開いていることには特に違和感は抱いてなさそうだ。ちらりとこの部屋を見ただけで、すぐに視線を台所へと移す。 そんな幽助にクローゼット越しに小さく笑う。 すると、幽助がテーブルの置手紙に気付いたようだった。 鼻で笑ってあしらわれるだろう。それならそれでいい。そう思ったのに。 「………」 (あれ?) どうしたんだろう。何も反応が無い。 ここからは幽助の後姿しか見えなかった。かさりと音を立てて置手紙を手にしたはず。でも黙ったままの立ち姿が、わたしの想像していた幽助の反応と違う。 顔を上げた幽助は、居間を見渡して違和感に気付いたようだ。 わたしの荷物がいくらか整理されてなくなっていること。すると今度は玄関へ走る。ここからは確認できない。でも、おそらく靴が無いことを見に行ったんだと思う。 慌てる幽助を見ることがあんまりないから、ちょっと貴重だ。 わたしは変わらず可愛い弟に笑みを漏らす。 クローゼットで身動きが取れなかった。呼吸を忘れそうになる。 居間に戻ってきた幽助がポケットから携帯を取り出した。でもすぐに床へと投げつけて裏フタの外れる無機質な音が響き渡ると、わたしは思わず身を竦めてしまう。 きっとわたしの番号を探したんだろう。でも携帯を持っていないわたしの番号は登録されているはずも無かった。幽助はそれをわかっているはずなのに、あんな行動を取るなんてよっぽど何かに焦っている。 そろそろ種明かしをしよう。 あの背中に後ろから抱きつくのもいいかもしれない。 わたしは意を決してクローゼットの扉を開いた。 「じゃーん!幽助!驚いた!?」 今日はエイプリルフールだから。してやったりと笑顔を浮かべて、そう続けたかった。 「………あ、悪りぃ…」 打ち消したのは、振り返った幽助の表情。 見開かれた瞳からぽたぽたと大粒の涙が頬を伝っていた。 |