澄んだ空気に沈んでいった太陽の代わりに白く光る月が顔を出していた。時間帯は夜。すっかり冷え込んだ外気に身を震わせて空を見上げるけれど見えるのは灰色に曇り濁りきった空だけで残念ながらあの小さな輝きを放つ星を拝めることはなかった。
 ぶるっと身震いをすると自分を抱かかえるようにしてわたしは両腕を擦る。今日の気温は何度だったか。生憎朝から今まで仕事詰めだったわたしには朝のテレビを見る時間さえなかったので気温を知る術はない。ジリ貧生活は大変だ。先ほど寄ったコンビニで買った肉まんとあんまんをビニール袋に入れて手にブラブラとぶら下げて息を吐く。口から出た息は白く濁り空気に溶けた。本格的に冬が来たのかな。今更ながらそんな事を思って愛用の手袋を再び両手で擦り合わせた。摩擦熱でどうにかなるっていう寒さじゃないけどね、コレ。

 此処まで寒いと本当に地球は温暖化という病魔に犯されているのか疑ってしまうけれど、この前レンタルビデオ店で見た新作の映画でい・あふたー・とぅもろーは地球が温暖化現象の所為で氷河期になるだなんだって言ってたしな。もしかしたらこの寒さはその前兆かもしれない。でも結局の所今更この国、というかこの街の人は氷河期が来て津波がこようがハリケーンに襲われようが今のゆるゆるとした生活を止めないんだろうな。わたしももちろんそのうちの一人。
 それでもわたしはこの寒さには到底勝てそうにない。鼻の先がツンと冷えてきてマフラー持って家を出ればよかったと後悔する。コートだけでは最早あまりにもこの季節に不便で仕方ない。時折吹いてくる風は悪戯に足元を擦っていくので寒さが倍増した。うう、このやろう。

 家まではあと10分くらい、という所で近所の公園が見えてきた。昼間は小さな子ども達がキャッキャッと楽しそうに遊んでいるけれど、今はもちろんそんな時間帯じゃないので居るのはたぶんホームレスのおじさんかお熱いカップル辺り。大体そんな適当な予想はしていたのだけれど何故かなんとなく公園の方に視線が泳いでそれからある一定の場所で目が留まった。公園の入り口の左側に設置された小さなベンチ。あれ、おかしいな。そこには見覚えのありすぎる黒髪が見えていて、わたしは自然と首をかしげた。
 見間違えかもしれないと目を擦ってもう一度同じ場所を見てみる。やっぱり其処にあるのは先ほどと変わらない見慣れた艶やかな黒髪。うーん、どうやら本当にやつらしい。なんでここに居るのか知らないがなんとなく悪戯をしたくなってみたので(何の恨みもないけど)両手にはめていた手袋を外して二枚あわせて丸めるとキャッチボールするには丁度いい形になり、わたしは冷えた指先でそれをしっかり掴んだ。狙いを定めて野球ボールを投げるポーズを取り(テレビでチラ見したときの野球選手の構えは確かこんなもんだったと思う)「おりゃぁ!」と掛け声をつけて自分なりに勢いよく投げた。綺麗に放物線を描いて丸められたその手袋は見事、オールバック黒髪頭に的中。「いでっ」というやっぱり思ったとおりの反応と馴染みのある声に少し安堵していると、眉間に皺を思いっきり寄せた顔を此方に向けてきて、すぐに驚いた表情へ一変させた。

「ストラーイク!」
「…何してくれてんだオメェ」

 怒っているような呆れているようなとにかくなんとも判別しがたいすごく微妙な顔で、ぼそりと「このやろう」そう呟いた。




「誰かさんのデッドボールを受けた頭は大打撃を食らって死滅しそうだなー」
「あははは!大袈裟だよ幽助!大丈夫!」
「完全他人事かコラ」

 さきほど、丸めた手袋をストライクさせたわたしはその標的になった幽助の隣に腰掛けていた。幽助は幾分ラフな格好にダウンを羽織っていたけど、残念ながらわたしと同じくマフラーは忘れてしまったようで心なしか首を竦めている。ぼうっと灰色に濁って曇っている全然綺麗でも面白くもない空を見上げていたら、少しだけあけていたベンチの上の間隔を幽助がドカッとわたしの方へ寄ってきて狭めた。さり気なく乗せてきた彼の大きくて暖かい体温がすっかり冷たくなってしまっていたわたしの手の表面から伝わってくる。
 幽助は自分から乗せてきたくせにわたしの手の冷たさに驚いたのか、一度自分の手を引っ込ませてまたすぐに乗せてきた。手が強く握られる。

「んだ、この死人みてぇな手は」
「わたし冷え性だからねぇ。手袋してもこうなんだよ」
「ったく、女がそんな身体冷やすまで外出んじゃねーよ」
「仕事だから仕方ないでしょー」
「サボっちまえよ。そんでオレんとこ来い。汗かくほど暖めてやるから」
「え、遠慮しとく…」

 夜の公園はわたしが予想していたのとは違ってホームレスのおじさんもお熱いカップルも居なくて、ただ幽助一人だけが居た。不意に握られていた手が引っ張られてびっくりして幽助のほうへ視線を向けると彼の口元にわたしの手が寄せられていてはぁっと白く生暖かい息が吹きかけられた。突然のことに驚愕してボッと火がついたように顔が赤くなるのを感じる。こいつはいきなり、何を…!いくら人が居ないからといってそんな暖め方しなくてもいいじゃないかと反論しようと口を開きかけたけれどそれは次の瞬間魚みたいに口をパクパクと開閉させただけに終わった。
 何度か息を吹きかけられた後に今度は直接唇が肌に当てられて滑った。…舐められた。これには流石に半放心状態にあったわたしも反応して急いで持っていかれた手を奪い返した。手が取り返されたことが不服だったのか幽助は「折角暖めてやってんのに、なんで手ぇ引っ込めちまうんだよ」とぶつぶつ言っている。対するわたしは「なななななっ」と言葉にならないけれど、とにかく文句を言おうと口を開けていた。

「な、何するの万年発情男!!」
「あん?」
「だ、だって、ゆ、幽助が悪いでしょ!いいいいっ今のはあんたが悪い!」
「たかがちょっと手ぇ舐めてやっただけだろーが。むしろ感謝しろ、なんなら体で払え」
「かからだ!?さ、さいてー!!さいてーな男がここにいますみなさーん!!」
「おま!うっせーなホントに誰か来たらどーすんだよバカ!」

 手を奪い返した反動で知らず知らずのうちに腰を上げていたわたしに幽助は、また舐めた方の手を取ってすっかりパニくったわたしを半強制的に座らせた。座ったのに取られた腕はそのまま掴まれていて触れているところがやけに熱く感じる。絶対この元皿屋敷一帯を一人で締めて歩いていた不良という肩書きの男にはこれくらいの事じゃあ気がすまないというのはわかりきっているので、このまま隣に居たらまた、というか今以上にもっと色々危険なことをされそうでわたしは無意識に身を硬くしていた。

「ていうか何で幽助がここに居るの」
「今日店来るっつったのは誰だったけなァ」
「…すいません、仕事があったんです、すいません」
「許さねぇ」
「えっ」

 ゆ、許さねぇ?え、うそマジでかっ。でも仕事があったんです、本当に仕事があったの。生活かかってるんだよ、わたしだって決して裕福じゃないの!知ってるでしょ!?予想外の幽助の返答(しかも異様に声が低かった)に肩を揺らしてビクついた。この様子じゃどう弁解しても許してもらえなさそうだ。急いで幽助のほうを見るとひやっと冷めていたわたしの頬に幽助の暖かい手が触れてそのまま固定される。何事だと思いきや今度はあっというまに幽助の顔が急接近していて、唇を奪われた。
 そんなに長いキスじゃなかったし、いつもよりは全然軽いものだった。なのに触れた唇が物凄く熱い。実はわたしの唇に当たったのは幽助の唇なんかじゃなくてマグマなんじゃないかって思うほど其処が熱かった。でも、実際にはマグマなんかじゃないということは当たり前で当たったのは紛れもなく彼の唇。わたしが瞬きを何度も何度も繰り返して幽助を見つめると、幽助はニヤッと悪戯に成功した子供のような笑みを見せた。

「さっき手袋頭に当てたお返し」
「…」
「さぁて、そろそろ部屋ン中入んぞ」
「え、部屋?帰るの?」
「帰る?冗談じゃねーよ!このまま帰るなんざオレはごめんだぜ」
「じゃ、あ、どこに…?」
「お前ン家に決まってんだろ」

 当たり前、みたいな言い方をしてさっきは座らせたくせに幽助はわたしの腕をまた引っ張って立たせると「今日は寝かせないからな」と耳元で小さく呟いてきた。その言葉にわたしの体温はまた急上昇してもう何がなんだかわからなくなってただ必死になって熱い顔を隠すためにわたしの手を掴んでくる幽助の腕をしがみつくように掴み返した。
 不意になんとなく見上げてみた空は、やっぱりさっきと同じ灰色に濁っている曇り空だった。

(てのひらに溶けた冬 20091007)