恐れない。そう決めたの。


 「えぇっ!?ほんとなの!?」

 大方の準備も済んで、あとは荷物を運ぶだけとなった引っ越しの3日前。わたしは先日の打ち上げぶりとなる親友のと行きつけのカフェで引っ越し前最後の語らいを楽しんでいた。
 カフェにはわたしと以外にも数組のカップルや老夫婦、友達同士でケーキを交換し合う姿が見られて、全体的に和ましい雰囲気に包まれている。どうしても都合のつかなかったもう一人の親友とは、引っ越し先の新居に招待することを約束しながら昨夜は久しぶりの長電話に勤しんで、3年間のそういえばあんなことがあったとか、あのときがどうだとか、思い出話に花を咲かせた。毎日会っていたはずなのに不思議なくらい尽きることのない学校話。もう高校生という身分ではない自分たちの存在に気恥ずかしささえ感じられて、電話越しに泣いたり笑ったりする光景は、はたから見れば不気味だったかもしれない。けれど、それがわたしたちの全てだ。

 「私たちと別れた後にそんな展開が…!」
 「ちょっ、!声大きいってば!」

 あの日の帰り。浦飯くんとのやりとりを話したのは長電話も終わり際で。耳元で聴こえてくる親友の真夜中の叫び声と、まるで自分ごとのように驚いて喜んでくれたその言葉たちに、引っ越しという現実を一瞬忘れかけていた。離れたくないなぁ、と口をついて出た言葉は沈黙と涙と、わたしたちの友情を改めて確認させてくれたように思う。
 そうして今、そんな昨夜の出来事を再現してくれるかのように、目の前でカフェラテを飲むの表情も優しさ以外の何物でもない。「そっかー…!うん、うん…!」「いやぁ…えへ、泣きそう…」なんて言葉にならない声を上げながら困ったように微笑まれると、胸の奥がきゅうっと締め付けられて彼女たちの存在の大きさを思い知る。女友達は本当にかけがえのないものだなぁ。

 「ありがとう、
 「なんでがありがとうなの!?むしろわたしこそ幸せをありがとう!」
 「そんな…だって、こうなれたのも、ずっと2人が見守ってくれたから…」
 「違うちがう!が3年間浦飯くんを想い続けたからだよ!」

 そうに決まってる!有無を言わせないの力強い断言に、思わず頬が緩んだ。目の前で湯気の出るココアのカップを見つめる。3年間――決して短い月日じゃなかった。それは浦飯くんが迎えに来てくれたあの夜も改めて理解したことだ。わたしにとっての精一杯の月日。その一日一日、どれだけの時間浦飯くんを想っていたんだろう。思い返すと少し恐ろしいことになりそう…。

 「じゃあさ、もう引っ越してからも会えるね」
 「う、うん!ほんとに、夢みたいで…」
 「夢じゃないよー!夢なら一生覚めないよ」

 悪戯にウインクすると、どちらからともなく笑い合う。覚めないでほしい。夢なら、ずっと。けれど、そんな想いは少しだけ心で突っかかっているのがわかった。そんなことを望める立場のわたし自身が酷く楽天的でずるいような気持ちになってしまう。浦飯くんを取り巻く環境。大切な螢子ちゃんの存在…。彼はわたしに迷惑をかけまいと一人で全てを抱え込んで、苦しみや哀しみを見せてくれないような気がした。仕方がないと言われればそれまでだ。首を突っ込むな、というのも頷ける話。だけど、ほんの少しでいい。わたしも、何か力になりたい。4月に笑顔で会うために。大好きな浦飯くんの力に。
 そんなわたしのわずかに曇った表情を見抜いたのか、は間を置いてそっとまぶたを閉じながら「浦飯くんが選んだのはなんだよ」と言った。その一言で、罪悪感に苛まれそうな心が引き波に攫われてわたしに気付かせてくれる。そうだ。浦飯くんの言葉。浦飯くんの想い。応えられない気持ちで伊達に3年間想い続けてきたわけじゃない。決心するように一呼吸置いた。はとても満足そうに笑ってくれた。


 「で、で?4月に迎えに来てくれて…そのあとは?」
 「あ、うん。まだ具体的な話は出なかったけど…」

 の問いかけにじっくり噛み締めるように言葉を紡ぐ。静かなカフェの雰囲気がいつもより落ち着いて自分の気持ちを整理させてくれる気がして、わたしは静かにあの日のことを思い返していた。















 「4月になったら迎えにいく」


 彼は当然のようにそう告げた。頷くことしか出来ないわたしに微笑んで、浦飯くんは「んじゃ、そろそろ帰るとするか」と気持ちのいい声音でわたしの手を引っ張った。

 「か、帰るって…あれ?そっち、改札…」
 「いーからいーから。幽ちゃんを信じなさい?」

 おちゃらけて見せながら、浦飯くんはわたしが来た道を戻っていく。浦飯くんが本当は打ち上げの帰りじゃないことは薄々気付いていたけど、それでも自分の利用するホームへと向かわない彼の背中を見つめた。各線を結ぶ大きめの改札口を出ると、さっきまで2人でいたあのホームの静けさが嘘のように人通りが多くなる。どこに行くんだろう?そうこうしているうちに駅の駐輪場横に着くと、浦飯くんはある一台のバイクの前で止まった。

 「おらよ、着いたぜ」
 「わ、す、すごい!これ浦飯くんのバイク!?」

 わたしの問いかけに堂々と首を振る。…え、じゃ、じゃあこれは…。


 「盗んだバイクで走り出す〜♪っつって」


 ハンドルを握る動作をしながら浦飯くんは言った。にこにこと、全く悪気のない表情。輝かせていたであろうわたしの目が、ただただ失望の眼差しに変わっていくのがわかる。

 「・・・・・最低。乗らないよ。わたし歩く」
 「はぁ?こんな重てぇもん引きずってオレが歩けるかっつーの」
 「盗むからいけないんでしょうもう…どうしてそんなこと…」
 「うるせーな。鍵も付けっぱなしなのが悪ぃ」
 「そんなの…!…どうするの?持ち主の人が困ってたら」
 「おー困ってろ困ってろ。が乗らねェと一生困るんじゃねえかそいつ」

 言いながら浦飯くんは、然も当然とした態度でわたしを見つめていた。し、信じられない…!確かにわたしが乗らないと持ち主は戻らないバイクに一生困り続けるかもしれない。浦飯くんはわたしを一人で帰すつもりはないだろうし…その気持ちはすごく嬉しいのに、今だけはすごく複雑だ。それなのに、目の前の彼は悪びれた様子一つ見せなかった。
 3年間いつも思ってきたことだけど、どうしてこう…恐れを知らずにいろんなことが出来るんだろう。わたしなら「警察に捕まったら大変だ!」とか「先生や親に怒られる!」とか、そんなことがまず先に思いつくのに、彼は、浦飯くんは、そのとき一番やりたいことを迷いもなくやってのける。それがとても羨ましくて魅力的に思ってしまうわたしを、どうして浦飯くんは気にかけてくれたんだろう。
 考えがそんなところにまで及んで、わたしははっと我に返った。浦飯くんはそんなわたしを知ってか知らずか、腕を組んでバイクに寄りかかる。


 「いーから乗れよ。早く」


 差し出す手が浦飯くんの手じゃなければよかった。拒む理由が見つかるはずない。わたしは、表情では渋々、でも、内心はその大きな彼の手に心臓が飛び跳ねていた。なんでもやってのける彼の大きな手がわたしを待っていてくれる。盗んだバイクなんて歌の歌詞じゃあるまいし。悪態を吐きながらゆっくりと浦飯くんの左手に自分の右手を差し出すと、浦飯くんはにへへーと口角を上げながら重ねた右手を一度だけぎゅっと握った。

 「色々終わったら…こんだけじゃ済まさねェから覚悟しとけ」

 それは何かを我慢しているような声音だった。なんとなく意味を理解して色づく頬に、浦飯くんは「なーに想像してんのちゃーん」とふざけたように呟く。さっきから完全に浦飯くんのペースなのが悔しい。悔しいけど、今、なまえで。


 「浦飯くん…わたしの名前知ってたんだね…」


 わたしの小さな呟きに、大きな手がぱっと離れる。

 「あぁ?そんくれェわかんだろ?オレの下の名前は?」
 「幽助くん」

 即答できる自分が恥ずかしい。けれど、その頬を赤く色づかせるのは、今度は浦飯くんの番だった。わたしの答えに少しだけ目を見開いて、そのあと目を泳がせながら「・・・・・・たまにはありだな」と言った。ゆ、幽助くんで合ってるよね…?照れる理由がわからなくて、けれど、少しでも彼のペースをかき乱せてうれしい。その様子ににんまりすると浦飯くんは「テメッ、何笑ってんだ!」と声を上げながら突然わたしの頭に何かを被せた。それは行きに被ってきたのだろうかご丁寧に用意されていたヘルメットだった。おそらく本来の持ち主のものなんだろうけど…。少しぶかぶかの重みのあるそれをわたしの頭に被せると、顎紐を結んでくれる浦飯くんと目が合った。照れ臭くて、けれどそんなわたしに気付いていない浦飯くんは「共犯だな」と笑って言った。共犯。そう、わたしたちは。


 「…ねえ、浦飯くん」
 「あ?」


 本当にいいの?――尋ねようか迷ったけど、やめた。わたしは「ううん、なんでもない」と笑うと「なんだよ!いちばん気になるところで止めんじゃねえ!」とやさぐれる。浦飯くんは手袋をはめて(多分これも持ち主の物…。)二人乗りの大きめのバイクに跨った。

 「腹んとこ、手ぇ回せ」
 「えっ!?」

 浦飯くんは上半身をほんの少し捻りながら後ろを振り返る。

 「えじゃねぇ。振り落とされてェのか」
 「や、やです…こ、こう?」
 「バカ。もっと強くだ!強く!」

 言いながらわたしの両腕を自分のお腹のあたりで強く握らせる。バ、バイクってこんなに密着しなきゃ乗れないものなんだ…!ヘルメットの下、今度は耳まで真っ赤にしながら浦飯くんの背中に身体を預けた。どうか心臓の音が聞こえませんように。ぎゅっと目を瞑りながら出発の時を待つ。

 「へー…」
 「な、なに?」
 「いや、腕は細ェが胸はなかなか…」
 「やー!!最低ッ!!やっぱり降りる!!」
 「っせーな!!騒ぐんじゃねえよ!」
 「いやいやいや!スケベ!変態オヤジ!色欲魔!」
 「…4月になったら覚えとけよ」

 そう言ってヘルメットをコンと叩く。片足で自分とわたしとバイクの重みを余裕そうに支えながら、浦飯くんはいよいよ鍵を回した。

 「事故ったら無免・飲酒・窃盗でソッコー務所行きだから、オレ」
 「自慢げに言うな!」
 「わーったらとっとと掴まれ」

 一際大きくエンジン音を唸らせると、一定の音を響かせながら少し間を置く。こうしてエンジンを温めると走りが違うらしい。浦飯くんは免許はないのにバイクに詳しいなぁなんてズレたことを思いながら、わたしは服の上からでもわかる浦飯くんの引き締まったお腹にぎゅっとしがみついた。彼の匂い。さっき、ホームで抱きしめてくれた香り。



 「


 ヘルメット越しでも聴こえた、澄んだ彼の声音。呼ばれた名前が自分のものであることに気付くまでほんの少し時間を有した。振り返らない背中に「どうしたの?」と声をかけることを忘れるほど、その姿が勇ましかった。


 「後悔なんかしねぇ。そのためにお前を迎えに行ったんだからよ」
 「…うん」
 「だからおめーも、つまんねえこと考えんな」


 それはさっき、わたしが聴きたかった言葉だった。飲み込んでも飲み込んでも掬われる幸せなわたしの想いに、彼は、気付いているんだろうか。涙ぐみそうになりながらもそれでも懸命に頷いた。浦飯くんは振り向かない。ただほんの少し緩められた腕を持ち上げると、浦飯くんの口元で静かに止まった。温かい唇の温度――後悔なんかしないよ、浦飯くん。わたし、絶対に。はらはらと流れる涙に、きっと家につく頃、そのかおはぐちゃぐちゃだろうなぁと思った。

 返事の代わりに、心音が彼に寄り添う。










愛の日に二人は


 雪の下に埋もれた想い。陽の目を見れた目の前の景色が、甘く、淡く春を呼び覚ます。

 わたし気付いたの。世界の色を変えたのは、きっと。