「はぁ、おかしかったー」

 友人と3人、最終電車の二本手前に間に合うように打ち上げから抜けてきた。ほんとはもっとみんなといたかったけど、先生には最大限の譲歩をしてもらっての時間だったし、親にもこれ以上心配をかけられない。春から始まる一人暮らしを前に、信用を失っては後々大変になってしまう。
 無礼講の名の下に、祝い酒を嗜む子も何人かはいた。でもわたしはまだまだお子様なのでソフトドリンクで充分だ。こうやって年齢で高校生を満喫できるのもあと少し。カレンダーを捲ればすぐにでもやってくる大学生の称号。あれだけはやく大人になりたいと思っていたはずなのに、今はまだ、この余韻に浸りたいとさえ思っている。それは今日の打ち上げだとか、先生の餞の言葉とか、友達の笑顔が起因しているように思えた。なんだかとても気分がいい。


 「ってば、飲んでもないのに酔ったな?」
 「そうみたい。みんなとこんな風にいられるのも最後なんだなぁと思うと…」
 「わかるわかる!あれだけ学校とか先生とか、嫌なときもあったのにねー」


 今思えば皆勤賞を狙えるくらいもっとちゃんと通ってればなぁって。の一言に、わたしももう一人の友人もうんうんと首を縦に振る。喧嘩もテストも苦手な朝の体育も、あれだけの時間の中で沢山あったはずなのに不思議だ。時間が経てば経つほど、この2人のように特定の人間以外と会えることはぐんと少なくなる現実。打ち上げでお酒を飲んでいたクラスメイトたちはその寂しさを紛らわせていたのかも知れない。
 何よりわたしにとって来月から始まる一人暮らしはもう地元ではない。大学見学と引越し先の下見を兼ねて足を運んだあの距離分、物理的にも離れ離れになる。家族ともみんなとも、そして。


 「は大学で、浦飯くん以上の子見つけないとね!」


 浦飯くん。三年間胸の奥に秘め続けた名前が棘みたいに突き刺さる。明日から会えることもないだろう現実が、今の今まで楽しかったわたしの気分を細切れにする。脈打つような、三年前は知らなかったこの気持ち。高校に入って彼を知って初めて知れた。浦飯くんは、自分のクラスの打ち上げに顔を出したのかな。
 友人の激励にわたしも笑顔で返すけど、上手く笑えているだろうか。新しい生活と環境で、浦飯くん以上の人に会えるだろうか。わからない。でも、今はどうしてもそんなことは有り得ないと思う自分がいた。
 気付くと、打ち上げを実施したお店の最寄り駅が目の前に迫っていた。別れのときが、刻一刻と近付いている。


 「それじゃあ、ここでお別れだね。が引っ越す前に一回お茶でもしよう」
 「あ、いいねそれ。は一人なんだから気をつけて帰ってね。襲われないように!」
 「うん、ありがとう。楽しみしてるね。2人も気を付けて」


 それじゃあと改札をくぐると2人は同じ、わたしは別のホームの階段を上った。振り返るとまたねーと笑顔で手を振ってくれていたので、わたしも応えるように手を振り返す。それぞれ地元は同じでも使っている駅はまったく別だ。3番線にはあと20分ほどで電車が到着すると電光掲示板の文字が知らせていて、少しだけ歩を早めて階段を駆け上ると、上に着く頃には息はすでに途切れ途切れだった。体力ないなぁ。苦笑しながら息を吐くたび白く色づくことに気付いて、わたしは軽く巻いていたマフラーをかけ直した。昼間は日差しが春を知らせても、夜にはまだ冬の名残りが潜んでいる。頬を撫でる風が冷たくて気持ちいい。これじゃあ本当にお酒を飲んだ人みたいだ。

 (静かだな…)

 たちの乗る主要線と違って、わたしの帰路である3番線は残業を終えただろうサラリーマンの帰宅時であっても人はまばらだった。夜のホーム独特のしんとした雰囲気があたりを包んで、わたしはベンチに腰掛ける前にその隣に設置されている自販機の光に目をやった。ほんの少し冷えてきた身体にホットドリンクの誘惑が眩む。電車到着までまだ少し時間もあるし。そう言い聞かせてカイロ代わりに温まった缶を握る自分の姿を想像しながら、お財布から取り出した120円を投入口にゆっくり入れる。

 「カフェオレか…おいしそう…」

 ミニサイズのペットボトルにはカフェオレが並んでいて、あと10円不足していた。そのとき初めて後ろで誰か人が待っていることに気付くと、わたしは慌ててお財布を再びバックから取り出しながら10円玉を探す。と、その瞬間、ちゃりんとコインの投入される音が聞こえて、驚きながら顔を上げた。



 「浦飯くん…!」


 呟いて、しばらくその場に固まる。わたしの声に隣に立った彼はニヤっと意味ありげに笑って「よお」と言った。ど、どうして浦飯くんが、ここに。わたしの代わりに自販機のボタンを押す浦飯くん。本物の、浦飯くんだ。驚きのあまりピッ、ガシャンと一連の機械音が耳に入らない。気付いたときにはお金を投入したはずの自販機のランプは消灯していて、浦飯くんは取り出し口から出てきた飲み物をわたしの頬っぺたに押し付けた。

 「あ、熱っ!熱いあつい!ギブです!」
 「オメーが固まってっからだろ。ぼーっとしてんじゃねえ」

 そういって悪態つくところも、言葉使いも仕草も。やっぱり、本物の浦飯くんだ。唯一違うのはいつもの髪型と違って幼い。ほらよ、と飲み物を渡すその姿が、自販機の光に照らされている。浦飯くん。どうしよう。だって、どうして。状況に追いつかない思考が精一杯この事態に対応しようと必死だった。でも、そんなこと無理に近い。
 浦飯くんは悪戯に笑うと、わたしの手元を指差した。え?と声を上げながら握っていた飲み物を見つめる。パッケージには「おしるこ」の四文字が刻まれている。


 「お、おしるこ!?」
 「ギャハハッ!気付くの遅せー!」

 わたしの反応に満足そうに笑う。ホームにいたまばらな数人がわたしたちを一瞥する。

 「ひ、酷いよ浦飯くん!わたしこれが飲みたかったんじゃないのに…!」
 「あーはいはい。カフェオレね」

 そう言うと一通り笑い終えた浦飯くんは直接ポケットに入れていた千円札をおもむろに専用の投入口に差し出した。わたしはそのとき初めてカフェオレが飲みたかったことを聞かれてた!と内心で声を上げた。さっきまで背後にいたのは他の誰でもなく浦飯くんだった事実に気付くと、途端に心臓が大きく跳ねて不意に彼の名前を呟かなかったことに冷や汗をかく。よ、よかった。これでもしも浦飯くんの名前を呟いていたら、絶対におかしい。わたしの今日までの気持ちに気付かれることはないまでも、絶対に。
 ガシャンと再び音を立てて出てきたカフェオレを取り出し口から取り上げると、浦飯くんは今飲むのかと尋ねてきた。頷くと、彼はフタをほんの少しだけ回して緩めてからつまらなさそうに「ほら」と言った。そのくちびるを尖らせた顔が子供みたいでおかしい。持っていたおしるこは浦飯くんの手元に収まって、そういう行動がわたしをドキドキさせるだなんて、気付いてもないんだろうなぁと思った。想いは隠しながらわたしがありがとうと笑ったら、笑うなと二度目のおしるこ攻撃を受ける。だから、熱いんだってば!

 そういえば今日の卒業式の後も、浦飯くんに同じことを言われて卒業証書ではたかれた。たったさっきの、思い出になるだろうやりとり。今、その張本人と二人、駅のベンチに腰掛けているなんて夢みたいだ。もう会えないから、可哀想になった神様が同情してくれたのかな。だとしたら、同情でも哀れみでも、わたしは今こうしていられることに感謝します、神様。
 カフェオレに一口口を付ける。浦飯くんによって開けられたフタがわたしによって閉められる。そんなことを思いながら隣に大きく座る彼を視線だけで一瞥した。そうして、いちばん気になっていたことを問いただす。


 「でも、どうしたの?なんでここに浦飯くんが…」
 「べっつにー。オレも打ち上げの帰り」


 わたしの言葉のすぐ後に、まるで用意してたみたいな答え方でおしるこを飲む浦飯くん。わたしはそっか、と呟いて視線を前に移した。浦飯くんは予想以上のおしるこの甘さに「うげ」とか「こんなん飲むやつ伝説だろ…」なんて口にしてる。大股を開いて、片腕はわたしの背もたれにまで勢いよく伸びているから、わたしは後ろに寄りかかるに寄りかかれない。まるで小動物にでもなったように小さく、けれどしゃきっと背筋を伸ばしながら、浦飯くんに再び問いかける。


 「うら…」
 「


 ほぼ同じタイミングで言葉を重ねる。でも、わたしは自分の言葉を飲み込まざるを得なかった。それほどまでに浦飯くんの表情がさっきとは打って変わって真面目な面持ちでわたしを見据えていた。

 「どうしたの?」

 何か気に障ることでもしてしまっただろうか。わたしはドクリと嫌な音を立てる心臓をひた隠し、懸命に浦飯くんの瞳を見つめていた。どうしよう、吸い込まれそう…。
 浦飯くんは、卒業式の後みたいな読めない表情をしている。力強い。子供っぽさの中に見せる彼のこういう一面がわたしをとびきり動けなくする。お互いに黙っていた。打ち破ったのは浦飯くんだ。

 開いた突破口は予想外の未来に響いていく。



 「お前、覚悟ある?」


 脈略のないはずの言葉が一瞬虚をつかせるけど、なぜだかその言葉を待ち望んでいた気分だった。ただ、この場で口にする意味がすぐには理解できなかった。でも、わたしは知っている。ほんの少し前からその違和感に気付いている。浦飯くんのクラスの打ち上げ場所は一つ隣の駅で行われるって聞いていた。何より、浦飯くんの使う電車のホームはたちと同じはずだ。もしも打ち上げの帰りなら、今、彼がここにいるのはおかしい。じゃあ、どうして浦飯くんはここに―


 「浦飯くん…?」


 下ろした前髪が風に揺れている。

 どうして彼は、嘘をついたんだろう。







夜の日に世界は


 手に入れることの慎重さ、失うことの大きさを天秤にはかけられない。…でも、間違っただなんて思わないで。

 こんなに嫌な女でも、浦飯くんは…同じ言葉をくれる?