見上げた建物はわたしが3年間お世話になった場所。
 学校に行きたくてたまらない日も、行きたくなくてサボった日もあった。それでもこうして振り返れば、思い出すのは笑った思い出。大好きな友達と出会えて、大好きな先生と出会えて、大好きな先輩と後輩と出会えた。そして、大好きな、大好きな、あの人と出会えた。
 この恋が叶うことは無いと知っていても、この出会えた奇跡に、ありがとうって言いたい。


 もう散ってしまった桜の木は緑で覆いつくされていた。これから初夏に向けてこの緑はもっと青々としてくるのだろう。毎年そうだったから、きっと今年もそうだ。今年はもうこの桜の木を見る事はない。今思えば、三度しかこの桜の木が満開になったのを見たことがないのだ。当然といえば当然で、でも何十回も何百回も見た気がする。不思議。
 ふと下を見れば、わたしの少し汚れたローファーと、散って茶色くなった桜の花びら。ローファーは結局2年の後半に変えたきり、一度も変えなかった。汚れているけど、本当は今日のためにちゃんと磨いた。そして思い出すのは、先生と友達の涙。わたしはいまいち実感が無くて、泣けなかった。先生と友達が泣くのを必死でなだめた。この後打ち上げで先生とも友達とも会うけど、きっとその後じゃないと卒業したという実感なんて湧かないだろう。


 それに今日、浦飯くんとは、一度も会えなかった。


 浦飯くんは1年のときだけ一緒のクラスだったけど、何かと接点があった。部活に行く途中会ったり、移動教室のとき会ったり。話もよく弾むし、何より優しい。2年のとき体調を崩して、廊下で蹲っていたわたしを保健室まで連れて行ってくれた。そんな優しさを知ってから、浦飯くんの事を知っていく度に、どんどん好きになっていった。
 でも、もうそのときには遅くて、浦飯くんの隣にはこの3年間、ずっと幼なじみ女の子がいた。わたしは告白もせずに失恋した。それでも好きという気持ちは止まらなくて、結局卒業のこの日までずっと想い続けていた。
 でもそれも、今日で最後。わたし達は別の道を行く。わたしは隣県の大学へ行くから、もうすぐ一人暮らしが始まる。浦飯くんは地元に残って、でも進学はしない。接点の多かったわたし達だけど、さすがにこれから接点があるとは思えない。
 友達には「大学に行けば浦飯くんよりいい人がいるよ!」と言われた。そうなのかもしれない。でも、それでもやっぱり浦飯くんを諦めることはできないみたい。


 ひゅうっと風が吹いたとき、わたしの後頭部にコツン、と何かが当たった。けっこう痛い…。頭を抑えて後ろを振り向くとそこには浦飯くんがいた。

 「なーにやってんだ?」
 「え、あれ、浦飯くん…?」
 「オレ以外誰がいんだよ。こんなとこで何だぁ?怪しいヤツだな」
 「いや、ちょっと、桜を見に…」
 「もう葉桜だぜ」

 学校では会えなかった浦飯くんがなんでこんなところにいるんだろう。浦飯くんの学ランのボタンはやっぱり二番目だけが無くて、情けなく糸だけが飛び出していた。わたしも浦飯くんのボタン欲しかったな。なんて、言えるわけもないけど。わたしを叩いたと思われる卒業証書も若干汚れていて(今日貰ったばかりなのに)、ワイシャツもふにゃりとしていた。朝、お母さんがアイロンをかけてくれただろうに。

 「浦飯くんこそ何でここにいるの?」
 「いやー、ちょっとな。たまたまここ来たらがいたんだよ」

 この偶然に感謝したい。ありがとう神様、ありがとう。

 「後輩の女の子達に追われてたんでしょ?」
 「……バレた?」

 さすが浦飯くんだね、と言って笑うと、笑うな、とまた卒業証書で頭を叩かれた。もっと大切にしなよ…。粗末に扱われた卒業証書が、少し不憫だと思った。

 「は」
 「うん?」
 「大学行くんだよな。一人暮らしすんのか?」
 「うん。通いじゃ遠いし大変だもん。学校の近くに暮らすよ」
 「そーか。じゃああんまり会えねえな」
 「……うん、そうだね」
 「幽ちゃんちょっと寂しいかも?」

 そうふざけたように呟く。思わずわたしが噴出すと、浦飯くんはすぐにニカって笑った。しばらくして、ちらりと盗み見た浦飯くんの横顔は、なにを考えているのかわたしが察知するには難しかった。でも相変わらず男前な力強い横顔だ。
 わたしには不釣合いだと思う。本当はこうやって肩を並べて、桜の木をみたり、友達になれたり、関わり合えたことすら奇跡なのかもしれない。だって平凡なわたしとはきっと住む世界が違う。わたしだって寂しいよ。浦飯くんと会えないなんて寂しいよ。学校では毎日のように顔を合わせていたのに。もうこれからは会うこともないんだよ。寂しい。
 でも浦飯くんはきっとわたしのことを引きずったりはしない。わたしに会えないからといって、毎日悩んだり、そんなことはしない。きっとこの先も同じように仲のいい友達を作って、幼なじみの螢子ちゃんともうまくいって、そうしてたまに思い出したときに“あんなヤツいたな”って思うぐらいだ。わたしはたぶん、しばらくは浦飯くんの事を引きずらない日なんてないだろう。
 話を変えたくて、今度は自分から浦飯くんに話しかけた。

 「大変だね」
 「あん?」
 「進学する彼女と…浦飯くんがいなくなったら悪い虫が寄ってくるかもよ?」
 「大丈夫だろ。流されるようなヤツじゃねえよ」

 それに女子大だし。そういった浦飯くんに胸がちくっとした。大丈夫だろ、って笑った顔はわたしの知らない笑顔だ。わたしに見せた事のないような。いつもバカみたいにふざけて笑っている笑顔とは少し違った。何が違うなんて言えないけれど、違うって感じた。
 浦飯くんは、彼女の前ではもっと今みたいにわたしに見せたことの無いような顔を見せるのかな。当然だよね、だってわたしはただの友達なんだから。わかってる。わかってるけど、どこか受け止めきれない自分がいる。浦飯くんに気付かれないように、ぎゅうっと制服のスカートを握った。こうしないと泣きそうだったから。自分から、彼女の事聞いたくせに。

 「とか言って、心配なくせに」
 「まあ多少はな」

 螢子ちゃんは幸せだ。浦飯くんに想われているんだから。これで悪い虫に着いて行ったら、わたしが殴ってやりたいくらい。もちろんそんなことはしないけれど。
 桜の木を眺める浦飯くんを、横目で見て、そして下を向く。わたしの視界に入るのは、さっきと変わらない、少し汚れたローファーと茶色くなった桜の花びら。鼻がツンとしてきて、一層スカートを握る手に力をこめた。泣いたらダメだ。


 「わたしさ、」


 声が震えていた。浦飯くん、気付いていたらどうしよう。


 「浦飯くんに会えて、すごくよかった」
 「なーに、改まって…」
 「すごく楽しかったし、すごくいい思い出ができた」


 浦飯くんを好きになれたことが、一番の思い出かもしれない。


 「だから、ありがとう」
 「…おう」


 そう言って浦飯くんはそっぽを向いた。だけど気付いたの、それが照れ隠しだって。だって、耳まで真っ赤になってた。浦飯くんがそっぽを向いている間に、少し泣いた。嗚咽を漏らさないように。ほんの少し。それを袖で拭って、

 「わたし、打ち上げ行くから、もう帰るね」

 言うと、まだほんのり赤い顔で、じゃあな、と言った。正門に向かって歩く途中、我慢しきれなかった涙が、一つ、また一つと流れていった。






春の日に残雪は


 やっぱり諦められないの。彼女が居ても、離れても。望みが無いとわかっていても、やっぱりわたしは

 浦飯くんが、好き。