哀しみに誓う青年




 目を開けると其処には一面雪だらけの銀世界で、振り向いても振り返っても下を見ても上を見ても左右を見ても、何処を見てもただ白いだけの景色が続いている。人なんて一人も見当たらなくて、雪の上に居るのはたった一人だけ。そう自分だけが存在する世界。そんな世界を視界一杯に目に焼き付けたいと思ったことが遠い昔に一度だけある。けれども、そんな世界を目に焼き付ける事を憧れて一体自分には何のメリットがあるのかと言うと、今考えてみれば明らかに全く特のしない思想だという考えへ行き着くのだ。昔の自分はやけに乙女染みた、しかし変な願望を抱く人間だったのかと思い返してからそんな自分を思い返している現在の自分も相当馬鹿げた人間だなと嘲笑った。


 冬と春の境目、だがまだ肌寒い朝の風が肌を撫でる感覚に目を覚ましぼんやりと視界に移りこんだ景色を眺め始めた。思考がいまいちはっきりとしないまま、今は何時だと視線を巡らせるのだがどうやらこの首の位置では時計は見えないらしい。枕に押し付けた片頬をずらして首を動かすと身体が動きたくないと拒絶反応を起こした。ああ、駄目だ。朝にはやっぱり自分は弱い。
 ずらしかけた身体を再び元の体制に戻してもぞもぞと被っていた布団を手で引っ張る。布団を縫って入り込んでくる隙間風が異様に寒い。冷気を遮断しようともっと布団を引っ張ると後ろからうーっという唸り声が聞こえてきて、まだ半分寝ぼけた脳が微妙に反応を示した。誰だろう。ごろりと寝返りを打って反対方向を向くと其処にあるのは生き物のように奇妙な動きをしている盛り上がった布団。布の隙間からチラチラと綺麗な黒髪が見え隠れした。それだけで一体この布団には誰が居るのか手に取るようにわかって、それだけだった。特に布団の下へ手を入れるわけでもなく、呼びかけるわけでもなく、上下に動く布団の盛り上がりを見つめているだけで何もしない。

 遠い自分が思った何処までも白い雪だけが一面に広がる銀世界。其処には人なんて一人も見当たらなくて、自分だけが存在している。そんな世界を目に焼き付けるというよりも自分はその世界に憧れていたのかもしれない。裏切りや暴力さえ何一つ無い白だけの世界に。

 目前の布団が大きくもぞりと動き出した。布と布の間を布団の中で暖められていた手が這って来て、わたしの身体に辿りつくとぐぃっと引っ張ってくる。だが、わたしは其処から数センチも動くことなく横になっているだけで代わりに布団の中の人間が動いた。幽助だ。焦点の合っていない目を宙に漂わせた後、双方の視点を此方に合わせ生気の感じられない瞳で見つめてきた。布団の中から覗く眼を見つめ返して黙っていると幽助の方から若干掠れ気味の声で、

「………」

 そう名前を呼ばれる。何、と中身の無い返事を返したのだが今回は応答がなく布団の中から覗いていた瞳が急にぐっと近づいた。気がつくと程よく温まった人肌に包まれていて、抱きしめられたのかと理解した時には至近距離にその肌の持ち主の顔があったりする。まだ眠そうな瞼の下がった半眼がこれでもかと思うほどじっと未だに見つめてくるのでやっぱり何も言わずに見つめ返した。それからワンテンポ遅れておはよっと軽い挨拶をすると今度はああ、なんて挨拶無しの返答が返ってきた。

「あー、寒ィ…」
「そうだね。今何時?」
「知らねェよ…時計何処やったっけな…」

 頼りなげな彼の言葉に溜息が漏れたのだがその直後に「何呆れてんだよ」なんて言葉も付いてきた。かと言って幽助は時計を探すわけでもなく人の身体を抱きしめたまま動こうとはしない。幽助の変わりに彼の腕の中で身体を半回転させて周囲に視線を走らせて時計を探してみたが、時計のような物体はなかった。時計なんて普通一家に一台くらいあるものなんじゃないか。それなのに本当に目覚まし時計一台無いのだろうか、この部屋は。

「なんか目が覚めちゃった」
「オレはまだ眠みぃけど…」
「寝てていいから。わたし起きるね」
「なんならサンもご一緒しませんか。ついでにアッチの方も」
「丁重にお断り申し上げます」

 幽助の腕と布団から這い出して目は覚めたものの身体は完全に覚醒していないようでダルい。布団の上で立ち上がって寝室のカーテンを開けふらふらと洗面所へ向かう。洗面台の前に突っ立って一度自分の今日の寝癖を鏡で拝見してから、蛇口を捻って溢れ出た冷たい水を両手で掬い目を瞑ってそのまま思いっきり顔面へ水をぶつけた。
 ひんやりと顔を濡らした水が唇に浸透し舌には当たり前のように何の変哲も無い水道水の味が感じられただけだった。目を硬く瞑ったまま手探りでいつも常備してある洗顔用タオルを探しておもむろに引っ張ってきてごしごしと顔を拭く。湿った感触が泣くなり目を開けると鏡にはすっかり水滴の拭き取られた自分の顔が移りこんでいた。視界が先刻よりクリアに見える。しかし、次の瞬間には唐突に喉から欠伸が競りあがってきて大きく口を開いた間抜け面が鏡の中にあった。

 洗面所を出て再び寝室へ向かってUターンする。中には先ほどと変わらず布団に包まった幽助が居て「んだよ、戻って来たんか」と少々驚いたような顔をした。その問いかけに「やっぱり寝る」と短く切り返しそのまま幽助の上にダイブした。ごふっ!という少々くぐもった呻き声が聞こえたが気にしない。
 自分の体の下でもぞもぞと動く布団の塊に腕を回してキツく、強く抱きついてみる。途端に布団の動きがピタリと止んで、布の間を張って布団の中から幽助の大きな手が出てきてわたしの腕を掴んだ。わたしの腕を掴んでいない片方の手で布団を掻き分けて彼が顔を出す。その目は先刻より眠気の薄い生気を帯びていて、しっかりとした焦点の合った視線で此方に向けられていた。

「どした?今にも死にそうな顔してんぞ」
「…別に……何でもない」
「嘘吐け。その顔のどこが何でもねーんだよ」
「…うるさい」

 幽助の深い色をした瞳が自分の心境まで覗いているんじゃ無いかと変な錯覚をして、怖くなって目を逸らした。ああ、わかってる。幽助は心配してくれてるんだって事、わかってるんだ。でも、やっぱり自分は馬鹿みたいに素直じゃない意地っ張りな人間だから。自分の手が、腕が、足が、身体が自然と震えていることを認めたくないんだ。

「ゆ、すけ、」
「あ?」
「…ごめん」

 何処までも白い雪だけが一面に広がる銀世界。其処には人なんて一人も見当たらなくて、自分だけが存在している。そんな世界を目に焼き付ける事を憧れて、けれど本当は隣にわたしを愛してくれるはずの両親や兄弟が居ることを望んでいた。しかし、それは一生叶わない願いだったから。ただ一人幽助だけが目の前で残っていて、彼は笑って同じようにただ一人残った自分の隣に居てくれたんだ。だから、

怖かった。

 幽助もいつかは何処かへ行ってしまうんじゃないかって思えて、心底怖かった。だけど彼が何処かへ行くことを望むのなら自分にその事で引き止める権利は無いから、留めることは出来はしないから。だから、幽助が望むなら何処までも白い雪だけが一面に広がる自分と彼だけの銀世界から出て行っても引き止める事はしない。そう思ったんだ。それなのに、幽助は今もこの瞬間もわたしの隣に、正面に居てもしかしたらわたしの所為で他の何処かへ行けないんじゃ無いかと思えて。だから、謝った。

「幽助ごめん…。ごめんね…」
「お前何に対して謝ってんだ」
「なんか、今ちょっと怖くなって、幽助がパパやママみたいに居なくなるの怖くなって…。ごめん」


 ぐいっと腕を引っ張って、自分の身体に引き寄せると両腕をわたしの背中に回して息苦しいくらい強く抱きしめられた。服越しに伝わってくる幽助の体温と心臓の鼓動が心地よくて目を細める。確かに、わたしの目の前に居るのは幽助だ。

「オレはお前が死ぬまで傍に居る。これは絶対ェ守る。約束だ」
「…ん」
「だから、お前も絶対ェオレが死ぬまで傍に居ろ」
「うん…」

 肩口に顔を寄せてきた幽助はふっと息を首筋に吹きかけて、暫くそのまま動かなかった。だけど体温は確かに暖かくて心臓の鼓動はちゃんと脈打っているから。幽助は間違いなくわたしの目の前に居て生きている。それだけで心底安心した。

 いつか、何処までも白い雪だけが一面に広がる銀世界をこの目で本当に見れることがあるのなら。
 その時は幽助と、今大切な人たちが傍に居るのを願おう。



(20100113)