あの日、思わず傘を持ってこなくてよかったと考える不謹慎な自分がいた。


大丈夫?一緒に行こうか?」
「ううん、大丈夫だよ。授業遅れちゃうからは先行って!」


わかったーと間延びした声と同時にそっと手を振るに微笑むと、わたしはなるべく授業に支障がでないように保健室までの道のりを急いだ。三時間目の選択授業で調理を選んだわたしは、ふいに今日の放課後が雨だと知らせていた今朝の天気予報を思い出し、一週間前から借りっぱなしになっていた浦飯くんの傘を持って来ていた。返すときにまた少し話せると思うと嬉しい反面、もう今後こんな機会はないかも知れないと残念がる気持ちを押し込める。そんな自分の中の一喜一憂に思うがままになっていたものだから、ホワイトシチューの具材を切りながら見事に包丁で指を切った。紙で切ったときのようにスパッとやられてしまって、傷口は小さいながらに未だズキズキと痛みを感じる。


「失礼します…って、あ」


絆創膏では物足りないとでもいうようにドクドクと血の流れを訴える指を押さえながら保健室に入ると、見渡した室内には保険医の先生の代わりに、とても見知った人物がベッドに横たわろうとしている寸前だった。


「浦飯くん…」
「…


少しだけバツの悪そうな顔で笑うと、浦飯くんは倒しかけた身体を起こしてベッドの縁に座りなおす。10分休みの間に眠ろうというよりは熟睡する気満々といった雰囲気が伝わってきて、わたしは思わず笑ってしまった。それに気付いた浦飯くんが「笑うこたぁねーだろ」とくちびるを尖らせる。けれどその表情は怒っているとか不機嫌になったというよりはとてもやさしい。ごめんごめんと謝りながら応急処置の道具が一式置かれた配膳の前に座ると、浦飯くんは気が付いたようにこちらに歩いてわたしの目の前に座った。


「大丈夫か?」
「うん。さっきの選択授業でシチュー作ってたんだけど、スパッとね」
「だいぶ切れてんな。こっち来な」


そういって有無を言わさず浦飯くんがわたしの左手をやさしく掴んだ。温かい大きな手に触れられて驚くと、浦飯くんは怪我に触れたのかと思ったらしく「悪ぃ」と呟く。それでも恥ずかしくて熱くなりそうなわたしに気付くことなく、浦飯くんは慣れた手つきで消毒していく。不良の肩書きをほしいままにしてきた浦飯くん。自然と怪我も多くなるだろう世界に身をおく彼の、さすがだなぁと痛みも羞恥も忘れてその動作を見つめていたら、ピタッと処置する手が止まったのでわたしは彼を見つめた。


「あんま見んなって」
「ごご、ごめん!」


再び恥ずかしさで慌てるわたしに浦飯くんは悪戯っぽくわらう。その表情を見て彼はいつも無邪気に笑うなぁと思う。浦飯くんに掴まれている左手はみるみるうちに「手当て」と呼ばれる妥当な形になっていて、数々の喧嘩をこなしてきた彼の手は、とても大人びていて格好良かった。


「ハイおっけー」
「わぁ…浦飯くん器用だね。あっという間」
「伊達に喧嘩してねーだろ?」
「うん、本当」


指定のグレーのカーディガンが揺れる。浦飯くんはわたしの指先を見つめたまま黙ってしまった。休み時間の喧騒が廊下から聞こえてくるはずなのに。保健室ではとても奇妙な沈黙が二人を包んでいる。わたしはそのとき、そういえば今日浦飯くんに借りていた傘を持ってきていたことに気付いてその話題を振る。すると浦飯くんは何か考えるようにしてからゆっくりと口を開いた。


「そーいやさ、」
「うん」
「オレまだ何もお礼してもらってねぇんだけどなー」


言いながら彼の真っ直ぐな視線がわたしを捉える。わたしとしたことが、彼の言うとおりだ。邪魔にならないようにできれば放課後に雨が降る日を狙って借りていた傘を返そうと思っていた。あの日から毎日天気予報を見るようになって一週間。それでもこの一週間で彼に何かしらのお礼があっても良かった。というよりして当然だった。非常識な自分と目の前の彼にそう思われたかも知れない現実に真っ白になりそうで、わたしは俯きながら浦飯くんに謝る。


「ごめん…ほんとごめん浦飯くん。お礼、あ、でも今日は手持ちも少ないから…できることがあれば何でも言って」
「…何でも?」
「もちろんだよ!」


気が利かなくてごめんねと気弱な声で呟くと、浦飯くんはふーんとつまらなそうに言った。かと思うと突然立ち上がった彼に驚いて見下されるように見つめられる。せっかく話せるチャンスだったのに、なんてことをしてしまったんだろう。彼を怒らせただろう自分を呪い殺したい。そう思いながらぎゅっと目を瞑った瞬間、とても温かい感触に包まれた。


「え、う、浦飯、く…」
「悪ぃ。冗談」
「じょうだん?」


なにが?お礼が?それとも浦飯くんに抱き締められてることが?


背中に回された彼の腕が緩んだと同時に、腰が抜けたわたしは座っていた椅子から思わず滑り落ちた。!と慌てて浦飯くんが両腕を掴むけど、腰だけじゃなく全身の力が抜けてしまったことに気付いて立ち上がれなかった。4時間目の始業を告げるチャイムが鳴り響くけど、タイミングがいいのか悪いのかわからない。へたり込んだわたしと同じようにしゃがむ浦飯くんが心配そうに顔を覗き込んだ。


「あ、ご、ごめ…」
「すげー好きなんだけど」


空耳か、もしくは耳を疑うような浦飯くんの言葉に俯いた顔を思い切り上げた。すぐ近くにある彼の整った顔。そのくちびるは今なんて言ったの?


「あ、あの…」
「あ?」
「わたしも、すきです」


そして自分のくちびるも彼に何を伝えたんだろう。思わず出てしまった本当の気持ちは、もう元には戻せない。浦飯くんを見たらしゃがみ込んだまま両手で、まるで立体マスクのように口と鼻を覆っている。マジで?と子供みたいな表情をしているかはわからなかったけど、その声音が照れていることはわかった。


「マジです。もうずっと前から。…だからあの雨の日、すごく嬉しかったの」
「…やば」
「え?」
「我慢できねーじゃん」


悪戯に笑う彼を見るのは初めてじゃない。浦飯くんがもっかいと言ってわたしを抱き締める。すでに授業も怪我のことも忘れていたけど、そんなこと、彼と見る新鮮な世界を前にしたら二の次三の次だった。






2010/01/13 ジェラート