雨が降るなんて朝の時点では聞いてなかったから、オレは一度教室に置き傘を取りに戻った。薄暗い階段はひんやりと冷たくて、適当に履いた上履きの裏からでも感触が伝わる。教室のある3階に辿り着くと、真っ直ぐと延びる廊下の一番奥に設置された音楽室からブラスバンド部の楽器の音漏れが聞こえてきて、まだこの校舎に人がいる事実を知って少しだけ安堵感を覚えた。


「ん?……おーあった」


固定された自分の机の脇にかけられたビニール傘を手に、誰もいない教室から出て一気に階段を下りる。途中途中で何段かすっ飛ばす瞬間、風を切る音が聞こえて心地よかった。窓の外では本降りになった雨が一層 大きな音を響かせて雨粒を弾かせる。昇降口に着くと、桑原の姿はまだなかった。その代わりに別の先客が立っていることに気付いた。


?」
「あ、浦飯くん!びっくりしたぁ。どうしたの?」
「バスケ部から体育館占領して桑原と暴れてきた」
「あ、暴れて…」
「久々にバスケなんかやるもんじゃねーな。腰が痛ェ」


オレがそういうと、はとても嬉しそうにわらってお疲れさまと言った。はオレのクラスメートで、一度だけ隣の席になったことがある。今時っつったらおかしいかも知れないが、周りの女子とは少し違った雰囲気があると思う。絶対に見返りを求めない。外見は幼いのに中身はかなり大人びてんなと思ってて、話しやすいのことは嫌いじゃなかった。いや、正直に言えばかなり気に入ってる。ザァァァと耳にまとわりつく雨音が強くなって、は困ったような表情を浮かべて曇り空を見上げていた。オレはその手に傘がないことに気付いて、くどい言い回しはこの際一切切り捨てて、目の前の、に自分の傘を差し出した。


「え?!」
「使えよ」
「う、浦飯くんのは?」
「オレは桑原と帰っからよ」


そういってふざけてウインクをすると、は昇降口の薄明かりの下で顔を赤くした。…お、照れてる照れてる。俯きそうな角度で丁寧にお辞儀をしながらはありがとうと傘を受け取る。受け取ってしばらく間をおいてから、本当にいいの?と再確認する眉根を寄せた表情にオレは不意打ちを食らったような感覚に陥って、いいっつーの!とぶっきらぼうに返すことしかできなかった。本当は「一緒に入るか?」とでも言えればもっと格好がつくのかもしれない。生憎オレには先約があったし、それがまた野郎同士ってのが空しい話だが、何よりオレのビニール傘じゃ元々そんな演出も無理だろう。その代わりといっちゃなんだが、桑原が来るまでのほんのわずかな時間をオレは存分に刻んでおこうと思う。


「ありがとう浦飯くん…本当にありがとう」
「そんな気にすんなって。」
「…ありがとう」
「ところではなんでこんな時間までいたんだ?委員会?」
「あ、うん。今日は長引いちゃって」


が本当に申し訳なさそうで健気だから、オレは相槌を打ったせいもあってが自分の傘を使おうとしてる事実を飲み込むのに少しだけ反応が遅れた。自分で貸しておいてあれだけど、マジでこの傘重宝すんぜ。そんな下らない、オレにとっては珍しく女々しい考えが過ぎったと同時に昇降口から忙しない足音が聞こえてきた。きっと桑原だ。


「浦飯テメェ!先公が来るなり逃げてんじゃねーよ!代わりにオレがこってり絞られたぜ!……ってか?」

ほらな。待っているのがオレだけじゃなくて桑原は少し驚いている様子だった。オレとを交互に見つめながら靴を履き替えると、桑原はハッと気付いたようにみるみる顔を赤くした。


「何想像してんだぁ?」
「な、なぜオレの言いたいことがわかんだオメェ!!?」


エスパーか浦飯!バスケの後でも桑原のテンションは常に一定だ。そんなコイツとはこれでもいろいろ乗り越えてきたんだ、エスパーじゃなくても何考えてるかくらいわかる。オレか、もしくはが告白している場面に自分がうっかり現れたと思ってやがる。救えねーな桑原。いつも表情に書いてあんだよ。そんなオレたちの馬鹿なやりとりを見ていたがくすくすとおかしそうに笑っている。は開く直前だった傘を閉じると、桑原に向かって声をかけた。


「桑原くんもお疲れさま。わたしが今日傘を忘れちゃって…そしたら浦飯くんが貸してくれたの」
「あぁ、そーいうことかよ!オラァてっきりが道を踏み違えちまったんじゃねーかって…」
「どーいう意味だコラ」
「そのまんまだよ!それより、なんならオレの傘も貸すぞ!」
「…おまえまで貸したらオレたちどーすんだバカ原」
「あ、ありがとう。二人とも疲れてるのにごめんね」
「いやいや気にすんなって!ただ浦飯だけはやめておけ?」
「だーから!!度々失礼なんだよテメェはよ!…こそ気をつけて帰れよ」
「うん。…風邪引いたら遠慮なく言ってね!わたしが責任を持って看病するから。それじゃあまた明日!」


あ、その手もあったか。オレはそんなことで引くはずもないだろう風邪を引こうか本気で悩む。勢いよく傘を開くとは最後にもういちどだけ振り返ってふわりと微笑んだ。右手を振って雨の中を歩いていくの後姿を見つめながら、オレは桑原とむさ苦しいけどこの上ない理由での相合傘に笑った。






2010/01/13 裏傘