「、浦飯くん来てるわよ」

 お客さんのオーダーを取っていたわたしが伝票を出しに厨房に戻ると、同じく店番役の母が彼の来店を告げた。浦飯くん。そのなまえを聴いただけで頬が緩みそうになる。浦飯くんの姿を確認しようと、わたしはすぐさま厨房を出てちらりとホールを覗き見た。
 わたしの家は、小さな喫茶店を経営している。レジもある入り口にはケーキの入ったショーケースが並んでいて、その左右に店内が広がりちょっとしたお茶のできるスペースがある作りになっていた。駅から少し歩く場所にあるけど、ありがたいことにお客さんは日々耐えなかった。

 「あ、ちゃん!注文いい?」

 すると、わたしに気付いた別のお客さんにオーダーを頼まれた。常連の池垣さん。にっこりとわらって頷くと、池垣さんは嬉しそうにロイヤルミルクティーとケーキのセットを注文した。メニューを受け取って再び厨房に伝票を手渡す。

 「お、池垣さんも来てるのか」

 伝票を見ただけで誰が来たのかわかってしまうのも、昔ながらのお店のいいところだと思う。池垣さんとは競馬仲間でもある父の嬉しそうな声を背に、「浦飯くんも来てるよ」と心の中で返しながら厨房を出た。
 浦飯くんはいつも同じ時間、同じ曜日に店内奥の特等席に座る。というより、わけあってそこに座ることをわたしの父と母に余儀なくされた。その半ば強制的な決まりによって、この時間になると件の特等席には「予約」と書かれた札が立てられて他のお客さんが座らないように準備される。店内ルールとまではいかないにしろ、パートさんやアルバイトのみんなも周知の事実だった。浦飯くんは「別にどこの席でもいいっすよ」と笑ってくれるけど、父と母にとって、そして何よりわたしにとって、彼は恩人以外の何物でもなかった。
 その行為が感謝に繋がらなくとも、精一杯のおもてなしを感じてほしい。ただそれだけだ。

 「!」

 いまいちど席に着いた浦飯くんを確認しようと視線を移す―よりも早く、浦飯くんがわたしに気付いてくれる。右手で頬杖をつきながらひらひらと予約札を振っていた。思わず笑ってしまう。

 「よぉ、悪ぃないつもいつも」

 手書きの伝票とペンを持って浦飯くんの席に向かう。彼の言葉に首を横に振ると、浦飯くんは「予約って…オレ週3じゃねーか。すごくね?」ととぼけてみせる。わたしが笑って頷く。すると彼も満足そうにイヒヒと笑った。
 確かに自分の仕事とわたしが働いてる日が重なる週に3回は必ず来店してくれるのだから、一週間のうち約半分が浦飯くんの「予約」ということになる。それを考えたらおかしなことだ。常連さん以外に当てはまらないと思う。
 「ご注文は?」の意味を込めて手書き伝票を指差すわたしに、浦飯くんは「んー…悩んでんだよ。アイスコーヒーは決まってんだけど」と言いながらメニューを見つめている。それなら先にアイスコーヒーを持って来ようと思い了解の意味を込めて親指と人差し指でOKサインを作った。すると、ふいにそのやりとりを見つめていた常連の山下さん夫婦が「ふふふ」と笑みを漏らす。

 「あんたたちいつ見てもお似合いだねえ」
 「本当に。幽ちゃんもちゃんの言葉がわかるみたいだなぁ」

 コーヒーカップに口付けながら山下さんの奥さんが微笑んで、つられるように旦那さんが相槌を打つ。山下さん夫婦はわたしが幼稚園の頃からこの喫茶店に足を運んでくれる大切な常連さんだった。「幽ちゃん」は、そんな山下さん夫婦のような常連のお客さんや、うちの喫茶店で働く人が浦飯くんを呼ぶときに使う。はじめは浦飯くんもそんな柄じゃねーよと言っていたけど、慣れてしまえばわりと居心地よさそうにしている。

 「もっと言ってやってよ山下のばーさん。こいつ照れるから。な」
 「………」
 「あらやだほんとうだ。赤い顔してこの子は」
 「幽ちゃんはなんでも知ってるんだね、ちゃんのこと」

 大げさに驚いてケラケラと笑う。二人の言うとおり過ぎて反論の余地すらないけど、それ以前に声を持たないわたしにとってその「声」の役割を果たしてくれるのが表情だ。あまつさえ浦飯くんとお似合いだなんて嬉しいことを言われたら照れてしまうに決まってる。
 そそくさとアイスコーヒーを取りに行くふりをしてその場から離れると、山下さんの奥さんの「あ、逃げちゃった」という声が聞こえた。すると「」と名前を呼ばれ、わたしは未だ赤い顔のまま後ろを振り返った。

 「クラブハウスサンドよろしく!」

よく通る声でオーダーを告げる浦飯くん。わたしは二度頷いて了承し返すのでやっとだった。






 『何泣いてんだ?』
 『!………』

 忘れもしない。あれは高校3年生に進級したばかりの4月。突然声をかけられた驚きと、人がいたんだという自分の視野の狭さに溢れる涙がほんの少しだけ引っ込んだ。屋上に設置された給水塔と同じ高さの、ちょうど屋上の入り口があるその上からヒョイとのぞくように顔を出した。同じクラスの浦飯くんだった。
 初めて話しかけられた。彼の噂は何度か聞いている。不良で、気の向いたときにしか学校に来なくて、喧嘩が強くて。それ以外にも沢山高校生らしからぬ噂もあったけど、まさか彼がこの場所で寛いでるなんて思わなかった。

 『弁当?あーもうそんな時間か』
 『…………』
 『って、なんだよ。無視かぁ?』

 うつむいた拍子に零れた涙を手の甲で拭う。お弁当袋から出しかけたお弁当箱をぎゅっと握るとしばらくの沈黙が訪れた。浦飯くんが何も言わないわたしをどう思ったのかはわからなかったけど、とりあえず彼はその場から降りてわたしの目の前に立った。浦飯くんの身体が日陰を作る。

 『……おまえそれぐちゃぐちゃじゃね?』

 浦飯くんがわたしのお弁当箱を指差す。その言葉に、さっきまで泣いていた理由が再び頭を過ぎり涙が溢れ出した。すると、浦飯くんが「うお!?」と驚いたような声を上げて一歩退くのがわかる。さらに泣きたくなって、初対面だとか恥ずかしいだとかそんなことも構わず涙を流した。グラウンドや窓の開いた教室からは昼休み特有の喧騒が聞こえている。外は澄み渡るほどの青さだった。穏やかさに拍車をかけて時々迷い込んだように桜の花びらが舞っていく。
 浦飯くんは気まずそうに頭を掻きながら「あー…」と言葉を探している。横目に何かを考えた後、意を決したように口を開く。

 『それ、食わねえならオレにくれよ』
 『…?』
 『弁当だよ。ぐちゃぐちゃで食う気しねえんだろ?』

 半分正解だ。でも半分はそんな理由じゃない。彼の言葉に目を見開くと、浦飯くんは乱暴にわたしの膝からお弁当箱を奪った。もしかして気を使ってくれているのだろうか。だとしたらそんなもの必要ないのに。フタを開けようとする浦飯くんの手を制止してお弁当箱を返してもらおうとした。でも、反対にわたしの手が浦飯くんに捉まってしまった。大きな手。同じ高校生なのに、こんなにも違うなんて。

 『ダメでーす!もうこれはオレのものになりましたー』
 『………』
 『お、なんだよ美味めぇじゃん。カタチはあれでも味は変わんねーよ』

 備え付けのお箸を使って次々におかずやごはんを口に運ぶ。もぐもぐと忙しなく動く口に「これオメーが作ったのか?」と問いかけられた。俯いたまま首を振ると「ふーん。料理上手な親に感謝しろよなー」とだけ返ってくる。浦飯くんの言葉にいちいち涙腺が反応してしまって、目のふちになんとか留まっていた涙がぽろぽろと落ちていった。
 自分の作ったお弁当ならどんなにぐちゃぐちゃになってもこれほど悲しくはなかった。お店を経営しながら家事も両立してくれる両親のお弁当だから、だ。声も出せず何度も何度も涙を拭うわたしに、浦飯くんが「お前泣き虫だな」と言った。

 『弁当がぐちゃぐちゃになったくれぇで泣くなよな。オレなんか弁当箱全部白飯敷き詰められてる日だってあんだぞ』

 別にぐちゃぐちゃだっただけで泣いていたわけじゃない。反論しようと思ったのに、頭の中でごはんだけが敷き詰められたお弁当を想像してしまった。躊躇うことなくそのお弁当を送り出す浦飯くんのお母さんがとても愉快だ。お昼になってお弁当箱のふたを開けて驚く浦飯くんの顔が再生された。ちょっと笑ってしまう。不良と謳われる男の子がお昼のそんな一瞬に愕然とするなんて。肩が揺れる。それに気付いた浦飯くんがお弁当箱を片手にわたしの反応に満足そうに口角を上げていた。

 『なんだ、笑えんじゃねーか』
 『!』

 浦飯くんは言いながらもぐもぐと租借してから飲み込んだ。

 『人が気持ちよく寝てたらメソメソシクシク言ってっからよー』
 『………』
 『よし。そんな泣き虫のために今度はオレがなんかしてやる』
 『……?』
 『弁当の礼だよ。なんかしてほしいことねえの?』

 特に喧嘩とか喧嘩とか喧嘩なんかは喜んで引き受けるぜ!と冗談なのか本気なのか定かではないことを言いながら、浦飯くんはビシッとお箸でわたしを指す。しばらくわたしを見つめたあと、気付いたように「あ、そうか」と何やら呟いて一旦お弁当箱を胡坐座りの真ん中に置いた。すぐに自分の手のひらを差し出す。その左手に、生命線が太くて長いなぁと関係ないことを思いながら、意味がわからなくて思わず首を傾げる。

 『お前話せねえんだろ?ここに書け。名前教えろ』

 突然の浦飯くんの提案にこのときばかりは心底驚いた。
 浦飯くんはわたしが声を持たないことに気付いていた。これだけわたしが話さなければ当然だとは思う。でも、今まで出会ってきた人の中にはわたしがわざと話さないと思われて「感じが悪い」と口をきいてくれないことだってあった。彼の言う「お前話せねえんだろ」ほど気軽な口調は初めてだった。感動よりも未知の感情に戸惑ってしまう。
 おそるおそる浦飯くんの左手のひらに人差し指を宛がう。浦飯くんがその様子を食い入るように見つめる中、わたしはと震えた透明の文字を刻んだ。

 『

 書かれた文字を浦飯くんが繰り返す。ちゃんと伝わっていた。何から何まで初めてのことで不思議だった。今になって改めて思う。どうしてあのとき浦飯くんは、声の無いわたしが泣いているとわかったんだろう。












 「はー食った食った」

 浦飯くんが言いながらソファーの背もたれに寄りかかる。17時で仕事を終えたわたしは、浦飯くんの対の席に座って彼を見つめていた。外人さんにもわりと驚かれるサイズのクラブハウスサンドイッチとポテトのセットを、浦飯くんは臆することもなく物の見事に平らげてしまった。それを見ていた山下さん夫婦も「幽ちゃんすごい!」と帰り際に大喜びしていた。たしかに、高校の頃から変わらないこの細身の身体のどこに行ってしまうんだろう。
 それから立ち上がってお皿とコーヒーカップを手に持つと、「ちょっと邪魔するぜ」とわたしに一言呟いてからお店の厨房へと入っていく。自分で食べたものは自分で片付ける。いつ来ても無料でなんでも提供することを誓った父と母に、そこだけは譲れないと彼が言ったことだ。浦飯くんのそういうところを尊敬している。彼がみんなに愛される理由の大半がここにつまっている。そんなことを考えながらわたしも立ち上がり、浦飯くんと帰路につく準備をした。

 「おじさん、おばさん、ごちそーさんでした」
 「おお幽ちゃん!いつもありがとうなぁ」
 「それはオレの台詞。こんな美味いもんタダで食わしてもらって」

 洗い場借ります。そんな父とのやりとりが厨房から聞こえる。しばらくして二、三の会話を交わした後に「それじゃあ、を借りてきます」と言う声がして厨房の扉が開いた。

 「待たせたな。行こうぜ」

 ぽんと頭を撫でられて、わたしたちはお店を後にした。浦飯くんはこのまま職場でもある駅前の屋台まで向かう。わたしは彼の部屋の鍵を手渡されて浦飯くんの家でお留守番だ。たいてい金曜日の夜から日曜日までは浦飯くんのお家にお邪魔することが多かった。
 別れ際、浦飯くんの背中を見送りながら、あの頃から何も変わらない彼のやさしさに柔らかな午後の夕日を重ねた。







ラビュー・ラビュー

神さまは、声の持たないわたしにそれ以上に大切なものを教えてくれた。高校3年生の春から今日まで、ずっと。