小さな幸せに感謝したい。それなのに、いつだって見えない影がつき纏う。


「3年B組からの報告は以上です」
「ありがとうございました。それでは、続いて3年C組さんお願いします」
「はい」


順調に進められたクラス報告を終えて席に戻ると、すれ違いざまC組の林さんが「良かったよ」とウインクしてくれる。ありがとうと微笑むと、C組学級委員長の林さんは今までわたしが発表していた教卓の前に立って、何事もなかったように淡々と報告を読み上げ始めた。さすがだなぁなんて感心して周りを見ると、後輩も静かに彼女の話し声を聞いていた。皿屋敷中学の学級委員会は月の第一、第三水曜日の放課後にあって、内容は季節によって様々だ。今日の議題は各クラスからのクラス報告と、もうじきはじまる夏休み前の委員会調整がメインだった。


(今日も暑いなぁ…)


夏特有の蒸し暑さが室内を満たす中で、誰一人として余計な言葉を呟かない。それが少し寂しい気持ちにさせるけれど、開け放たれた窓の外から聞こえる運動部の声だけが唯一そんな沈黙を吹き飛ばしてくれていた。横目に見つめる窓の向こうでは、空が青く、もこもことソフトクリームみたいな雲が浮かんでいる。わたしはパタパタと手をうちわ代わりに扇ぎながら、わずかな風を自分に向けて、ふと、2日前の出来事を思い浮かべていた。


(浦飯くんと、ラーメン食べちゃった)


声が出ていたら間違いなく弾んでいただろう。誰かに聞かれたわけでもないのに、わたしの顔は静かに熱を帯びていく。月曜日の放課後、いつものようにクラスの鉢植えに水撒きをする直前、特別授業を受けていた浦飯くんとひょんなことから話すキッカケができた。わたしは彼を知っていたけど、まさか浦飯くんがわたしを知っているなんて思わなかったから嬉しかった。何より、初めて見せてくれる笑顔だとか、外見とは裏腹の話しやすさだとか、それまで想像の中でしか知ることのできなかった彼の意外な一面を知って本当に驚いた。放課後付き合ってよといたずらに微笑んでみせる浦飯くんの表情。あの日もちょうど、こんな色をした空だった。


「それから、C組内でのHRで出た意見ですが―」


林さんのクラス報告が遠くの方で聞こえている。わたしのクラス報告をしっかり聞いていてくれた彼女の発表をきちんと聞かなくちゃ。そうは思うものの、不意に過ぎる一昨日の放課後の出来事のせいでなかなか上手く思考が働いてくれない。明日のホームルームで今日話し合ったことをクラスに報告しなくちゃいけないのに、このままではまずい。そう思って意識を掴むように前を向いた。すると、突然廊下から数人の騒がしい足音が聞こえて、それらが立ち止まると同時に会議室の扉がおもむろに音を立てて開いた。


「貴方たち、何事ですか!今は会議中…」
「あっ、いたいた!!さんちょっと!!」
「委員長!大変なのっ、浦飯くんが!!」
「え?」
「う、浦飯くんが、教室で他校の生徒と…」
「っ!」


他校の生徒と。やけに引っかかるのは、一昨日もわたしを不安にさせた言葉だったからだと思う。クラスメートの女の子たちがやけに眉根を寄せて慌てている。心当たりがありすぎて、わたしの背中には冷やりとした汗が伝った。委員会の途中だったけれど、わたしは立ち上がって失礼しますと呟くと、すぐに委員会室を出て教室へと向かった。さんっ!?という進行役の声もそのままに、わたしの前を走る女の子たちの背中を見つめながら、どうか自分の予感が的中しませんようにと願うばかりだ。普段ならこんな風に走ることのない廊下を、今は風を切るかのようにひたすら足を前に進める。階段も、踊り場も。気にすることなくただ、ひたすらに。ようやく見えてきた自分のクラスの前には、数人の人だかりが出来ている。わたしは見物人の間を割るように掻き分けて、無我夢中で教室の扉を開いた。


「・・・浦飯くんっ!!!」


張り上げるように出した声が震えていて、わたしは息も絶え絶えに彼の名前を叫んだ。けれど、教室の後ろで静かにたたずむ彼は、下を向いたままこちらを見ようともしない。代わりに飛び込んできたのは、彼の足元でうずくまりながら唸る4人の生徒と、粉々に割れた教室の後ろの鉢植えだった。


「くっ・・・・そ・・・」
「うらめ、し・・・テメェ…許さね・・・・」
「うるせえ。こんなんじゃ物足りねえんだよ」
「ぐっ…!!」
「!?う、浦飯くん!!もうやめて!!」


口元には笑みを浮かべているのに、その目は冷ややかで酷く鋭い。それは一昨日わたしを「委員長」と呼んでくれた彼とはまるで別人のようだった。机と同じ位置くらいに見える浦飯くんの拳には、赤切れした痕が数ヶ所見えている。その下の皿屋敷の制服ではない4人の、それこそ柄の悪そうな男の子たちを足蹴にしながら、浦飯くんはとてもつまらなそうに唾を吐いた。わたしはその姿を見て、初めて浦飯くんを怖いと思った。月曜日の放課後にもしもわたしが彼に会わなければ、彼は当然のようにこんなことをしてのけたのだろうか。今まで同級生の間でもいくつか噂はあった。けれど本当にこういう世界に足を踏み入れて、自分の危険を顧みず日常のように喧嘩を繰り返しているとしたら…。


「・・・・・」


粉々になった鉢植えの破片とこぼれだした土を見つめる。それは今日まで大切に育ててきたちいさな命の悲しい末路。彼はあの日、勘違いをして喧嘩を引きとめようとしたわたしの気持ちを「わかる」と言った。喧嘩になんかいってほしくないわたしの気持ちを、一瞬でも、理解してくれたんだって思っていた。あまり話をしたことのないわたしのことを知っていてくれて嬉しかった。気兼ねなく話せることも、何も言わずにじょうろを運んでくれたことも。好きでやっている水やりを「委員長は偉い」と褒めてくれたことも、放課後にラーメンを食べに連れて行ってくれたことも。ただ気まぐれで話しかけてくれただけだとしても、彼の世界が本当はそちら側なのだとしても。わたしは今の感情を抱き隠しながら、これから先、見てみぬ振りをして浦飯くんと付き合っていくことなんかできない。


「げほっ!!…っち、くしょ…」
「おら、とっとと立てよ」
「ぐふっ…げほっげほ…っ!!」

「浦飯くん!!」


自分でも驚くほどの大声に、ようやく浦飯くんが振り返った。涙が流れそうになるのをなんとか堪えながら、震える声で、足で、浦飯くんにつかつかと歩み寄る。瞬間、無意識に振り上げた手のひらは彼の頬を思いきり捉えた。廊下の窓から身を乗り出すように見つめる数人の生徒やクラスメートをよそに、パンと弾けるような音が響くと、同時に手のひらにもじんとした痛みが走る。すでに涙は止め処なく溢れていて、わたしは睨むように彼を見つめていた。せめて声だけは漏らさないようにと必死に結んだくちびるは、なんとも情けない形で口角が下がっていることだろう。でも、全部どうだっていい。こんなの、浦飯くんじゃない。


「・・・・・・委員長」
「・・・暴力な、て・・・最低よ・・・・っ」


ぽろぽろとこぼれていく涙が、彼の姿を霞ませる。その向こうで、彼が呆れたような、何かを訴えるような表情でわたしを見つめているのがわかった。どうしてそんな顔をするんだろう。わたしはじんじんと痛む左手とは反対の手で涙を拭いながら、これが全部夢ならいいのにと思った。けれど、手の甲には確かに濡れたような感触が残っていたし、足元に広がる惨劇も消えていることはなかった。土の間からはみ出した苗の根が、とても苦しそうで痛々しい。廊下のほうでは、委員長…とちいさくわたしを呼ぶ声がする。けれど、浦飯くんの視線はもうわたしには向けられてはいなくて、彼はかばんを手に取ると足早に教室を出て行ってしまった。教室の後ろの扉で見物していた隣のクラスの生徒たちは即座に道を作って浦飯くんから隠れるように目を逸らす。あぁ、なんだかなぁ。一連の出来事が、どうにも現実離れしていて状況が飲み込めなかった。


「委員長…だいじょうぶ?」
「・・・・うん、へーき。変なとこ見せちゃってごめんね」
「全然そんなことないよ!!」
「そうそう!!なんかかっこよかったよ委員長!」
「・・・・へへ、ありがとう」
「怪我はない?保健室行く?」
「ううん、大丈夫。心配かけてごめんね・・・」


散りじりに元の場所へと戻っていく生徒たちをよそに、わたしは浦飯くんの消えた背中を見つめていた。会議中に呼びに来てくれた女の子たちの心配する声がやさしくて、その間に騒ぎを知って駆けつけた先生たちがうずくまる他校の生徒を保健室へと連れて行く。腫れ上がった頬や目元に、目を瞑りたくなる。どういう理由であれ、その傷をつけたのが浦飯くんだなんて思いたくはなかった。わざわざ中学校にまで乗り込んでくる彼らも彼らなら、それを無視できない浦飯くんも浦飯くんだ。散らばった鉢植えの破片と土を、鎌田くんが神妙な面持ちで片している姿が目に入った。どうしてこんなことになっちゃたんだろう。頭の中にそんな言葉ばかりが渦巻いている。


大丈夫!?話聞いて部活抜け出してきちゃったよ!」
・・・・・うん、わたしは大丈夫。どこも怪我してないよ」
・・・・・?」


心配そうにわたしの顔を覗き込むの声がやけに遠かった。呆然と立ち尽くしながら、わたしはわたしのやったことは間違っていなかったと信じたい。握った左手の中には痛みと哀しみと、彼への思いが詰め込まれている。それなのに、浦飯くんの悲しげな顔が頭から離れないのはどうして。






(秘密のクラスメート 2 20090824)