思春期の三文字が混同していて、中学3年の一年間は特に、同じ毎日なんてただの一度もなかったのかも知れない。男の子は今よりもっとつっぱねてみたい時期だったし、女の子は異性にも同性にも敏感だったはずだ。それなりの個性を主張し合いたいのは当然で、けれど、自分はそのどこにも属せないごくごく平凡な生徒だった。このクラスのいいところは、そんなわたしにさえ存在価値を見出してくれるところ。


「委員長バイバーイ!」
「今日課題見せてくれてほんと助かった!ありがとさん!」
「また明日ね委員長!」
「うん、みんなまた明日!気をつけてね」


授業中黒板に書かれた文字を消していきながら黒板消しを専用クリーナーで掃除していると、残っていた3人のクラスメートたちも大きく手を振りながら帰路に着いた。扉が閉まるまで振り続けていた手を下ろすと、わたしは再びクリーナーの電源を点ける。掃除機のような機械音を発するそれに黒板消しを左右に平行させながら、早いとこ仕事を終わらせて自分も帰ろうと考えていた。


「今日はプールもあって疲れたな…」


誰もいない教室で呟いた言葉はクリーナーの音に掻き消される。ある程度綺麗になった黒板消しを確認し、念のため窓の外で二、三回ぱんぱんと叩く。すると、さっきまで教室にいた3人が「委員長ー!」と下から声を上げているのに気付いて、思わずわたしも大きく手を振り返した。見た目が派手で一見話しかけづらそうな子たちだけど、中身は比例していない。気前と愛想のいいその背中を見送りながら天を仰ぐと、グラウンドから聞こえる運動部のかけ声が響く空はたっぷりと青さを含んでいる。その色が今日使用したプールの色にとてもよく似ていた。


「今お水入れてくるからね」


窓を閉めると、今度は教室の後ろに置かれた鉢植えへ水を撒くことにした。呟いて、鉢の隣に置かれているじょうろを手に取る。水やりは日直の仕事ではなくいつの間にかわたしの仕事になりつつある。花は好きだったのでこの当番を苦に感じたことは無かったけど、水を入れてからの、水道から教室までの道のりは結構大変だったりする。部活以外もうほとんどの生徒が帰ってしまったのだろうか、廊下に出ると人気や物音がまるでなかった。しんと静まる放課後の廊下は窓から差し込む光のせいかとても神秘的な光景に見えて、わたしは気持ち足早に水道まで歩くと、階段に差し掛かったところで奇妙な音が近付いていることに気が付いた。ペタペタペタペタ。張り付くような足音が階段を上る音。


「あれ、委員長じゃん」
「う、浦飯くん!?」


蛇口を捻ったその瞬間、聞き慣れたクラスメートの声がわたしを呼んだ。振り返ると、ペタペタと足音を鳴らしていたのは浦飯くんで、制服の下だけを穿いていて上半身は何も身に着けていない状態だった。首からタオルをぶら下げて髪の毛には数滴の雫が付いている。予想もしない彼の格好に思わず赤らんだ頬が憎い。何より、お互いそこまで話したことは無かったはずなのに、浦飯くんがわたしを「委員長」と知っていてくれたことが嬉しかった。


「何してんだよこんなとこで。そーじか?」
「浦飯くんこそ…その…っ、は、裸で…」
「あぁこれ?授業サボったのバレちまってよ。居残りってやつ」
「え、あ、そうだったんだ。プールで泳いでたのね」
「そーそー。って何赤くなってんだァ?もしかして委員長、エッチな」
「わー!!ち、ちがうちがう!!どうして裸なのかなとは思ったけど!!」


からかわれて思わず声が上擦った。浦飯くんはイヒヒヒと悪戯な笑みを浮かべている。じょうろに水が張るのと彼を交互に見やっていると、浦飯くんがガシガシと頭を拭きながらわたしの隣に立った。彼がこんな風に笑うことも、気兼ねなく話せる人だということも当然のことながら今、初めて知った。普段はあまり学校に来ていなかったり、来ても授業を抜けていることが多いのか教室で見かけることは少ない。生徒達の間では色々な噂や憶測が飛び交っていたけど、そのどれもが信憑性に欠けていて信じたことはない。たまに彼が教室に来れば竹中先生やクラスのみんなが彼を慕っているのは火を見るより明らかで、小さなことを気にしない豪快な性格と人前では見せない繊細さがある彼を、きっと皆うらやましいと思って変な噂を流したがるんだろう。かくいうわたしだって、彼の奔放さに惹かれる一人だった。もちろんこんな話を誰かに話したことはない。


「じょうろ?」
「あ、うん。教室の鉢植えにお水をね」
「へえ…委員長そんな仕事も任されてんの?」
「任されてるわけじゃないよ。自分が好きでやってるような」
「偉ぇのな。もうほとんど帰っちまったっつーのに」


浦飯くんは髪の毛を拭きながらそういうと、わたしの隣に立って何も言わずにじょうろを手に取った。そのまま教室に運んでくれようとする浦飯くんに一瞬遅れながらありがとうと口にすると「ん」と口を結びながら彼が笑う。髪の毛から滴る水滴が塩素の匂いで鼻をつついた。彼がついさっきまで広いプールで泳いでいたのが想像できる。濡れているせいで下りている髪がいつもの彼より少しだけ雰囲気を柔らかくしている気がして、幼さが見え隠れする浦飯くんにわたしの心臓は素直すぎるくらいドキドキした。じょうろを軽々と持ち歩く手や腕が細く引き締まっていてやっぱり男の子なんだなぁと思わずにはいられない。不良とくくってしまえば簡単だけど、わたしの中の浦飯くんはいつだって一人でみんなを抜いている気がした。クラスメートの知らないところでどんどん成長して、いろんなことを経験している人に思えた。


「よっと」
「浦飯くんありがとう。重かったでしょう」
「こんくらいどってことねーよ。んなこと言ったら委員長だってその細ェ腕で毎日運んでんだろ」


じょうろを手渡しながら、何食ったらそんな細い腕になんだ?と考える振りをする。その仕草がおかしくて、お世辞でも嬉しい彼の一言にありがとうと返した。すると浦飯くんは満足そうに小さく微笑んでから、自分の机の隣で着替え始める。早く着替えたかっただろうか、風邪を引かないだろうかなんて考えが頭を過ぎるけど、そんなことでお礼を言えば、きっと浦飯くんは拍子抜けするはずだ。彼は、自分がいいと思ったらそれを貫いて生きているはずで。浦飯くんがじょうろを運ぶと決めたのだから、そんなつまらないことでお礼を言うのは少し違っている気がした。


「委員長」
「は、はい!」
「…くっ。いい返事だな」
「も、もう…!からかわないでよ」
「だってスゲーいい返事が返ってくっからよ」
「急に呼ばれたからびっくりしたんです…」
「悪ぃ悪ぃ。あのさぁ」
「うん?」
「オレこれから他校の奴と喧嘩しに行くんだけど」
「け、喧嘩!?」
「そーケンカ。でさぁ」
「ちょっと待って浦飯くん!!」


わたしはあと少しで撒き終えるじょうろの水を確認しながら、言葉を続けようとする彼に制止の声を上げた。もたつく水の出具合に少しだけイライラしたけれど、浦飯くんが、わたしの世界からあまりにかけ離れた文字ばかりを並べるので、そんなことどうだって良かった。


「け、ケンカは、だめ、です!」


じょうろを置いて一呼吸、精一杯に出た言葉がそれかと自分でも思う。説教染みたことなんて何一つ聞きたくないだろう彼に向かって、それでもわたしは彼に、浦飯くんに喧嘩なんかに出て行ってほしくなかったから。同時に、本当に自分を貫いて生きている人だなと思った。喧嘩だなんて自らしに行くことは生涯無いだろうわたしにとって、恐怖や怒りよりも好奇心が勝っているような表情を向けられてとても戸惑ってしまう。でもこればっかりは譲れない。事が起きてからでは遅過ぎで、なんで彼を食い止めなかったんだと後悔するのは目に見えていた。


「怪我したら大変だし…、それに」
「あーちょい待って委員長。話には続きがあって」
「え?」
「委員長の言いてぇことはわかる。でも今日はそうじゃなくて」
「うん?」
「喧嘩してぇ気分じゃねえから、委員長放課後付き合ってくれよ」
「え…うん…?付き合うって…」
「飯食い行こうぜ」


冗談交じりのウインクをしながら、浦飯くんは自分の鞄を手に取った。その瞳がとても嘘を言っているようには見えなくて、わたしは思わず首を縦に振る。すると浦飯くんはわたしに帰り支度を促して、居残りでプールなんかやるもんじゃねえなと言った。どうやら居残り授業、もとい、居残りプールのおかげで喧嘩する気が逸れたらしい。夢みたいな彼からの言葉に再び鼓動を早めると、校内をブラついていた彼を見つけ出し、きっちりプールの授業だけでも受けさせた竹中先生に多大なる感謝をしつつ、浦飯くんに気付かれないようわたしは急いで鞄を手に彼の元へ走った。


「んじゃ行きますか」
「はい!」
「おっ、いい返事」


放課後の誰もいなくなった廊下に笑い声が響く。これは後になってわかったことだけど、本当は、水やりをするわたしの背中があまりに楽しそうだったから喧嘩する気が逸れたんだって彼は言った。そんなことに気付くはずもなく、このときのわたしはわかりやすいくらい顔に幸せと書いてあっただろう。こんな風になれるなんて思ってもいなかった。水やりがわたしだけの当番で本当に良かったと心底実感しながら彼の隣を歩く。プール色の空だけがわたしたちを見つめていた。









(秘密のクラスメート 1 20090423)