「結婚したいなー」


が突拍子も無いことを言い出すのはそう珍しいことじゃない。というか、普段から、基本的に、は可笑しい。だからが可笑しいからと言って今更気に留めてうんざりすることでもないのだと、オレはそこまで丁寧に考えてから、やっぱりうんざりした。はペンに比べて明らかに大きすぎるクッキーモンスターのマスコットのついたシャーペンを唇に当てて唸っている。ん?クッキーモンスター…だよな?青いし、茶色い物体を手に持ってるし。確かそういう名前だったはずだ。ちなみに赤いやつがエルモで、黄色いやつが…なんだっけ?何でもいい。ほんと、どうでもいい。

一体今日は何を思い悩んでばかを語るのか、と遠くを見やるつもりで窓に視線を投げたけれども、空調の整った教室内と冷たい11月の外とを仕切る窓にはちいさな水粒がぎっしりで、外の景色は見えやしなかった。から目を逸らそうとそっちを見たのに、そんなふうに結露した窓の端っこに、が指で描いたネコが一匹すごい笑顔でこっちを見ているのに気づいてしまい、余計にうんざりした。きっとこのネコは結露が取れて窓がすっかり乾いても跡になってここに居続けるのだろう。


「ねえ凍矢。結婚したいねえ」
「あーもう聞こえてるよ」
 
 
オレが聞こえない振りをしていると絶対分かってるくせに、は耳の遠い人にそうするように大きく口を動かして、はっきりと先ほどのあほ発言を繰り返した。その動きから身を引いて、ついでに椅子も引く。がががとぎぎぎ、の中間のような音を立てて、椅子の足が教室の床のワックスを削った…気がした。毎学期塗りなおされているのになぜか教室のワックスはいつのまにか剥がれてしまっている。きっとこういう動きをしたときに剥がれるに違いない。と、これは勝手なオレの想像に過ぎないが。
 
 
「聞こえてる、けど、それについてオレはどんなリアクションを返せばいいんだ。彼氏が欲しいならまだ分かるけど」
「凍矢、あのね、人は誰に強要されること無く、自分の思ったままを言う権利があるんだよ」
「何さり気なくちょっと賢いこと言ってんだよ」
「公民かなんかでそういう思想?かなんかを習った、ような気が…」
「あやふやだな…。折角学校に居るんだからもっと学べよ」
「あーうん、いろいろ学んだよ」
「木製の固い机で眠るベストな体勢とか?」
「そうだね、黒板を消すときのテクニックとかね」
 
 
オレがふざけて言った言葉には真顔で答える。本気か。お前がこの学校で学んだことは、本気でそれだけなのか。はぺたんと上半身を机に倒して、どこからか取り出した『小梅』のキャンディを一握り差し出した。 いる?と視線で問うので「サンキュ」と言って一粒貰う。とオレとでキャンディの包み紙を開くぱりぱり言う音が人のまばらな教室ではやたら大きく聞こえる。
 
 
「ああ、嫌だなあ。進学とかしないで、一生女子高生で居たいのに」
「…何だよ、、急に」
 
 
は奥歯で『小梅』をがりがり噛み砕いて呟く。忙しないやつだ。飴玉なんだから溶けきるまで舐めてりゃいいのに。そんなふうにはいつもどおり可笑しい。だけどいつもとはどこか違う、あくまでも気がする程度だけど。はクッキーモンスターのシャーペンを足元に放り出した。クッキーモンスターはしかし床に転がることは無く、口を全開にして床に置いてあるかばんの中に落下した。


「言ったらたぶん凍矢は笑うよ」
「いいじゃないか笑ったって。笑うとガン予防になるし」
「え、マジで?」
「そうらしい」
 
 
殊の外そのトリビアが新鮮だったらしく、は倒していた首を上げて真剣にオレを見つめて驚いた顔をした。すごーい知らなかったー、としきりに呟いている。
 
 
「…ちがーう!結婚の話をしてたんだよ」
 
 
そのくせ、何か思うところがあったのか、突然そんなふうに叫ぶ。は理由を言ったらオレは笑うと言ったが、一体何をそんなに考え込んでいるというのだろうか。すこし気になった。
 
 
「で、何があったよ」
「…笑わない?」
「笑わない。がそんなに真剣になってることを笑ったりはしないって」
 
 
あんまりにもあんまりだったら、笑うかもしんねーけど、とオレが言うと、は恐らくすでに欠片になっているだろう『小梅』をさらにがりがりと噛み潰した。噛まずには居られないらしい。はすうっと片手を伸ばして、指先が届いたぎりぎりのところにあるオレの左手の袖をぎゅっと掴んだ。にそうされて、の掴みやすいように腕を差し出すのも、引っ込めるのもどちらも変な感じがして、無意識にオレは妙に身体を動かさないように緊張した。
 
 
「あのね、まだ11月の半ばなのは承知なんですけどね、」
「…クリスマスか?」
「…もうちょっと先……」
「んー…バレンタイン?」
「いやいや、そうじゃなくって…」
「?」
 
 
は言いにくそうに顔を伏せて、
 
 
「卒業したくないなあと、切実に思ったわけですよ」
 
 
と言って、瞬間がばっと顔を上げた。そしてオレの顔を凝視する。オレはというと…確かにあんまりにもあんまりに、予想外ではあったの言葉に面食らってはいたが、笑っては居なかった。はじっとオレの顔を見つめて、オレがちっとも笑わないのを確かめて、それからやっと止めていたらしい息をはあと吐いた。
 
 
「よかった。凍矢、笑わないんだね」
「笑わない…けど、」
 
 
びっくりした。
確かに暦の上では卒業式は3月のことで、それほど遠いことではないけれど、まだこの後には学年末テストも冬休みもバレンタインも大掃除もある。毎日がぎゅうと詰まっているから正直のように切羽詰った気持ちには、の切実な訴えを聞いた今でもならなかった。はぎゅっとオレの袖を掴む力を強くして、あくびを噛み殺しながら少し笑う。
 
 
「この休み時間が永遠に続けばいいのになあ」
 
 
はほんとうに苦しそうにそう言った。きっとは卒業式で枯れるほど泣くんだろうな、とオレはふと思う。オレにとっての卒業式は、まだ薄ぼんやりしているし、日にちが近づくにつれ輪郭がはっきりしたとしても、生徒会の仕事や副会長としての式の練習や挨拶なんかもあるから、には悪いが印象はどこか事務的な感じがする。もちろん泣きじゃくる連中を見てればオレも少しは泣く…のかもしれないけれど、それでも実感はまだ、湧かない。オレととでは見えている景色は全く違うのかもしれない。
 
 
 「どーせ永遠に続くならもっと別の時間で望めばいいのに」
 
 
寒い冬の午後のなんでもない休み時間じゃなくて、例えばクラス全員で行ったバイキングだとか、修学旅行だとか。オレがそう言うとは顔を上げてにやりとして、
 
 
「わかってないなぁ凍矢は。こういうなんでもない一瞬が大事なんだよ」
「知った口聞きやがって」
「通はね、そういう一瞬を大切にして生きるのです。凍矢も通を目指せよ」
「何の通だよ」
「女子高生の通」
「なんだよその変態の称号みたいなのは。あとオレは女子じゃないから」
 
 
は大口開けてからから笑った。『小梅』はすっかり無くなったようだ。一度も噛み砕かれていないオレの『小梅』は未だにほっぺの奥にあるけれど。
 
 
「あは、でも、一瞬が積み重ならないと価値は無いから、永遠に一瞬が続いてもダメだね…ん?」
「…は?」
「あれ?ごめん、今自分でも何言ってるかよくわからんかった」
「なんだそれ」
 
 
慣れないこと考えてるからだ、とオレは笑った。の言いたいことは何となくわかった。だけどオレもうまくは説明できそうに無いので口には出さないで置いた。言葉にしないでも通じたからそれでいいのだ。笑いながら、がオレの袖を掴んでいるのを忘れて、オレは思わず左手で髪の毛を掻き揚げてしまった。まだ頭をひねっているの手が一瞬宙ぶらりんになって、そのまま机に落ちた。はそれを対して気に留めていない…というか、気にしてすら居ないようだったけれど、オレにはなぜかの手を振り払ったように思われてやしないかと、やたらと気になった。

だけどやっぱりはさして気にした様子はさっぱり見せずに身体を背もたれにそらせて、両手を頭の後ろで組んだ。気にしたのはオレだけか…と思うと、なんだか無駄に悔しい。オレは偶然を装っての足を軽く蹴ってやった。それでもは気づかない。もしかしたら、のなかの何かに必死で、気づく余裕が無いのかもしれない。
 
 
「さて、話を戻そっか」
「どこまで?」
「結婚の辺りまで」
 
 
話がいつまでも終わわないなとオレが言うと、ははっとして「さっきの時間が永遠に続くとしたら、やっぱり話題もループするのかなあ」と声を出した。…やっぱりこいつは何にも考えてない気がする。ため息をついて視線を逸らすと、例の窓のネコが笑っているのが目に入った。だらしない口元は笑顔のままだけど、集まった水滴が流れてところどころが崩れている。特大きくぐるぐる描かれた目玉は、下に水の流れが出来て、まるで泣いているようにも見えた。そんなふうに見えてしまうなんてオレも大概どうかしてる。特にと一緒に居るときには。
 
 
「永遠ついでに、また飴玉食べる?」
 
 
は机の中に手を突っ込んで、また『小梅』を一握り差し出してきた。そうか、そこに入れてたのか。オレの返事を待たずには自分の分の包みを剥いて口に入れる。の口の中はもう空っぽだから次が欲しくなったのだろう。
 
 
「いや、オレはまだ残ってるから」
 
 
オレが口の中を指でさして遠慮するとは目を丸くした。そうやって飴玉を意識して、オレは自分の口の中で飴玉が真っ二つなのにやっと気づいた。いつの間にかオレも歯を立てていたらしい。全然気づかなかった。それからまた何かを言おうとするの声を遮ってチャイムが鳴って、オレたちの短い永遠はとりあえず終わりを告げた。







11月の氷点を貫く 2009/11/25