昨夜はそれなりに暖かかったはずの室内の空気も、11月ともなれば朝には冷えきっている。まどろみの中、暖かな布団の中に頭まで潜ろうとするのを咎めるように目覚まし時計が鳴った。


「ん………う…るさ…」


ピピピ、という電子音に顔を顰めながらオレは腕を伸ばしアラームを止めた。片手に目覚まし時計を掴んだままもう一眠りしてしまいそうなのを堪え起き上がる。ぐっと伸びをして身体をほぐしながら現在時刻を確認した。いつもの起床時間より20分ほど早いのは、自分で朝食の準備から何から済ませないといけないから。


「…目覚ましで起きるのは久し振りだな」


カーテンを開けると、眩しい光が独りきりの部屋を満たした。




電気やガス、戸締まりを確認して家を出る。1年半ほど前までは当たり前だったそれらの事が何故かとても新鮮で、奇妙にさえ感じる。味気ない電子音で目覚める事も、適当なもので済ませる朝食も、もう忘れてしまっていた。朝になれば心地良い声で起こされてキスをひとつ、朝食は豪華ではなくても好きな物が用意されて。いつも「いってらっしゃい」と送り出してくれる人物は今頃青い海を眺めながら友達と朝食をとっている頃だろうか。は昨日から卒業旅行で沖縄へ行っている。大きなバッグに荷造りをしている姿はとても楽しそうで、思わずこちらも笑顔になった。



『わたしがいないと淋しいだろうけどさー、まぁ4泊したら帰ってくるから』
『オレはお前が来るまで一人暮らしをしてたんだぞ』
『またまたぁ!ホントはもうわたしがいないと淋しくて夜も眠れないくせにィ!』
『・・・・・幼稚園児かオレは』



冗談でが言った言葉を昨日ベッドに潜り込んでから何度も思い出していた。実際、普段は隣にあるはずの温もりが無くてなんだか落ち着かない。


「重症だな…」


北風に呟きを溶かし、職場へ急いだ。








短いようで長かった4日間が過ぎ、今日はが帰ってくる日だ。旅行中、毎晩掛かってくる電話で今日は何を見に行った、何を食べたと声を聞き、こちらは別に変わりは無いと強がる度、自分がどれだけに安らぎを与えられているかを思い知った。電話を切ると途端に静まり返った部屋が「独り」を実感させる。独りでいる方が仕事は捗るだろうという考えはあっさり裏切られ、落ち着かない自分の中に一体いつの間にこんなにもの存在が当たり前になったのだろう。


「ん?もう帰ってるのか」


自宅マンションの前で立ち止まり、部屋を見上げればリビングには明かりがついていた。やっと戻って来た日常にホッとして頬が緩む。と暮らす前までは当たり前だった。「ただいま」を言っても誰も応える事のない暗い部屋に帰るのは、今のオレにとって既に『日常』ではないのだ。ドアを開けると、流れ出て来た空気はとても暖かく感じられた。


「おかえり!」


こちらが口を開くより早くが玄関まで出て来て、欲しかった言葉をくれる。たった数日間なのに、電話でしか聞く事の出来なかった声は身体に染み入るようだった。一人暮らしをしていた頃は帰宅しても「ただいま」なんて言う返事はなかった。「おかえり」と言ってくれる人がいないのだから。でも今は違う。オレの帰りを待っていてくれる人がいる。もうそれは当たり前の日常として慣れてしまったことだけれど、なんて幸せなことだったんだろう。


「ただいま。もお帰り」
「ただいま。今ちょうど荷物片付け終わったの。すぐゴハンにするね」


柔らかな笑顔と、暖かいシチューが職場での疲れを吹き飛ばしてくれる。





「でね、大きな荷物は明日あたり届くんだ。お土産もそっちなの。お母さん達のと…」


日付も変わろうとする頃、部屋の明かりを落としてもの話は尽きない。布団に口の辺りまで潜り込んで、くるくると表情を変えながら楽しそうにこの数日間の話をする。まるで、遠足を翌日に控えた興奮でいつまでも寝付かない子供のようだ。


「…まだ旅行中のテンションを引きずっているみたいだな」
「え?あ、分かる?いやー、だってすっごい楽しかったんだよ」


呆れたように言ったオレにはそれこそ無垢な子供のように笑った。4日振りに家に帰って来て隣に寝ているこの状況、一体何だと思っているのか。少しだけムッとして、その身体を抱き寄せると一瞬にしてピク、と身体を強張らせ口数が減る。腕の中で、こちらの出方を窺うようにそっと顔を上げるの唇を塞いだ。息をつく暇も与えない程何度も深く口付けると、苦し気に吐息を零し、オレの腕を掴む。数日間の空白を埋めるかのように繰り返しキスをしてしばらく、唇を解放すると2人の視線が絡み合う。オレはもう一度、自分に新たな『日常』をくれた温もりをきつく抱き締めた。


「凍矢…?」


濡れた唇も、潤んだ瞳も、紅潮した頬も、乱れた呼吸も。理性の壁を壊すには十分な程オレの欲を誘うのに。ただ抱き締めて、腕の中で確かに脈打つ鼓動を肌に感じるだけでこんなに満たされるなんて…。ぴたりと寄り添った胸に感じる規則正しい心音は、妙にオレを安心させる。これじゃあまるでオレの方が小さな子供のようだ。


「…どうしたの……?」


あれだけ求めておきながら、抱き締めたきり何もしないオレにどこか不安げにが問いかける。オレは腕の力を緩め、髪を梳くようにの頭を撫でると布団を肩まで掛け直した。


「今日はここまで。疲れてるだろ、早く寝ろよ」
「え…」


驚いたようにオレを見つめ返すから、わざと耳元で囁いてやる。


「・・・して欲しい?」
「ばっ・・・!違う、そんな意味じゃ…!」
「明日な」
「ばか!わたしは別に…もう!」


先程とは違う要因で顔を赤らめ、慌てて反論するのをハイハイと手で制してオレも布団に潜り込んだ。しばらく隣からブツブツ文句が聞こえていたけれど、ふいに静かになりスウェットの袖がクイ、と引かれる。少しだけ首を動かし暗闇の中視線を合わせると少しの間を置き、が問いかけた。


「わたしがいなくて淋しかった?」
「………」
「ねぇ、凍矢」


暗くてハッキリ顔が見えないとはいえ、真直ぐ目を見て言える筈が無い。オレはくるりと背を向け、呟くように答えた。


「……………少し、な」


その返事が聞こえたのか聞こえないのか、背中にぴたりと寄り添う温もりを確認するとオレは静かに目を閉じた。久しぶりの安眠をここぞとばかりに貪って、夢の中でだって今夜はを離さないつもりだ。






ふたりという意味 2009/08/11