男と女の境目なんてこれっぽっちも感じてなかった平穏な毎日は、ふいに成長期や思春期という言葉で一掃してしまって代わりに残るものはわけのわからない意識だった。これが何かと厄介で、一度感じてしまえば馬鹿みたいな態度をとる。けれど、さすがに高校3年にもなればまたやんややんやと男女は仲良く過ごせるものだから、あの不思議な時期は一体何のためにあるのだろう。あくまでこれはその関係性に特別意味を持たない男女の場合のみで、恋の芽生え、もしくは何年も話していなかった幼なじみに限っては別の話なのだけど。


「おーい修羅ァ、HR終わったぞ。帰ろうぜ」
「…オレ今日委員会」


げっそりと起き上がる。彼は、とても陰鬱そうな表情を友達に向けて一言そういった。マジかよ終わってんな。委員会に属してしまったが為にこの世の終わりのような返答をされて、彼らは互いにひらひらと手を振って教室を後にした。男の子って面白いなぁなんて二人の会話を盗み聞きよろしく黒板を消しながら耳にしていたわたしも、かく言うこの世の終わりを宣告される立場にある園芸委員会所属。はぁ、と抑えのきかないため息が漏れて、わたしはぱんぱんと二度手を叩いてから鞄を手に取った。


「早く終わるといいなー…」


夕日に照らされる教室で呟くと、開いていた窓からは下校で忙しない校門前の生徒たちの声が聞こえてくる。修羅、とたったさっきまで同じ空間にいた幼なじみの名前が頭の中で木霊していて、小学校の卒業以来あまり話すこともなくなった彼が、中学の枠を飛び越えていつの間にか高校3年生の男の子になっていたことに驚いた。同じ高校に入ったという噂は未だに仲のいい親同士の話で聞いていて、それでも同じクラスになるまで修羅を修羅だと気付くことができなかった。生意気で、いつも黄泉パパを困らせていたわんぱく坊主がまさかこんな風に変わるものかと思っていたから。クラスで見る修羅は友達も多くて、そりゃ高校3年生なりにやんちゃなことをしたりもするけど。…なんだか通信簿みたいな意見だ。


委員会開始まで10分前を示す時計を一瞥してからそっとお腹に手を当てると、月に一度だけ迎える、あまり体調の優れない日に重なってしまったものだと項垂れる。それでも5時間目の後に飲んだ薬は継続して痛みを和らげてくれていたので幾分楽だ。全校生徒のうち何人がその活動内容を知っているのか疑問に思う委員会へ向かうことにすると、遠くのほうでブラスバンド部のサックスが軽快な音を鳴らしているのが聞こえていた。












「…もー、やだ…」


時間が進むのが遅く感じるときというのは、たいてい自分自身がそのときを楽しめていないか、その先の楽しみを待っているかのどちらかだ。わたしの場合、今日は紛れもなく前者でその原因でもある箇所をやさしく撫でた。薬の効果が切れてしまったのか、委員会の間中、気分が最悪でずっと俯いていたのは言うまでもない。委員会や部活動以外でもう誰もいなくなった廊下がいつもより何倍も長く感じられて、わたしは設置されている手すりに掴まりながら必死に階段を上ると額に妙な汗が滲んで来るのがわかった。これはまずい。早く帰ってホッカイロでも貼って早いとこ眠ってしまいたい。


頭では家でくつろぐ自分の姿が浮かんでいるのに、現実の足取りは悲しいくらいに遅い。昇降口を前にいい加減耐え切れなくなってその場にしゃがみ込むと、力を抜いた手から鞄が落下した。少しだけ貧血も起こしていたのかくらくらとしていた頭がだいぶ楽になっていくのがわかる。


「あー…すごい楽…」



疑問形ではなく確信を持った声音がわたしを呼ぶ。それだけで近付いてくる足音が誰のものかわかって、もしかしたら今いちばん会いたくなかったかもしれない人物に来るな来るなと心の中で念じた。けれどそれは何の意味も成さない。


「立てるか?」
「うん…。でももうちょっとこうしてたい」
「きついんじゃねーの」
「大丈夫。あとちょっとだけ」
「そうかよ。じゃあ待っててやる」
「え?」
「えじゃねえよ」
「修羅だって委員会だったんでしょ?」
「まぁな。終わってんなって伊崎に言われた」
「……ぷっ」
「(ぷ?)」


黒板を消しながら聞いていた伊崎くんと修羅の会話が思い出されて、なんともいえない二人の弾まないトーンに思わず笑ってしまった。修羅は、立ったまま何笑ってんだよと小さく呟いている。なんでもないよと落ちっぱなしになっていた鞄を手に取ると、すでに昇降口の外では夕闇の世界が広がっていた。きっと野球部や陸上部あたりがまだグラウンドにいるんだろうなぁなんて考えていると、ふいに差し出された大きな手がわたしの視界を遮った。


「ほら、」
「…手、大きくなったね」
「は?」
「だって、ほら昔はこんなに小さかったのに」
「そんなんお前もだろ」
「修羅ほど大きくないよ!」
「はぁー…。あのなぁ、当たり前のことを言うんじゃねえよ」
「だって、本当に。修羅が男の人なんだもん」


首だけを上に向けて修羅に話しかけると、修羅は一度だけバツの悪そうな顔をして遠くを見つめた。そんなこと言ったらお前だって、女だろ。すごく恥ずかしそうに呟いた声が廊下に響く。高校3年生の修羅を焼き付けるようにじっと見つめたら、今度はわたしと同じように地べたにしゃがみ込んで不良少年のように座る。やっぱり、どの動作をとってみても修羅はもうすっかり男の人なんだ。


「…修羅がいうとなんかエッチ」
「健全な証拠だろ」


そういうとふざけたように笑う。わたしもつられて微笑むと、そういえば久しぶりに話したことに今更ながら気付いた。意外に意識せずに話せるものだと感心しながら、生意気なところは相変わらず昔のままだと安心する。あの頃のわたしは初潮さえ迎えていない女の子だった。修羅もきっと健全の意味さえ知らない男の子だったんだろう。境目はとうに越したのだ。お互いに意識せず気付かぬままに。お腹の鈍い痛みも忘れてしばらく話し込んだ後、小学校ぶりに彼と帰路に着くと、なぜだかわたしは新しいものを見つけた子供のように次の日が楽しみで仕方なかった。






過ぎ去った少年 2009/03/30