嫌だなぁ、と思う。抱きしめた肩越しに見えるデジタルの時計の緑色の数字で時間の経過を知って、嫌だなぁ、と。あと五分もしないうちにこの人は自分の居場所に帰ってしまう。たとえばどこを拠点にしているかわからないアジトへ、豪奢で優雅なホテルの一室へ。あるいは彼を待つ仲間たちの元へ。それからもしかしたら、わたしの見たことのない戦場へ。時間はどうして過ぎるのかな。日付はどうして変わるのかな。時なんて進まなければいいのに…せめてこの部屋の中だけは。わたしと仙水さんを取り残して地球だけがくるくる回ればいい。わたしはそれで一向に構わない。

時間よ、止まれ。


「どうした?」


寒いのか?そう仙水さんの手のひらがわたしの頭を包む。こんなにあたたかい手のひらに触れられて、寒いわけがないよ、と幸せな気持ちに満たされながら、しかしわたしは額を彼の肩に押し当てるようにして「うん」と答えた。わがままを言ったら仙水さんがまだずっとここに居てくれるような気がして。彼を待つたくさんの人から彼を取り上げて、独り占めして、まだ足りないって思うなんて、わたしはなんて欲張りなんだろ。あーあ、なんか、わたし、死んだら地獄に堕ちちゃう気がする。わがままばっかり言ってるし、嘘もつくし、心弱いし…。特に最近は、仙水さんに依存しすぎな気がする。仙水さんはわたしだけの仙水さんじゃないのに。


「もう冬になろうって時期に、いつまでもそんな格好をしているからだ」
「そんなに薄着じゃないんだけどな」
「だがせめてもう一枚コートを羽織って来て欲しいな。オレに逢いに来たがためにが風邪でも引いたら、見舞いに行きにくいだろう」
 
 
そういう甘いことばを切実に口にすることができるのは、世界中で仙水さんただ一人だとわたしは確信している。ほかの人間ではこうはいかない。演技っぽくなったり、うそ臭くなったり、嫌味になったりしてしまう。仙水さんが口にしたときにだけ、言葉たちはもともとの意味のまま相手に伝わるのだ。慈愛と配慮が丁寧にわたしに染み渡って、まるで言葉にも温度があるみたいに胸が熱くなった。仙水さんが教えてくれた、ふしぎな感覚だ。


「…それなら、仙水さんにお見舞いに来て欲しいので、コート、ちゃんと着ます」
「つまり、結局は風邪を引いてしまうわけか?」


わたしの軽口を受けて、仙水さんはわたしの頭を自分の胸にやさしく抱き寄せた。仙水さんの胸に額をぎゅうっとおしつける。仙水さんの心臓の音がとくんとくんと聞こえた。仙水さんは生きている。すてきなことだ。
抱き寄せられるのは好きだし、仙水さんはもっと好き。だけど、別れ際の抱擁は嫌いだ。仙水さんの腕はいつもと変わらずいとしいのに、最後の抱擁だけはなぜかどこか物悲しくて、すぐわかる。女の勘というやつだろうか。あぁ、わたしも女の端くれだったんだなぁ、なんて、現実逃避のためかばかなことを考えてしまう。やっぱりわたし、風邪引かない気がする…ばかだから。


やんわりと仙水さんの身体が離れた。きつくきつく抱きしめられていた首や肩や背中や、腕や胸やおなかに仙水さんの身体の感触がはっきり残っていて、離れてしまった仙水さんを求めているみたいにじんわり痺れるような感覚になる。せつない、とからだが啼く。真摯な仙水さんの瞳が「さよなら」を別の甘い言葉に変えて伝えようとしているのがわかって視線を逸らすと、彼の後ろにたたずんでいた日付をまたいだデジタル時計とばっちり目が合ってしまった。そんなの、言われなくたってわかってる。時計から逃げるように再び仙水さんを見ると、開きかけた仙水さんの唇に気づいた。その唇からこぼれ落ちる言葉がどんな意味のものかわたしはすぐに悟る。


「いいの、だいじょうぶ。わかってる」


ああ、嫌だな、と再び思ったときには、思わず手のひらで彼の口を覆って言葉をさえぎってしまった後だった。それからはっとして、「失敗した」と反射的に頭の中で地団駄を踏んだ。それは言葉をさえぎったことに対しての後悔じゃない。人差し指だけで軽く唇を押さえたほうがセクシーだったな、という後悔。まったくわたしは子どもで困る。


「…わかってるから、」


仙水さんはしゃべろうと思えばしゃべれるはずなのに、律儀に黙ったままで居てくれる。何も語らない仙水さんの瞳はひたすら優しい。わたしは自分自身のばかばかしさに耐えられなくて、軽くうつむいた。デジタル時計も彼の視線も、二人の足元には届きはしない。仙水さんが、彼の口をふさぐ子どもっぽいわたしの手首をつかんで、そっと顔から離した。


は聡いね」


わたしの手の甲に仙水さんの唇がそっと触れる。何度も。いいなぁ、こういうしぐさ。わたしもこんなふうにできたらいいのに。仙水さんの手の甲に何度もやさしいキスをできたら。そっと愛情を込めて、しかも大人っぽく。…無理かな。


「わかってしまっていても、言わせてくれないか?」
「………」


さよならなんか聞きたくなかった。だけど、切ない別れの言葉を仙水さんがどんなふうに甘く飾るのか知りたくて、わたしは仙水さんの瞳を見つめてうなずいた。最後の最後まですてきなことばをくれるに違いないと思って。


「愛しているよ」


彼の唇が紡いだのは、わたしの予想を裏切った装飾の一切ないシンプルな言葉だった。だけどどんなほかの言葉よりも甘い。砂糖よりはちみつよりメープルシロップよりも、まだなお甘くて、わたしを一瞬で満たせてくれた。なんてすてきな別れの言葉なんだろう。





仙水さんの手のひらがわたしの頬を撫でる。それに応えると、わたしの期待を裏切らないで、彼の唇がわたしをついばんだ。言葉とキスと、いったいどっちのほうが甘いのかな。わたしには比べられない。まぶたを閉じたまま「わかってる」とわたしがつぶやくと、仙水さんが耳元で囁くように笑う声がした。その吐息もすぐに遠ざかる。


 「はいい子だね」


仙水さんはやさしく言ったけれど、もうその言葉はちっとも甘くなかった。いい子だから、お別れを受け入れてくれ、と言われているのがちゃんとわかった。わたしはいい子だから。仙水さんを愛しているから。唇を不用意に開いたら、うっかり彼を引き止めるような言葉がこぼれてしまう気がして、わたしは口を結んだまま彼がコートを羽織るのを見ていた。それをわかってくれたのか、それとも時間がないのか、仙水さんも黙ったまま扉へと歩み寄っていく。時間はもちろん、仙水さんも、立ち止まったりはしない。


「仙水さん!」


ドアノブに手をかけた仙水さんをみとめたとき、わたしはあふれそうな気持ちを押さえ切れなくなって彼の名を呼んでいた。気がつくとわたしの唇から言葉がこぼれ落ちていたのだ。ほとんど勢い任せだ。


「…だいすき。大好きです、仙水さん」


わたしからあふれだした感情は、やっぱりシンプルなことばになった。感情というものを煮詰めると、誰のどんな気持ちでも結局こんなふうに簡単なことばになってしまうのかもしれない。ただわたしと仙水さんのそれと違うところがあるとすれば、彼はとてもゆったりと余裕たっぷりにそれを口にしていたというのに、今のわたしには余裕のかけらもないというところだ。自分に余裕がないということに気づけないほどに。
振り向いた仙水さんはほんとうに切実なわたしの様子に一瞬驚いたように目を見開くと、ゆるゆると微笑んだ。


「わかってるよ。の気持ちはちゃんと、伝わってるから」


わたしはきちんと仙水さんに気持ちの通じたのがうれしくて、それでも仙水さんを引き止められないという当たり前な事実が苦しくて、「うん」と切羽詰った声で答えるのが精一杯だった。ほんとうに、いっぱいいっぱいだった。また連絡するよ、だとか、また近いうちに逢おうとか、そういうようなことは一切口にせず、仙水さんは部屋を去った。しばらくぼーっとしてから、ふと気がついてデジタル時計を見るともう今日になってから一時間以上も過ぎていた。思えばずいぶん長く引き止めてしまった気がする。それなのにあわてる様子もなく帰っていった仙水さんはまったく紳士だ、と思う。あんまりにもゆったりと余裕のあるしぐさばかりするから、あと少しくらいいたっていいのに、と身勝手なことを思ってしまったほどだ。ほんとうにわたしはわがままだ。わたしは乱れひとつないシーツの上に寝転んで脱力すると、自己嫌悪に陥って顔を両手で覆った。結果的に仙水さんを引き止めて困らせてしまったかもしれないことについて落ち込んだんじゃない。とっさにこぼれ落ちた感情が、せめて「愛してる」だったらよかったのに、「だいすきです」だなんて。


「…いやになっちゃう」


わたしはほんとにまだまだ子どもだ。彼とわたしなんでこうも違うんだろう?ああ、だけど、それでも仙水さんはうれしそうに微笑んでくれた。わたしは脳裏にきちんと焼き付けられたいとしい人の微笑みを思い浮かべて、彼の与えてくれたしあわせの余韻に浸った。次に逢えるのはいつだろう?さっさとその瞬間まで時間が過ぎればいいのにと、身勝手なことを考えながら。







午前1時の別れ際 (仙水さんリクエストお待たせしました! 2009/11/19)