期待しないことがいけないのか。期待することが間違いなのか。


「卒業生退場」

こういうときは大抵雨が降ったけど、珍しく春の陽気な日差しの中で迎えられた今日という日。いつかは忘れてしまいそうなはずなのに、一瞬一瞬は褪せることなく毎日に詰め込まれていく。思えばとても無難な3年間だった。揉め事も起こさず模範。どちらかといえば優等生を気取れるほどの部類だったかもしれない。目に見えた失望も感じなければ、わくわくするようなスリルもない。放課後の掃除は一度もサボらなかったけど体育は都合が悪ければ保健室で寝て過ごした。本当に可もなく不可もない学生生活を、なんの変哲もないセーラー服を着こなしながら続けてきたのだ。けれどそれも今日で終わり。


うっと息詰まるような声音やカシャカシャとシャッターが切られる音がする。わたしたち卒業生は、今日を持ってこの学び舎ともおさらばする。司会を務めた学年主任の声で起立すると、クラスごとに並びながら次々と体育館を出ていった。赤い絨毯の上。友達同士肩を抱き合ったり、手を繋ぎあったりして出て行く光景に、後輩や父兄や先生たちが鼻をすするようにして目には涙を浮かべていた。手に持つハンカチはどれも白が多いなぁなんてどうでもいいことが頭に浮かんで、そしてすぐに消えた。中学よりも幾分こざっぱりと感じられる卒業式だったけど、わたしだってそれなりに寂しさを感じる。もうクラスメートとあの四角くて狭っこい教室の中でお弁当は食べられないんだとか(入学予定の大学は学食がメインだし。)思いきり文系のわたしは、きっと理科や科学の実験で使うようなフラスコ、アルコールランプ、リトマス紙の三種の神器には会うこともない。昇れる屋上も、夏休みになると開放されたプールも、最適な空間だった保健室だって。きっときっと同じ空間で同じ時を刻むことは出来ないんだろう。…わかっていたことだけど、なんだか不思議な気持ちになる。

体育館を出るとみんなが泣いたり笑ったり抱き合ったりして忙しなかった。式中に出せなかった思いを発散させるかのように外は騒がしい。渡り廊下で誘導役をしていた先生が「ほらそこ、通路だから早くあけなさい。教室に戻るもどる」と雰囲気ぶち壊しの声をかけていておかしかった。わたしには特別抱き合うようなともだちは近くにいなかったけど、それでもこのメンバーで3年間を過ごしたんだって思ったらちょっと泣けてきてしまう。いそいそと教室へ戻る途中、何人かの生徒が保護者席に座っていただろう自分の両親や親戚と笑い合う姿が目に入った。わたしは一瞬だけ立ち止まり、その光景を羨望の眼差しで見つめてしまっていたかも知れない。


両親は来ていなかった。二人は籍を入れてあるだけの存在で、母親はほとんど別居状態だったし父親は愛人とどこか別のマンションで暮らしている。家もお金もあったけど、わたしはそのどちらもあまり必要だと感じたことはなかった。今日までよく殺さずに育ててきてくれたなって思うから、これくらいの境遇、いくらでも我慢できる。一応親であることには代わりはないのだからと今日のことは携帯の留守電で伝えたつもりだった。校長先生のありがたく長いお話の最中、後ろを振り返っては二人の姿を見つけようと試みたけど、案の定見つかるはずもなかった。



「このあと保護者同伴で茶話会だってさー。だるいよね」
「保護者が来てない人はどうすんだよ」
「あぁ、なんか茶話会終わるまで待機して、片付け手伝わされるみたい?」
「うわぁ…卒業式当日だっていうのに酷くない?」
「よかったーうちお母さん来てくれたよ〜。嫌いだけど」
「ぶっ!!遅い反抗期かっつーの」
「やぁだー。そんなんじゃないよもう!ま、とりあえず教室もどろー」


「……マジでか」


クラスメートの何人かが話す悪魔が計画したような内容が耳に入ってきて、わたしは自分の表情がこわばるのがわかった。茶話会?卒業式の後に保護者同伴の茶話会?ちょっと待ってよ全然そんな話聞いてなかったよどうしよう…。なんて、考えてみても無駄だろう、きっと。両肩が脱力していくのがわかる。あぁもうなんでこんな日に、しかも卒業式当事者のわたしが後片付けにまわされるんだ。自分を不幸に感じると、周りの平穏さがなんて疎ましく感じるのだろう。はらはらと舞い散る桜の花びらが嘘みたいに色を失って見える。わたしは泣きたくなって、口には出ない思いを胸の中に連ねながらくるりと踵を返す。そうだ、今日はもう帰るしかない。誰かが楽しんだ後の片付けだなんて、そんなものわたしはやりたくない。今日の今日まで模範生としてこの学校で生活してきたのだ。最後の最後でサボるくらい問題ないはずだ。そう決心すると、わたしの足はひたすら昇降口を目指していた。制服のまま軽々と駆け下りる階段。踊り場の窓からは淡い春の景色が目に映る。もうこんなことができるのも今日で最後。自分に酔いしれて、いっそこのまま正門まで走り去りたい気分に駆られた。途中で数人の同級生や後輩とすれ違ったけど、わたしは止まることなくただただ走る。2年の終わりから使い続けた上履きを適当に空いているビニール袋にしまいこんだ。履き替えたローファーもきっともう履かない。本当に何もかもが最後だと思うと、昇降口特有の砂臭ささえいとおしい気がしてくるから不思議だった。ありがとう。ぜんぶに感謝して。


外に出ると、視界がひらけると同時に飛び込んだものは一面が桜色に染まったような淡い世界。さっき駆け下りてきた階段の、踊り場の窓からも見えたあの景色だった。ひらひらと舞う花びら。あっという間に閉ざす命を今日という日に刻んでいる。それはわたしととても似ている気がして、不意に急く足を止めた。校舎を隣に、正門まではずっと桜並木が続いている。5月になると毛虫が出るから嫌なんだよと誰かが言っていたのを思い出す。クラスメートだったかも知れないし、ただの同級生かも知れない。もしかしたら用務員のおじさんだったかも知れないけど、そんなこともうどうだって良かった。



本当は。



心の中でそう呟いて、俯く。ぱたぱたと頬を伝う水滴がアスファルトを濡らすと、わたしの中にこの学び舎と別れるよりも痛む心が存在していることを知らせている。我慢は「できる」というだけで決して苦しくないわけじゃない。わたしだってできるなら誰かに今日の自分を見ていてほしかった。こんな家庭環境で育ってきたけど、わたしそれなりに成長したでしょう?無難に高校生活を終えられたでしょう?何度電話しても出ることのなかった携帯電話。わたしの声はどんなに便利な道具を頼ったところで届きはしなかった。校舎の最上階である3階からは、茶話会が始まる前だからかやけに騒がしい声が聞こえている。どこかのクラスの開け放たれた窓から見える、盛装をした保護者や話し合う生徒たちの笑顔が、とても眩しくて遠かった。ずびっと鼻を鳴らして涙を拭う。ポケットから取り出したハンカチには卒業式当日の今まで、ずっと皺も汚れもつくことがなかった。わたしはわたしのいるべき場所へ帰ろう。そう思い再び歩き始めると、見据えた正面に見知った影が存在していることに気付いた。


「・・・仙水、さん」


それは、息をするより大切な。自然と零れ落ちた彼の名前に、呟いたわたし自身が誰より驚いていたと思う。目を見開いたまま、ちょうど真正面、正門の前に停めた車に寄りかかる仙水さんを見つめる。漆黒のスーツを身に纏うその姿はわたしが普段見ている彼とまた少し違った雰囲気を醸し出していて、ネクタイをしていない胸元は少しだけ肌がのぞいていた。腕を組み、時折右手にはめた腕時計を見つめては俯き直す。彼はどうやらわたしには気付いていないようだった。頭上から落ちてくるわいわいとした同級生たちの声も、今はどこか祝福を待ちわびる歌にさえ聞こえていた。一歩、また一歩とローファーを履く足で力強く地面を蹴る。20メートルくらい近付いてようやくわたしの気配に気付くと、仙水さんは一瞬だけあっとくちびるを形取ったが、すぐにその口角を上に上げて目を細めた。。そういって、寄りかかっていた身体をとても繊細な動きで起こす。


「仙水さん・・・どうして」
「どうしてって、今日は卒業式だろう?」
「わたしそんな話しましたっけ?」
「直接じゃないが、刃霧たちから聞いたよ」
「そ、そうだったんですか…。その」
「うん?」


ダメだ、泣きそう。
立ち止まって潤む目をハンカチで拭いた。仙水さんの前ではいつだって笑っていたいのに。来てくれた。その事実が次から次へと涙を溢れさせようとする。抵抗する気持ちも失せて一度大きくしゃくりあげると、バタンと車の扉が閉まる音がして、コツコツと小気味のいい靴音が耳をくすぐる。仙水さん。そう思って顔を上げた瞬間、すぐに彼の腕に閉じ込められて視界が真っ暗になった。温かい暗闇。仙水さんのもたらす至福の心地。なんて幸せの中にいるんだろう。このまま閉じ込めて窒息したって構わない。すると、力強く抱かれていた腕の力が緩んで、代わりにかさりと何かが擦れる音がした。


「せ、んすい…さ」


呟くわたしの目の前に、大きな花束が現れた。わたしがぽかんとしていると、目の前の仙水さんはわたしと同じ身長になるように少しだけ屈んで「これを」と言った。束の中には一輪の真っ白な百合の花と、紫煙のようにやわらかい花(名前がわからない…)、そしてかすみ草が遠慮がちに散りばめられている。とても素敵でそれぞれを尊重しあう花たちにうっとりしていると、仙水さんは苦笑するみたいにわらって「気に入ってもらえたようだな」と言った。わたしがわかりやすいのはもちろんだけど、仙水さんはわたしが何かを言葉にしなくてもその気持ちがわかるのですごい。今日ここに誰かいてほしいと思っていた気持ちさえ、彼は誰よりもわかっていてくれたんだろう。はい!と大きく頷いて微笑むと、仙水さんの大きな手がぽんとやさしくわたしの頭を撫でた。



「卒業おめでとう」



イベリスの施し 2009/08/09