仙水さんが泣いていた。この世界が醜いと、彼は声にも出さず笑いながら泣いていた。


「仙水さん、少し休まれたら如何ですか」


要が相変わらずの無表情で言った。それでも声音は仙水さんへの心遣いでいっぱいなのがわかる。いつもなら仙水さんに近寄るなとか、それはわたしの台詞だとか言い合うはずのわたしたちも、最近ばかりはやり合いの息を潜めざるを得なかった。このところ仙水さんはあまりに自らを追い込み過ぎている。周りから見ればただの鍛錬だろうが、それは肉体のみの域を超えて精神的な部分にまで到達しているように思う。事の発端は仙水さんが、わたしの作った夕食を残したこと、ただそれだけだった。


「もう少し。まだやれる」
「ですが、そろそろ引き上げないと…」
「刃霧」
「はっ」

「は、はい!」
「先に戻りなさい。…ありがとう」


しくしく、しくしく。彼の心の軋む音が聞こえる。ありがとうと呟く彼の顔が、笑いながら泣いている。仙水さん、そう声をかけようとしたけど、要はわたしの背中をそっと押して制止を促す。仙水さんはきっとそれに気付いていて、と小さく名前を呼んでくれた。


「夕食楽しみにしている」


頷いて、上手く笑えていただろうか。

おかしいねって要と話していた。今まで一度も仙水さんがわたしの料理を残したことなんてなかった。バランスもそれぞれの好き嫌いも考えた適度な食事作り。要や月人たちのことももちろん、仙水さんのことをいちばんに考えて作る朝食や夕食はわたしのひそかな自慢でもあった。そのことを誰よりわかっていてくれたのは仙水さんで、ただ夕食を残しただけで異変を感じさせるくらいに、彼は今までわたしの食事を大切にしてきてくれたのだ。


「要」
「何」
「仙水さん、心配だね」
「お前が弱気でどうする。いつもどおりでいろよ。騒々しいくらい明るいで」
「そっ、騒々しいとは何よ、騒々しいとは!」
「その調子」


口角だけを上げて笑う要に、今だけはありがとうって伝えたい。憎まれ口ばかり叩かれても、本当はいつだって嫌いでそんな関係を築いてるわけじゃないってわかってる。わたしも要も他のみんなも仙水さんのことが大好きだから、自分たちが慕う彼が悲しいと哀しいんだ。彼は今何かに直面したばかりで、その事実を受け止めるのにもがいているんだろう。いつだって仙水さんは器用で不器用。その上誰にも言わずに心が傷ついていく。一瞬の、ほんの些細な違和感に気付かなければ、見逃してしまいそうなくらい弱音を吐かないで、苦しむ。もうすこしわたしやみんなを頼ってくれればいい。けれどそれができないからこそ、仙水忍という人格をみんなが愛して止まないんだろう。

一昨日の夜、ふいにわたしの手を握り締めた仙水さんが呟いていたのを思い出す。



「どうしてオレはこの世界に、人間に、生まれてきてしまったんだ」
「傷付け合い涙を流し合って、理由もなく何かを殺める」
「合理的な理由を探してはこじつける様に擦り付けて、認めて」
「汚い汚い汚い」
「そんな薄汚れた世界に、どうして、オレは」



ぎりぎりと彼の爪が喰い込んで痛かったけど、もっともっと痛いのは心臓の近く。仙水さんは泣いていたかもしれない。笑わずに、本当の涙を流していたかも知れない。わたしは繋がれた手をぎゅっと握り返し「美味しいごはんを食べるため。ひいては仙水さんにごはんを作るためです」そうとしか言えなかった。安易な言葉に仙水さんは愕然としただろうか。電気の消えた寝室でそれを確かめる術なんかなくて。


「一掃する。その日まで、作り続けてくれ」
「はい。もちろんです」


しくしく、しくしく。彼の涙が枕を濡らす。眠りに着く直前まで、彼のための朝食を考えていた。








世界を上書き(もしくは、修復) 2009/04/25