幼い頃はドライブの途中で眠ってしまってそのまま家に到着しても、お父さんがわたしを起こさないように静かに部屋まで運んでくれたものだ。それがいつ、何をきっかけかはわからないけど、家に着くなり起きなさいとか着いたよと言って揺すり起こされるようになった。もちろんそれは身体が大きくなって運ぶのに一苦労というのが理由の一つにあるのはわかるけど、どうしてもたまらなくなってうとうとしながら、ついには心地よく眠る。わたしはそんなしあわせの途中で起こされることがすごく悲しくて、そのたび泣き喚くものだからとはもうドライブはしないと怒られたことがあった。家族とは、久しくドライブには行っていない。


「んー………どこ…」


まどろみの淵から目を覚ました。ふかふかで真っ白な掛け布団と、突っ伏すように眠っていた目の前には沈み心地のいい枕がある。部屋の隅に置かれたわたしの背丈ほどあるライトスタンドが、淡いオレンジ色の光で室内を照らしていて、色っぽい、うっとりとしそうな空間に再び瞼を瞑りそうになった。


「目が覚めたのか」
「あ、…仙水、さん」


肩にフェイスタオルをかけながら、濡れた髪の水滴で服の肩口が濡れないようにしている。仙水さんはミネラルウォーターの入ったペットボトルとグラスを2つ手に持ち、そっとベッド脇に置いた。普段オールバックの髪の毛はすでに下ろされていて、とてもいい香りを漂わせている。ぼーっとした雰囲気の中にふたりきり。へにゃっと間の抜けた顔でわらうと、仙水さんはお手本のような笑顔で答えてくれた。わたしはとても嬉しくなって、次にいいこいいこと頭を撫でられるのを待っていた。


「とても心地良さそうに眠っていたから」


ぽんと大きな手が乗って。その一言で、わたしは自分がさっきまで仙水さんとドライブしていた事実を思い出す。あっと口をあけて謝罪の言葉を紡ぐより早く、仙水さんはいいんだよとやさしくわたしの言葉を塞いだ。頭を撫でる手と彼の声音が魔法のようにまどろみを誘う。


「眠れるくらいにオレとのドライブが心地よかった証拠だろう?」
「仙水さん…えへへ、そうです。本当に、そう」
「光栄だな」


言いながら仙水さんは肩にかけているタオルで髪の毛を拭いていく。いつもより数段幼く見えた。彼のすべてのリズムがすきだった。大好きだった。ドライブしている間に声をかけてくれる割合、沈黙とそうでないときの時間。流れる音楽はどれも詩のない曲ばかりで、それはジャズだったりボサノヴァだったり統一されていない。時折ラジオに切り替えてその音量もまた絶妙で、車を走らせる街のネオンが目に優しい。運転が上手いなんてわかりきったことで、彼の隣に座りながら家に着くまでの道のりを眠らずに過ごすなんて、わたしにはとてもじゃないけどできそうになかった。


「それから」
「うん?」
「わたし、ドライブしていて、途中で起こされるととても哀しくなるんです」
「それはどうしてだい」
「とっても心地いいのを邪魔された気分になってしまって…本当勝手なんですが…」
「別に構わないだろう。が思うことをオレに我慢する必要はない」
「あ、ありがとうございます。…小さい頃は家に着いても親も部屋まで運んでくれたのに」
「うん」
「なんで……なんで大きくなると起こされちゃうんだろうなぁって思って」
「心地よく感じているのは、大人も子供も関係ないのに、か」
「そうそう、そうです。本気で大きくなんてなりたくない!って思ってました」
「なるほど。可愛いじゃないか」
「か…っかわいい、ですか?」
「あぁ可愛いよ。ほんの少し、幼いだけで」


それは否定の言葉なんかじゃない。仙水さんは寂しそうに笑うとオレもあまり変わらないよと付け足した。大人なのに、仙水さんは誰が見ても大人の男の人なのに、こんな稚拙なわたしの考えをいつもいつも聴いてくれる。自分の意見を押し付けたり頭ごなしに間違っているなんて指摘しない。彼は大人なのに子供で、恋人なのに友達にもなれる。見えない境界線を巧みに操れる人。そもそも寝言のような感想を並べるわたしのことなんて「コイツ寝ぼけてんな」で一蹴すればそれで終わることなのに、彼は絶対にそうせずにわたしとの続きを楽しんでくれるのだ。本当に、なんてすごい人なんだろう。樹さんや要たちが彼に付き従う理由は、この世界の何よりも理解できる話だった。


「仙水さんがわたしを起こさずに運んでくれて、とっても嬉しかったです。ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことじゃない。言っただろう、オレもと、あまり変わらないんだ」
「…わたしからしたら仙水さんはとっても敵わない人だけど、そういってもらえるととても近く感じられて嬉しいです」
「近いさ。元々な」
「…はい。」
「どうした?」
「いや、あの…」
「うん」
「嬉しいなぁって。要に聞かせてやりたかった」
「刃霧に?」
「そうです。いつも仙水さんといると邪魔ばかりするから」
「それはのことが気に入っているんじゃないか?」
「違います!だって言ってました。"オレの仙水さんに〜"って」
「あいつはと別の意味でとても気に入ってるんだがな。信頼してるさ」
「きっと独り占めするからわたしのことを敵視してるんだと思います」
「ほう」
「仙水さんの取り合いですね、わたしたちは、いつも」


みんなの顔を思い出しながらわたしが笑うと、仙水さんの腰掛けたベッドがみしりと軋んだ。とくんとくんとグラスに水を注ぎながら「それは二度目の光栄」と微笑む彼は、自分事にしてはあまりに謙虚に呟く。それでも喜んでくれているのがわかったから、わたしの頬は緩むのを堪えられないでいた。大人の表情のままグラスを渡してくれる仙水さんと小さく乾杯をして一口、喉を潤す。淡いオレンジの部屋と目の前の彼に、蕩けそうな目はちっとも覚めそうになかった。








大人への境界線 2009/04/25