気が付いたら目の前のテーブルにはティーセットとケーキが置かれていた。ローズヒップだろうか、赤い花びらの色と香りが部屋中を満たしそうで、その隣には嫌味なくロールケーキが3つ、丁寧に切ってお皿の上に乗っていた。3つとも食べてもいいのかななんて食い意地の張った考えを押し込めて、わたしはわたしが本の虫になっている間、静かにこれらを用意してくれたであろう人の姿を視線だけで探した。


「仙水さん」


透明感のある部屋は白を基調としていて、絶妙な家具の配置とセンスでとても広々としていた。心地のいいソファーに腰掛けるわたしはこの部屋に一人ぼっちだということにも今さら気付いて、もしかしたら仙水さんは一人きりでドライブや買い物に出掛けてしまったかも知れないと考えた。どれだけわたしは本の世界に引きずり込まれていたんだろう。しばらくして、コトンと何かを置くような音が脱衣所から聞こえてきたのがわかった。同じ家の中にいても気配を絶てる彼がいることにホッとすると、わたしは読みかけの小説に栞を挟み、一旦テーブルへと置いた。


「仙水さん」
。どうした?もう食べてしまったのか?」


彼の言うもう食べてしまったのかの正体がケーキであるとすぐにわかって、ということはお茶を用意してくれてから然程時間が経っていないということになるんだろう。よかった、ずっと本に夢中になりすぎて仙水さんをほったらかしにしてしまったのかと思った。そんなの贅沢すぎる。仙水さんがわたしをほったらかすならともかくとして、わたしが仙水さんをほったらかすのは自分の中では極刑に値する愚行だ。


「まだ食べてません。お茶が置かれていることにさえ全然気付かなくて…すみません」
「あぁ構わないよ。ケーキも切った分お食べ。それにしても随分と熱心に読んでいたな」
「…すみません」
「なぜ謝るんだ」


洗面台の前で鏡越しに微笑まれて恥ずかしかった。やさしい笑顔。何もかもを魅了して止まない、彼の。わたしはアハハと乾いた笑い声を上げながらごまかすように頭を掻いた。洗面台の上には普段から仙水さんが愛用している無香料の整髪用スプレーが置かれていて、手ぐしである程度整えた髪の毛に今度は本ぐしで丁寧に梳いていく。その一連の動作だけでうっとりする手振りだなぁとすぐ隣にいる彼を鏡越しに見つめる。下ろし髪の仙水さんも好きだけど、こうやってオールバックに整った髪形の彼も大好きだ。食い入るようなわたしの視線に気付きながら、仙水さんがそっとスプレーの缶を掴んで自分の髪の毛へと降りかけた。


「そんなに面白いか」
「あ、はい!いや慣れた手つきですごいなぁって…」
は素直だな」


言いながら仙水さんは鏡ではなく、直接私を見下すように見つめた。ふって、まるで王子様みたいな顔で笑う。でも御伽噺に出てくるような爽やかな王子様じゃなくて、どちらかといえば影のある孤高の騎士のような漆黒の笑み。素敵だとか綺麗だとか、そんな形容詞が相応しい男の人を、わたしは今まで彼以外に知らない。


「仙水さんがそうやって褒めてくれるから素直でいられるんですよう」
「オレはがいてくれるからこうして存在していられるよ」
「…そ、それは言い過ぎです!恥ずかしいじゃないですかー!」
「言い過ぎなものか。オレは事実しか言えないし、言わない」


くすくすとおかしそうにスプレーの缶を洗面台に置くと、仙水さんは最後に一度だけ鏡を見つめて髪型を確認した。それから幾分身長差のあるわたしを鏡の中の彼が一瞥し、視線だけで部屋に戻ろうと紡いでいるのがわかった。隣に立つ仙水さんに向き直る。いつもはあまり驚かない彼が虚を突かれたような顔をして目を見開いていて、けれど、すぐにその意味を理解した彼の顔がそっとわたしに近付くと、仙水さんの絵に描いたような美しい唇がわたしのそれに静かに重ねられた。それこそ御伽噺のようなキスだった。


「…


顎を捉えて離さない。されるがまま彼の舌がわたしの唇をなぞる頃、淹れてくれた紅茶の香りがいよいよ部屋を満たしていた。






ローズヒップの部屋で 2009/03/29