「刃霧、ちょっと頼みがあるんだ」

くいくいと手首をくねらせると、仙水さんは何か見つけたように俺を呼んだ。

「なんですか」
「少しの間死んでくれないか?」
「はい、わかりま………は?」

俺は死ぬ。頷いて、けれど実行するより早く働いた思考回路はその言葉の疑問点にようやく気付いた。理解と同時に警戒して後退った俺に仙水さんは一瞬虚をつかれたような顔をしたけど、すぐに笑い出す。その光景に、今度は俺が虚をつかれる番だった。死は少しの間とか、ちょっとでいいからという話ではないと自負しているだけに、仙水さんのことで眉間に皺を寄せる日がくるなんて思いもしなかったのだ。のことならまだしも。俺は今、相当訝しげな顔で目の前に立つ仙水さんと樹を見ていることだろう。そんな俺に二人はいつもと変わらない表情を浮かべて微笑んでいる。せせら笑うようなそれ。おかしいのは俺だと思わせる感覚で人を包むこの雰囲気がほんの少し苦手だった。普段ならや、もしくは天沼あたりでふざける事はあっても俺をダシに使ったことなんて一度もない。何より、日は少ないながら通っていた高校でさえ、俺をこんな位置に仕立てる人間なんて一人もいなかった。つまりは慣れていないんだ、こういうの。

「どうしてですか」
「どうしてって…しおらしいものが見られるからさ」
「しおらしいもの?」
「あぁ」

それだけいうと仙水さんは既に事後のような笑みを浮かべて、樹になぁ?と問いかけた。樹は腕を組みながら、何が起ころうと俺は知らないと突っぱねた返答をしたけど、その言葉とは裏腹に表情だけは否応なく仙水さん側だった。荒れ果てた土地の古い建物の中に、似つかわしくない風が吹く。俺の中の仙水さんという人間がいう程のしおらしいものとは、一体どれほどのものなんだろうと少しだけ気になり始めた頃、今か今かと待ちわびたような視線を注がれて、断るタイミングを完全に逃した俺は意を決するかのようにわかりましたと呟いてその場へと寝転がった。黒い長い影が俺を覗く。もしかしたら本当に殺されるかもしれない。

「こうですか?」
「いや、」
「…こう」
「惜しいな」

もっと足掻いたような感じで。まるで映画監督にでもなったような仙水さん。茶番に付き合う俳優役の俺は、床と呼ぶには相応しくない地べたに何度も寝返りを打った。こんなことはもちろん、人生の中で未だかつて味わったことが無い。コン、とつま先に出っ張った石が当たる。その感覚だけで、やはり断るべきだったと内心悪態ついたけど、もう後戻りはできない。後ろで見ていた樹も見兼ねた様子で、いつの間にかこちらへ来て指示を仰ぎ始めた。

「もっと死闘のあとみたいに」
「死んだふりならこれで充分でしょう」
「振りだけど振りじゃないんだ」
「んー、何か物足りない」
「人を踏んでおいてそれはないんじゃないですか」

仙水さんは然も当然のように、靴のまま俺の腹部に足を乗せると、ぐっぐっと微力を込めた。細く、けれどしっかりした足首を両手で掴むと、あぁ悪いなといって気付いたようにその足を外す。掴んだ足首からは普段彼が戦う姿なんて想像もつかないほどだ。そんな彼のいうしおらしいというのがどれほどのものかさえわからない。正直、そろそろ興味も削がれてきたというのに、俺は何をしているんだ。そんな考えが過ぎると同時に、ふと、部屋の扉が開かれて、そこに巻原が立っていた。

「なんスか」
「あぁ巻原か。悪いがを呼んできてくれ」
を?」
「そうだ」

B級映画にさえ満たないこの物語のキャストには、どうやら巻原も呼ばれていたらしい。いつもと変わらないのっぺりとした喋り。そんなことより、突然仙水さんの口からの名前が紡がれると、俺は表情には出さない程度で密かに驚いていた。どうしてこの場面にが必要なのだろう。まさか俺の女をこんな芝居のヒロイン役に仕立てようというのだろうか。確かに、わけのわからないこの状況はB級だが、仙水さん自身、一級品のような男だ。強さも含んだ彼への羨望も、敬意だってないわけじゃない。けれど今日に限ってはいつも以上に真意が読めない。そんな中、もしかしたらと憶測が飛び交うこの状況を、俺は無性に楽しんでいるのかも知れなかった。ひょっとして、仙水さんの言うしおらしいものの正体は。

、ですか?」
「そうだよ」

そういうなり満足そうに笑って、仙水さんはうっとりするような視線を俺に向けた。彼にしては珍しく趣味の悪い小芝居とその意図をようやく掴みかけると、俺はもうすぐ来たるべき俺達の計画始動の日が来るんだと確信した。それまでの間のほんのわずかな余興は、仙水さんなりの気遣いだろうか。(それにしても悪趣味に近いが。)ふっと小さく笑った俺に気付くと、仙水さんはそのとき初めて本当の笑顔を向けてくれた気がした。迷いも、人間に対する以外は毛嫌いも無い、大人にしては純粋過ぎた彼が好きだった。その笑顔を向けられただけで、永遠に穢れない人だと思った。どうして彼は、これから進もうとしている世界に足を踏み入れるのだろう。外見だけでは決して辿り着けない仙水忍という男。あまりに惜しい逸材に世界は嫌われたのだ。そんなことを考えているうちに、部屋の外からの声が聞こえてくる。巻原と何やら談笑するように、これから自分がどんな目に遭うかとも知らずに、その足音は軽快だった。同じようにそのことに気付いた仙水さんは俺に片目を伏せて、人差し指を口元で立てる。小さく俯いて、仰向けになっていた身体を不自然に際立たせないよう、少しだけ力を抜いた。こんな茶番に付き合う俺もきっとどうかしてる。けれど確信は、変わらない。時機にやってくるだろう終焉の時を思えば、もうなんだってできると本気で思った。幾らでもに、愛してると呟いてやれる。


「仙水さん、御用ってなんですか?」
…」

扉の開く音が聞こえると、そうが尋ねた。仙水さんは特に慌てた様子もなく、監督から、今度は俳優になりきるかのような演技を見せる。特に指示はされたわけじゃないのに、なんとなく目は瞑ったほうがいいんだろうと判断した俺は、渾身の力を聴覚へ集中させてその会話を聞き入った。

「あれ、要…」
「あぁ実は」
「どうして地べたで寝てるの?」

「はい」
「本当に申し訳ない…」
「え?」


「刃霧は死んだ」


唐突に告げられた一言は、今、どれほどの効力を持ってしての目の前に突きつけられているのだろう。大きければいい。そう自惚れた。仙水さんはこんな冗談を普段からかますようなタイプの人間ではないし、を信じさせるという点においては誰よりも向いている。そうして俺自身、決して自分の女に尽くすタイプでも、かといって見放すようなタイプでもない。だからといって束縛しろだとかさせろだとか、そんな小さなことも言ったことはない。けれど、の中の俺の位置づけがどのあたりにあるのかさえわからないけど、それでも愛されている自信は十二分にあった。どこからか沸く見えない根拠は第三者からすれば気味の悪い話だが、俺にとっては生活の一部でもある。今まで、笑いながら嬉しそうに俺の名を呼ぶが、自分を含めたすべての存在に傷付けられませんようにと願っていた。何も望まない彼女だけには、毒牙を知らずに生きて欲しいとさえ思っていた。それなのに、この異彩がかった芝居を前にして俺は本性を知った気がする。が俺を失ったときだけは、傷付き泣きじゃくればいいのにと願っている。ここぞというときに身勝手な人間を、仙水さんがすべて滅ぼしたいわけがなんとなくわかるくらいに。

「何言ってるの仙水さん」

「早く起こして下さいよう!要ってば一度寝ちゃうとなかなか起き」
「彼は死んだ。刃霧は死んだんだよ

























「……うそ、よ」
(ねぇ、こんな風にしかきみの愛を確認できない俺達を、どうか許して。)