それは真夜中のことだった。


今、どれくらいの人間が眠りについているのだろう。ふとそんなことを考えてみる。わたしの単純な予測では、おそらく世界の半分は規則正しく眠っていて、あとの半分程度の人間は何かしらの物事に興じているのではないだろうか。しかしこれはあくまで推測だ。もしかしたら世界中の人間が眠っているかもしれないし、逆に殆どの人間が活動しているかもしれない。どちらにしろ、もしくはまたそれら以外の可能性があったとしてもわたしにはその明確な答えを手にすることはできなかった。結局わたしはまた思考回路をまるでテレビの電源を消すようにプツンと中断せざるを得なくなる。


天井を見つめるために開ききっていた目を数度瞬きさせてから、わたしはまぶたを軽く下ろした。視界は完全に遮断され、目の前は暗くなる。あたりまえのことだが、今わたしには何の光も見ることはできない。微かに聞こえてくる自分の呼吸と、隣に居る彼の寝息。身体の下にあるやわらかなシーツと、空気に濁った肌を撫でる冷気、そして彼に触れている場所から伝わる人間の体温。そこはあまりにも静かだった。普段聞こえてくるはずの外の喧騒は今、人々が寝静まっている所為か、それともわたしの耳に届いていないだけなのか。どちらにしろ、わたしが今居るこの空間が静かなのは変わりなかった。暗い暗いブラックホールのような闇が視界を覆っている。聴覚は際立っているはずなのに、わたしは何故かこの空間を静かだと感じている。おかしな違和感に気づき、わたしはまぶたをゆっくりと開けた。


「・・・雷禅さん?」


横たわる隣の背中に、わたしは天井を見つめたまま話しかけてみる。寝息が聞こえていなかったのだ。窓からわずかに差し込んでくる月明かりは彼の黄金色に染まった美しい髪を仄かに照らし出していた。その光に誘われるようにシーツの海を滑らせて指先を伸ばした。わたしのそれが彼の背中へ辿りつく。けれども、雷禅さんは何の反応も示さない。もう一度耳を済ませてみる。やはり寝息は聞こえない。


「雷禅さん」


彼を呼ぶ。すると、今まで黙していた背中がわずかに動いた。大儀そうにゆっくりとした動作で寝返りをうち、雷禅さんがこちらに身体を向けた。その拍子にわたしはすぐさま手を退ける。ほの暗い闇に浮かぶ雷禅さんの顔はすごく眠たそうなものだった。少しだけ開いているまぶたの間から彼の瞳がこちらをじっと睨むように見つめてくる。わたしは黙ってその瞳を見つめ返した。しかし、暫くすると不意にあちらから目を反らされた。雷禅さんは今、何時だと若干掠れ気味の声で呟いた。わたしはそれに、全く掠れの無い雷禅さんよりはいくらか明瞭な声で、さぁ何時だろうと返した。雷禅さんの眉間に皺が寄る。


「・・・まさか今真夜中とかいうんじゃねェだろうな。・・・二時とかだったら殴るぞ」
「わかんない、時計見えない」
「見ようとしてねェだけだろうが、お前が」
「雷禅さん、どうしよう」
「あぁ?いいから時計見てこいよ」
「やだ。めんどくさい」
「…犯すぞテメェ……」


今が何時かはわからない。けれどきっと真夜中だということは確かだろう。これもただのわたしの推測。しかし、この推測が当たってしまえばわたしは雷禅さんに殴られてしまうかもしれない。でも、別にいいかなぁと思っている辺り、わたしもあまり脳味噌がきちんと動いていないのだと知る。雷禅さんはもぞもぞと布団を引っ張って自分の体温で温まったそれに包まりなおす。わたしも同じように布団を肩まで引き上げて冷気から逃げた。


「つーか、何でお前寝てないんだよ」
「なんか眠れなくって・・・ひつじも途中まで数えたんだけどさ、わからなくなって止めちゃった」
「だったら最初からもう一回数えりゃいいだろーが」
「いいよ。もう、ひつじは」
「ひつじがダメなら他の数えろよ」
「じゃあ・・・牛?」
「・・・・なんで牛なんだよ」
「えぇー・・・・じゃあ、豚?」
「・・・お前さっきから肉ばっかじゃねーか。腹減ってんのか」
「少し。でも食べるきはしないなぁ」
「ったりめーだろ。とっとと寝ろ」


お前のおかげでなァ、オレは貴重な朝までの時間を無下にされたんだぞ。責任取れよ。雷禅さんはそういって急に手を伸ばしてきた。温まった雷禅さんの手がわたしの肩に触れてぐいっと引き寄せられる。雷禅さんの顔がいつの間にか近い位置にあって、気づいたときには既に唇を重ねられていた。驚いて身を竦めるけれど、雷禅さんは中々唇を離そうとはしない。彼の舌がわたしの歯列をなぞり、口内を舐めていった。と思うと、ようやくそこは離された。熱る唇の熱さと酸欠に限りなく近い状態までもっていかれてしまった脳がやっとのことで酸素を取り戻した。しかし雷禅さんの顔は、未だ近い場所にある。


「あー、ねみィ」
「・・・・雷禅さん、なんでキス」
「あ?責任とれっつっただろーが」
「いや、知らないよそんなの!雷禅さんが勝手に起きたんじゃん」
「お前がごそごそ動いてるからオラァ目ェ覚ましちまったんだろーが。お前に責任がある」
「理不尽っ」
「どこが」
「わたしは雷禅さんが起きたと思って呼んだんだよ」
「いいから黙って寝ろよ。それとも本当に犯してやろうか」


白を切る雷禅さんにわたしは最低ッ!と口を開きかけたが、雷禅さんはそれ以上またなんか言ったらその口塞ぐぞと低い声で脅迫めいたことを言った。そうなるとわたしは口を噤まなければならなくなる。雷禅さんはずるい、と口の中だけでぼそっと呟いて肩まで引き上げていた布団をさらに引っ張り頭までそれを被った。


「何してやがる、
「何も」
「何で布団なんか頭まで被ってんだよ」
「寒いから」
「ほう…そんなに口を塞がれたいか」
「いやいや言ってないし、そんなこと!なんでよ、寒いじゃん。布団被っちゃダメなの?」
「寒いならこうすりゃいいだろーが」


雷禅さんの言葉がくぐもって聞こえたあと、布団が突如引っぺがされた。うわっと短い悲鳴を上げてわたしは瞬時に身体をちぢ込ませる。雷禅さんはというとわたしから引っぺがした布団を自分の布団の上に被せていた。なんて奴だ。人の布団を奪ってそれで暖を取るなんて、理不尽にも程がある。雷禅さんっ、と語気を強めて、わたしは取られた布団を奪い返そうとした。しかし、それは失敗する。雷禅さんがわたしの腕を引っ張ってそのまま二枚重ねとなった布団の中に引き込んだからだ。気付けば頭まで布団の中に入れて、わたしは雷禅さんの腕の中にいた。頭の上には雷禅さんの顎が当たっている。少し痛いくらい抱きしめられているのだと知ると、わたしはおずおずと胸の前にあった手を雷禅さんの背中に回した。布団の中は、息がしずらかった。


「・・・・雷禅さん」
「ンだよ、まだ文句あんのか。オレは寝んぞ」
「・・・苦しい、頭出そうよ」
「さみィ」
「わたしも寒いよ」
「寝りゃぁ暖かくなんだろ。ほら、寝ろ」


まるで子供をあやすように雷禅さんはとんとんとわたしの背中を軽くやさしく叩いた。一定に刻まれていくその振動。不思議とそれはわたしを眠りの中へゆっくりと誘っていく落ちかけたまぶたはまだ完全に闇を映すことは無い。鼻孔を擽っている雷禅さんの匂いの中には少し仄かに甘い香りがした。鼓膜を揺さぶっている自分と頭上の方で聞こえてくる雷禅さんの息遣いは次第に寝息へと変わろうとしていた。圧迫感があるはずの小さな布団の中で浮遊感のような心地よさを感じながら、母親のお腹の中に居る胎児のように丸まって雷禅さんの胸板に額を押し付ける。



それは真夜中のこと。わたしは静かに眼を閉じた。







まばたき凍る夜のこと 2009/08/08