「あ、雷禅さん」
「あ」


偶然にも見つけた馴染みの姿に思わずその名前を口にしたのは、近所のスーパーを出て数歩歩いた時だった。 わたしの声に反応を見せた雷禅さんは普段あまり変化を見せない表情を驚きに変えて、わたしの目の前で突っ立っている。 何でこんなところに居るんだろうとわたしも彼に対峙するように店の前で立ち止まってしまったけれど、 後ろから来た中年の女性に「ちょっと、そこ邪魔よ」と不機嫌そうに声をかけられ慌ててその場を立ち退いた。 わたしの動きと連動するように、目の前に居た雷禅さんも動く。再び自転車に荷物を乗せてこちらを見ているさっきの女性に白い目を向けられそうになったので、 わたしは彼の手を引いてそそくさと足早にそこから立ち去った。


スーパーから歩いて両側に小さな商店や家の塀が並ぶ通りに入ってから、雷禅さんが「おい」と呟いた。 何、と訪ねると彼はわたしが手に取った自分の手を少しだけ上に上げて「コレだよ」と視線だけで訴える。 わたしは何の事か意味がわからず雷禅さんの言う方向へ視線を向け、自分が未だに彼の手を掴んでいることに気がついた。 それから慌ててその手を離す。


「あ、ごめっ・・・」
「別に謝る必要なんざねェ」


何食わぬ顔でそう言って雷禅さんは少し歩幅を広くする。 その結果、わたしと彼の間にはちょっとした距離ができた。左の手の平に食い込んでいる荷物の詰ったはちきれそうな ビニール袋を一度両手で持ち直しながら、わたしは雷禅さんに置いていかれないよう歩数をなるべく多くして歩く。 元々行き先は一緒だった。雷禅さんはわたしの父が設立した建設会社の、いわゆるガテン系の土方のお兄さんだった。 あまり自分から誰かに懐くタイプではないが、彼に信頼を置く人間は会社内にも持ちきりで、その人望も仕事の腕も とても頼れるものだと父からも絶大な支持を得ている。かくいうわたしも、父の会社で事務員の仕事を手伝っている。 自分の仕事振りを決してひけらかさない雷禅さんのことは、多分社内の誰よりもわたしは知っているとひそかに対抗心さえ 燃やすほどだった。


「あ」
「あ?」


呟いて立ち止まる。そういえば、雷禅さんを流れではあるがこの通りにつれてきてしまったのだけれど、 良かったのだろうか。わたしの視線に気付きチラッと後ろを振り返る雷禅さんの横顔を見つめる。 とりあえず、というつもりで、わたしは彼の名前をもう一度呼んだ。


「雷禅さん」
「あ?」
「その、よかったの?わたしについてきちゃって。何か用事でもあったんじゃないの?」
「・・・・・あぁ、」


何か思い出したらしいその声に、わたしはやっぱりと口の中で呟く。 しかし、次に雷禅さんの口から出てきたのは「あぁ」という言葉に続いて「あー」と同じ言葉を伸ばしただけの 無意味なものだった。しかもそれが妙に長い。そんなに重大な用事だったのだろうか。不安になって謝ろうとしたとき、 雷禅さんがわたしよりも数倍早く喋った。だけど喋る速さはいつもと同じ、どこか気だるげで。


「別に。何もねーよ、用事なんて。オラァ、なんとなくプラプラ散歩してただけだ」
「ほ、ホント?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「な、ならよかった…」


ほっと息をつく。これでもし何か重要な用事でもあった、なんて言われたらどうしようかと思った。 その途端、一瞬のうちに安堵のおかげで力の抜けた両手が、ぐんと重い荷物に引っ張られた。 「うお、ぉっ」驚いて声を上げながらわたしはその場にまるで地面に吸いつけられたように両腕につられて、 最後には足止めを食らった。わたしが急に立ち止まったのに雷禅さんが気づいて振り返る気配がする。


「何やってんだ」
「お、重くてっ」
「さっきまで持ってたじゃねぇか」
「ち、力が抜けたんだってばー」


大きく一度溜息をついてから、地面に吸い付いたビニール袋を倒れないよう足で支え、あまりの重さに悲鳴を上げていた腕をプラプラと振る。 すると雷禅さんが特に感情という感情を表していない顔のまま、わたしの方に近づいてきて右手一本であの重たい荷物を持ち上げた。 いきなりのことに驚いたまま立ちすくんでいるわたしに、雷禅さんは振り返って「いくぞ」と何も感じさせない声音で呟く。 そのやる気のないはずの声に呆然としていたわたしは叩かれるように突き動かされ、足止めを食らった身体を前進させた。



「今日、飯は」
「オムライスにしようかなって」
「餓鬼じゃあるめえし」
「だ、だってみんな好きでしょオムライス!」
「あーはいはい。酒は?」
「お酒はないよー。重いもん」
「んだと?」


ホントはビールでも買ってこようかと思ったんだけどね、お金がなくてさー。 袋をチラッと見てそう続けたわたしに、雷禅さんは「やってらんねぇ」と唸っていた。


「そ、そんなに飲みたかったなら初めから言えばいいのに!」
「言ったら買ってきたのかよ」
「きたよ。他のをなんか諦めて。あ、でもこの前お医者さんに言われたんだっけ。飲み過ぎのこと」
「うるせーよ。いいんだよ、あんなヤブ医者が言うことなんざ聞かなくてもよ」
「何言ってんのよ!先生だって心配で忠告してくれてるのに!」
「あのなァ、オレは酒がほとんどの栄養源なの。お前だって知ってんだろ」
「知りません、そんなこと」


雷禅さんがビニール袋をガサッと音をさせて持ち直した。


「…ちっ、今日は酒なしか…」
「・・・・なしって、そんな」
「焼酎も切れてやがるし、ったく、のお迎えまでしてやってよ」
「・・・・・・・」
「乳飲み子にはわかんねぇんだろーなぁ、あの旨さが」
「ッ、わかったよ!わかりましたよ!あ、明日買ってきてあげるから!」


あまりにもしつこい雷禅さんの言葉に対し、やけくそに叫んだところでふと、わたしは気づく。あれ、今、




「……迎えに、きてくれた、の?」


すると雷禅さんは一瞬こっちに物凄く驚いた表情で振り返ってきて、直ぐにまた正面へ顔を戻した。 な、なんだ今のは。雷禅さん、と声をかけるとピクリと肩が小さく反応を示したけれど、先ほどのように雷禅さんが 振り返ることはない。歩調も緩むことはなく、単調に地面を蹴り上げて前進している。 ただ空気だけが微妙に何かさっきまでなかったものを含んでいて、その空気にわたしは緊張を覚えた。沈黙が降りる。 雷禅さん、もう一度、確かめるように名前を呼んでみる。


「・・・・・なんとなくだよ、なんとなく」


偶然だ。雷禅さんはそうも呟いた。


「たまたま仕事が早く終って、なんとなくお前が買いだしに行ってんじゃねェかって思ってきてみたら、ホントにお前がいてよ」


淡々と語るいつものその口調はどことなく違和感を感じた。だけど、その違和感がすごく優しいものであるということに、 わたしはすぐさま気がついた。雷禅さんの左手にはオムライスの材料がつまった重たいビニール袋がぶら下がっている。 気だるそな背中はいつも通りそこに存在していて、しかしあのやさしい違和感はそこに溶け込むことなく浮上していた。




雷禅さんが、迎えに来てくれた。



それは違和感の上にある事実で同時にわたしを暖かく包み込んだ。そんなような気がしたのだ。 雷禅さんの右手に手を伸ばす。露出しているそこは冷たく外気に晒され続けたわたしの皮膚とは反対に、暖かい。 わたしの手の冷たさに一瞬身を引いた雷禅さんだったけど、わたしは構わずその腕に自分の腕を絡めた。


「・・・・・何笑ってやがる」
「別にぃ、なんでもないですよーだ」


ケラケラと笑いながら雷禅さんの腕に抱きつく。もう逃げることなく受け入れてくれたその腕にわたしは再び 優しい違和感を感じた。そして、そっと力を込める。この空間が、その違和感が、雷禅さんの腕の温かさが、全てが、わたしの頬を緩ませていた。







愛すべき違和感(大好きで書きたくて仕方がなかった雷禅夢!読んで下さってありがとうございます! 2009/08/08)