本日5限、自習につき各自静かに課題に取り組むこと。


 淡々と黒板に綴られた言葉を尻目に、蔵馬は、嗚呼、やはり関わらなければよかったと口には出さずに考えていた。 監視役の一人もいない自習時の光景など目に見えていて、大体が課題そっちのけでお喋りに勤しむ者、机に突っ伏し居眠りを遂行する者、 生真面目さから抜け出せず、言いつけを守って課題に取り組む者の3種類に分別される。その予想は大方当たっていて、名目上は自習でも授業となんら変わりない この時間、教室内は自己主張と混沌の両方が入り混じっていた。蔵馬の溜め息が誰の耳にも届かなかったのも、四角い箱の中を取り囲う 不思議な喧騒のおかげだった。

 しかしながら、蔵馬は、今、教室内でも更に内輪な部分で第4の種類に属する人間たちに頼られていた。 課題はそっちのけにはできない。なので昼寝なんて言語道断。けれど、自力で言いつけを守れるほどの知識もないクラスメイト数人。 彼らに、頼むからお前の課題を写させてくれと懇願されて、断るのも面倒だった蔵馬は早々に切り上げることを条件にそれを承諾した。それが今から20分前のこと。 幾つかの机と椅子を近くから拝借し、自分の席の前には小さなゼミのような状況が作り上げられていて、初めは、出来れば別の場所で 写してくれないかと頼もうか迷ったが、彼らが文字通り、本当に静かに課題を丸写ししていた為、蔵馬は口をつぐんだ。 時折発する音といえば、消しゴムがノートの上を走る音やシャーペンの芯をカチカチと伸ばす音のみで、不幸中の幸いとも言うべきか、そういった意味では彼の身に特別何が起きたわけではなかった。

 窓際最後列という誰にも干渉されない位置にいながら頬杖をつく。時間を持て余しながら、ふいに窓の外を見つめると、蔵馬はあっと小さく 口を開いた。思わず声が漏れそうになって、ちらりとノートを写すクラスメイトを見つめたが、特に気付いている者はいないのでほっと胸を撫で下ろす。 そんな場面を見られれば、まず間違いなく冷やかされるだろう自分を思い浮かべながら苦笑すると、蔵馬は今一度冷静さを取り戻し、 静かに窓の外に視線をずらした。隣のクラスの女子が燦々と照りつける太陽の下、とても不得手そうにグラウンドを走っている。 すぐに隣のクラスと理解できたのは、自分にとってかけがえのない存在が、苦手を克服するような健気な姿で走っているのが見えたから。、と心の中で呟いてみる。懸命な彼女の授業態度に、なぜだか昨夜、一人部屋で聞いていた小林明子の恋に落ちてが頭の中で繰り返されていた。 もちろんそれは自分の立場ではなく、わがままを言わない彼女の立場で歌っている詩のように聞こえていて、自分に心配かけまいと 微笑むの、淡い表情が浮かぶ。

「……」

 閑静な恋だった。無理に時間を合わせて登下校をするでもなく、昼休みにどちらかが廊下で待っているような仲でもない。 それは17歳という年齢にしては酷く透明で、目が合えば少し互いの想いを共有する程度の付き合い方だ。 たまに挨拶がてら話すことがあるかと思えば、帰宅して電話の前で考え込むこともある。の声は聞きたいが、自分の時間を優先することも多々ある蔵馬自身、受話器をそっと置いてしまうことも珍しくはなかった。 当然ながら、そんな二人の関係を知る者は、この校内で海藤をのぞいて他にいない。それほどまでに蔵馬とは、自分たちの気持ちを大切にしていた。澄んだ空気のような関係が、心地いいとさえ感じている。

 然程運動が得意ではないが、それでも懸命にグラウンドを走る。その姿が、紛れもなく自分の彼女に対する全てを表していて、掴まれてしまいそうだった。 儚い雰囲気に魅了される。と同じクラスメイトの女子たちが体育教師の目を盗んでは歩いてみたり、走ることに集中していない中で、唯一彼女だけは 直向きに息を切らせていた。蔵馬は、そこだ、と強く思う。何かが抜きん出ていなくていい。得手不得手は人それぞれで構わない。 ただ一つ言わせてもらうなら、物事に対するその懸命さを、馬鹿みたいに貫き通してくれる人がいい。他の誰が理解しなくてもいい。 出来れば自分以外の存在に、簡単に理解されたくはない。沸々と沸き起こる独占欲を白い布で覆ってしまって、表面には波紋一つ残さないで見守る。 その矛先が、自分にとってのであり、今、自分の視界が捉える彼女自身だった。

 蔵馬は、抱いた想いを一日の終わりに、特別伝えるわけではない。さっきの授業見ていたよ。そんな白々しい言葉のやりとりを極端に嫌う。 それは決して彼のプライドが許さず、また、自身に伝えたところで、発展のない会話として永久に葬られることを理解している。その程度で満足できるなら、と二人、この関係を築いてはいないだろう。

「助かったよ、南野」
「え?あぁ、よかった」
「自習なのに悪かった」
「構いませんよ」

 授業終了を知らせる鐘が鳴って、教室は一層喧騒が増す。先程と大して変わらないなと思いながら、蔵馬は、自分の課題を 写していたクラスメイトたちから謝罪の言葉を受け取った。途端小さなゼミがばらばらとばらけて、思い思いの場所へと移動する。 そんな様子を見つめながら、蔵馬がグラウンドへと視線を戻すと、数人の女子の輪の中に混じりながら、昇降口へと向かうを再び見つめた。読唇術を心得ているとはいえ、さすがに盗み聞きをするほど野暮な男ではない。聞こえない会話に 耳を傾けながら、彼女が輪の中で微笑んでいる理由を考えた。目を瞑ると、午後のたおやかな風が清々しい。より研ぎ澄まされた 聴覚は、教室内や廊下からの音をとてもよく拾う。家に着いたら、今日こそは受話器越しにの声を聞きたい。