狐耳なんて聞いたことがない。頭が弱いのはわたしの専門分野であって、決して長年姉妹を務める姉のほうではなかったはずだ。自分で言いながらどうしようもなく歯がゆい台詞だったけど、誰だって血のつながった姉が人間のような、動物のようなふわふわの尻尾がついた男を「彼氏です」と連れてこられてはたまったものじゃない。姉妹だけで暮らす家でよかった、とこのとき初めてホッとした妹の気持ちなんてまるで理解していないだろうしする気もなさそうだ。そもそもうちには愛猫のミケがいるのでこれ以上動物はいらない。連れてくるとしてもせめて、猫耳が限度だろう。


は」
「は、はぁ…。あの、買い物に…」
「そうか。では邪魔をするぞ」


狐さんは偉そうだ。目つきも態度も、その仕草さえ王様みたいに華麗で。当の姉本人がいないのに、じゃあ邪魔するぞまで至るその脈略がわからないままに、わたしは複雑怪奇な表情を声音にも乗せながら、どうぞとその男を部屋に上げた。躊躇なく玄関を開ける彼はどこか手馴れた様子で、もしかしたらコスプレかなぁなんて思ってみる。けれど、すぐにその考えは捨てる。狐のコスプレをする成人男性の方が少しだけ気味が悪いと思った。扉を押さえたまま彼の背中を見つめる。やっぱり今日も尻尾はふわふわだ。


「あの…何か飲みますか」
「コーヒー」


ふんぞり返る、とまではいかないけど綺麗に足を組んでソファーの、それもいちばん座り心地がいい箇所に腰掛けて狐さんはそう言った。おそらくではあるが、頭のキレそうな彼に何を言ったところで上手く切り返されるか、もしくは難しい答えが返ってきてわたし自身が墓穴を掘ることは火を見るより明らかだったので、わたしは大人しくハイと返事をし、リビングからキッチンへ移動した。カウンター式の対面式キッチンからは、自分の家よろしくくつろぐ狐さんの後姿。会ったのはこれが3度目で、確か初めて会ったときもリビングでテレビを点けてコーヒーを飲んでいた。


「えーっと、コーヒーはっと…あれ」


ちなみにわたしはコーヒーさえ飲めないお子様である。それでも姉やお客さん用のコーヒーくらいはいつも淹れているわけだったが、その日はたまたまいつも仕舞う棚のもう一段上にインスタントコーヒーの瓶が置かれている。何分背が低いわたしは、一度リビングから椅子を持ってこようと頭に浮かんで、狐さんの後ろ、静かに椅子を引っ張りあげた。


「なんだ騒がしい」
「す、すみません!コーヒーが取れなくて…」
「コーヒー?」


椅子を持って来たのはいいが、やはりわたしには届かない。ガタガタと物音に気付いた狐さんが、キッチンの入り口に立っている。そのとき初めて正面から彼を見れた気がして、頭の上から爪先までじろじろと品定めするように見据えてしまう。背、高いんだ…。髪は白だと思っていたが、意外にも銀髪で。白いのは彼の纏う洋服と雰囲気。耳が頭の上から生えていて、きっと本物なんだろう。そういえばこのあいだ、猫の耳の生え際がどんなものだったミケの耳を触ったら噛まれたな。あれは痛かった。狐も同じような生え方をするんだろうか、なんてどんどんズレたことを考えていると、ハッと思ったときにはすでに、狐さんは不機嫌そのものだった。訝しげな顔をわたしに向けて、そこをどけと命令口調で言った。


「こんなのも取れないのか」
「はい、すみません…。背が低くって…」
「……ほら、」


そういって憎まれ口とは反対に、長くて綺麗に引き締まった腕がやさしく瓶を掴む。ゆっくりとわたしの胸元に持ってくると、ぽいっと投げるようにインスタントコーヒーを渡してくれる。


「あ、ありがとうございます」
「ふん。惚れるなよ」


男の人の何気ない優しさに触れるのがとても久しぶりだったこともあって、わたしは感動するように感謝の言葉を述べる。おまけに人の彼氏に顔まで赤くして、なんてゲンキンなやつだろう。リビングから引っ張ってきた椅子もそのままに、わたしはコーヒー用のお湯を沸かして、再びソファーでくつろぐ姉の彼氏の背中を見つめた。キッチンを出る間際、振り返り様あんな台詞を吐ける彼がうらめしい。何よりそれが似合ってしまうなんて、本当に不思議な狐男だ。わたしの腕を噛んだミケがとても気持ち良さそうに彼の膝で丸まっていることに気付くと、ペットまでがゲンキンなんて少しだけ笑えないなぁ、なんて思った。キッチンには三つ分のカップが並べられている。







飼い馴らされない男 2009/04/02