どこか目覚めないまま俺に襲い掛かろうと視界が捉えたすべてのモノを引き裂くと、いつの間にか目の前には赤い湖のような惨状が広がっていたことに気付いた。滴る雨で薄まったそれと散らばった肉片。自ら作り上げたつもりなど微塵もない光景は、特別何かを感じるほどではない。喜びも悲しみも、最近は怒りさえ感じない。

ザァァとこびりつくように延々繰り返される雨音に舌打ちを従えると、足元に転がった妖怪だった塊を軽く足蹴にする。力を入れたとおりに転がるそれに、以前なら腹が立って仕方がなかった。けれど、今ではこいつらの命が俺にとっては雨音以下の存在なんだと気付いたのは、一体いつからだろう。焦燥感にも似たそれに虚しさを覚えるようになったのは、いつか。これ以上ここにいても異臭に鼻が狂うだけだと判断して、俺は静かに立ち去った。何もいらない。この空間からはもう何も生まれない。欲しければいくらでもこの手を伸ばすつもりだ。




◇◆◇




「蔵馬?」

人間界などまるで興味がなかった。たまたま魔界で聞いた秘宝の情報を元に立ち寄っただけだったのに、その「だけ」の中に一瞬で光を放つ類稀な人間を見つけたのは、そろそろ魔界の澱んだ空気に触れたいとおかしなことを思い始めた頃だった。興味がないと決め付けていたそれが、人間界へ留まるきっかけになるなんて、俺は今までどれだけのきっかけを勝手な思い込みでつまらないものにしてきたのだろう。そう思うと背筋が凍りそうになる。根本にあるものが覆りそうで、抗えなくなる。目に見えて輝く金品だけがすべてではないと気付かされるのがたまらなく恐ろしくて、いつだって見ないふりをしていたのに。どんよりとした人間界の天気に比例するように、俺はびしょ濡れのままただ俯いていた。の声が痛い。

「大丈夫?外すごい雨だったでしょう」
「…あぁ」
「…蔵馬?」

何かあったの?そう首を傾げるように訊ねるの姿が、俯いていても容易く想像できる。長年この生活をしているおかげで身に付いたのは、策を練る思考と返り血を浴びずに闘える方法だった。別室から戻ってタオルを手渡すは、今の今まで俺が何をしていたのかさえ気付いていない様子だ。元々自身そういった部分に敏感とは言えないが、染み付いた生き知恵もたまには役に立つもんだと自嘲気味に笑って、なんでもないとだけ返してのか細い手首を掴む。耳も、髪も。身にまとう何もかもが大量の水気を含んで皮膚に張り付くので鬱陶しかった。

「うわぁ蔵馬ほんとにびしょ濡れだね」
「これじゃあ手に負えない」
「そうだね。お風呂沸かそうか」

俺の手から水を吸ったタオルを取り上げると、返答を聞くより早くうんそうしようと呟いて、が別室に消える。その小さくて脆い背中を見つめながら、本当に、押しただけで潰れてしまいそうだと思った。人間というのはなんて脆弱で命の短い生き物なんだろう。それなのになぜ存在するのか。いつだったかそんなことを考えていた自分を思い出して、今ではぴくりとも感じなくなったその考えに苦笑する。ボタンを掛け違えたような感覚。すべてはに逢ってからだった。けれど、いくら人間に対する先入観が変わりつつあろうと、俺自身はこの先、強さも気持ちも変わることはない。それはつまり、厄介なほどに今まで通りであると同時に、ふと、考えざるを得ない状況を生み出すのだ。


脆いあの背中を押しつぶすのは、俺の手ではないのか。


「蔵馬お待たせ!いつまでもそんなとこに立ってないで、お風呂どうぞ」

言いようのない感情が押し寄せて、少しだけ首を振った。それはの問いかけに対してではない。俺自身に。

案内されるがまま、歩くたびに水の後を残しながら脱衣所と呼ばれる場所へ向かった。の背中が見れなかった。

「服はこの籠に入れておいてね。タオルは用意しておくから」
「わかった」

いろいろと話し始めたの、半分も俺は聞いていなかったように思う。いつもどおりを装いながら、じゃあと出て行くを遠い意識で見つめていた。ドアが閉まるその瞬間、ギリリと急に襲い掛かる負の感情に耐え切れず、目の前にあった鏡めがけて思い切り拳を突き立てた。破片が飛んで随所から出血。ひび割れて粉々になったそれは、幾重にも張り巡らされた境界線ごとに俺を映し出すと、その向こう側で嘲笑うようにギラギラと輝いていた。はぁ、といつの間にかかいていた汗が滴り落ちて、折れるような音を上げた破片が散乱している。止めどなく溢れる赤い液体を見つめながら、手の甲に浅く刺さって血を滲ませている破片を口でくわえて抜いて、そのまま吐き捨てる。人間界の三流映画のようなワンシーンだと自嘲した。

「蔵馬!?」

何事かとドアを大きく開けて、が俺の名を呼んだ。危ないとしゃがみ込んで破片拾いに没頭するは普段より更に小さく映る。俺の目の前まできて、ふと顔を上げようとしたと俺の握り締めたままの拳の位置が重なった。思い切り顔を上げて「蔵馬どうしたの!?」と声を荒げ眉根を寄せるを、もうどうしようもないほど失いたくないと思った。永遠に俺の傍に。

「大丈夫だこれくらい」
「でも、血が…」


裏切りの雨の中を生きて歩いてきた。いつか、この鏡に向けた拳の矛先が、今目の前にいる女に向かうのだろうか。脆弱な背中から粉々に粉砕。腕の中に感じる温もりさえ鬱陶しくなって。破片は飛び散らない代わりに、俺の中の何かが痛みを感じ、同じような赤い液体を流すのだろうか?そのとき俺は、何も感じずにいられるのだろうか。

「痛くも痒くもない。目に見えるものなら」
「蔵馬…?」

抱きすくめて、の髪に顔を埋めた。心というものがどこにあるのかさえ知りはしない俺は、そんなもの必要もない。それなのに、確かに俺の意識のどこかで、にだけは何も知られたくない。気付かれたくないと思っている事実に愕然とする。こんなことならとっとと魔界に還ればいいものを、あのときそうできなかった事が自分自身でも痛いくらいにわかっていた。けれど、怒りなのか哀しみなのか、苦しみなのか孤独なのか。感情の名前をあまりに知らな過ぎたのだ。できれば、秘宝よりも秘宝を知ってしまった俺と、そんな想いを抱える俺にさえ気付かずに、生きてくれたら。(そう願っていることにさえ、どうか気付かないで)










世界










別れ際に魅力を放つのは卑怯だと、は気付いているのだろうか。