これはまだ、本気じゃないときの。

そう心で呟くと、無愛想な蔵馬の視線はすぐに逸らされた。ふいって、なんでもないみたいな顔で平気でやってのける蔵馬のキスにはいろんな種類があって、それを自分の気分で自由自在にできるから不思議だった。今のはちゅって、ついばむようなちいさなやつ。たまに息を忘れるくらい、蔵馬のキスは濃くて困る。はぁってたくさん空気を吸っても足りないくらいで、もちろんされたときには困るとかそんなこと考えられないけど、あの冷たそうなくちびるが燃えるように熱を帯びてわたしをほんろうする。その緩急はどこで習ってきたんだろう。何度も誰かと試したのかな。それとも、そのたび本気だったりしたんだろうか。あいにく、わたしにそんなことはできなかった。

「ねえ蔵馬、今日だけベストオブキスマンって呼んでもい?」
「いいわけがない」
「じゃあわたしのことラブユーベイべーって呼んでくれる?」
「おまえ帰れ」
「…ダメかぁ。もしかして蔵馬不機嫌?」

テーブルを挟んでついているテレビを射抜くように蔵馬が見つめている。用意してあったコーヒーを口に含むと、眉間にしわの寄った顔とは対照的にゆっくりとカップを置いた。

「おかげさまでな」
「…すみませんでした」

目を伏せただけで人を抑制させるこの威圧感はなんなんだろう。大体ここ、わたしの家なんだけどなぁ。こうやって何か言うたび呆気なく返されて話は終わる。毎回こうなだけにわかってはいるけど、でもどうしても彼を本気にさせたかった。いつものようにふてくされて、ソファーの上で体育座りをする。少しだけ重みを増したおしりの部分が沈んで思わずよろけそうになった。それなのに、となりに座る彼はこっちを見ることさえせずにじぃっとテレビを睨んでいるままだ。わたしはつまらなさそうに肘置きの部分に項垂れて、画面が縦気味になったテレビをいっしょにのぞいた。

「…あ、伊瀬くんだー」
「……」

再び正面から画面を見据えて、この人すきーと指差す。スポーツ飲料のCMに起用されているのは、紛れもなくわたしのすきなタレントさんで、今をときめく旬の俳優さんだ。蔵馬とはまたちがうかっこ良さでとても好感のある顔だと思う。(蔵馬はちょっと近寄りがたいし)かっこいいでしょうと得意げに話したら、蔵馬が然も鬱陶しそうな顔でテレビを見入っている。薄めがちに、まるで視力の悪い人が眼鏡を外したときのような顔。それなのにそんな横顔もかっこいいなぁなんて思ってしまうわたしは、もうどこかおかしいのかも知れない。これといって何を見ていたわけではなく、静寂に流れるBGM程度につけていたテレビは次の番組がはじまるまでのちょっとしたCMのような時間帯に差し掛かって、わたしはその間にコーヒーを注ぎ足そうと考えて、蔵馬と自分のコーヒーカップを手に立ち上がった。

「…蔵馬?」
「座れ」

蔵馬のカップに手を伸ばしたら、その手を掴まれる。コーヒーいらなかったのかな?そう思い、首を傾げていたら、今度は左手に持っていた自分用のコーヒーカップを奪われた。

「蔵馬?わたしコーヒーを」

淹れたかったんだけど。そう言い終えるより早く、蔵馬の手がわたしの後頭部を優しく支える。近づいてきた蔵馬の目が閉じていくのが、スローモーションのように映った。一瞬のことなのに、自分が今から何をされるのか判断できる。

「んっ、く、ら…まぁ…っ」
「俺が不機嫌な時は側から離れるな」
「!?んうっ…はぁっ、…ん」

やさしくついばむやつじゃない。濃くて、困るほうの。蔵馬の言葉が、ちょっとずつしか耳に入らない。ようやく理解した頃は、酸素を求めるのに必死だった。不機嫌なときにでもこんなキスができるなんてほんとに自由自在だと場違いに感じる。蔵馬を見つめると、めずらしく熱っぽい視線と絡んでいい気持ちになった。目の力も自由自在。ぼーっとした頭が動き出す。そういえば、どうして彼は不機嫌だったんだろう。

「はぁっ、は…っ、くらま、まだ不機嫌、なの?」
「…あぁ」
「どーして?だってわたし蔵馬のことキスマンなんて呼んでな」
「それはもういい」

ちゅっと、今度はおでこに小鳥のキスが降る。

「じゃあなに?」
「………伊瀬」

そういって視線を逸らした。蔵馬はぽんぽんとやさしく頭を撫でると、ゆっくりと自分側の背もたれに凭れた。少し照れているかも知れない。そんな様子がおかしくて可愛くていとしい。わたしも改まってかけなおすと、妙にどきどきして仕方がなかった。だって、それって。蔵馬でも、そういう気持ちはあるんだなぁ。いやあるにきまってる。決してそれはおかしなことじゃなくて、その気持ちを受け取ったほうとしてはとても嬉しいものだ。思わずえへへーとかうふふーとか気味の悪い声をあげてわらったら、案の定気味の悪いものを見るような目で睨まれた。ほんの少しの間にこうも変われるなんて。(さっきまでの感情、それってヤキモチでしょう?)

「だってすきなんだもん伊瀬くーん!」
「俺も好きだよ、

意地悪く返したつもりだった。いつもいつも手を打たれるようにあしらわれるから、そのお返しに。それなのに、きっと今、わたしの顔はびっくりしてへんになってると思うのは、なんでだろう。テレビはついているのに、周りの音は一切途切れた。不敵に笑ったその顔には似合わない甘美な台詞。うらめしいほどに熱いキスと響く声が添えられると、彼が何に夢中かを教えてくれていた。



はじまりはくちびる