人を叩いたときに発する音が怖かった。酒に溺れた父が母を殴るなんてそんなありきたりの話、誰にも見えないところでやってほしいのに。(そしてできるなら父ひとりで)



腕は、わたしの名前を短く呼んだ誰かの細長い指に掴まれて、そのままひしゃげた。人通りもある程度少なくなった時間帯に、いきなり引っ張られてもしかしたらこのまま殺されるんじゃないかと頭を過ぎる。家にも居場所がなくて、息抜きをしようと飛び出した外の世界にさえ、わたしが休める場所なんてないのだろうか。

「…あれ、刃霧くん?」

何してるのこんなところで。腕を振り払おうと振り返ってみると、そこにはクラスメイトの刃霧くんが面倒くさそうに突っ立っていた。どこかで聞いたことあるような彼の声がわたしを呼んだのかとひとりで納得しながら、こんな時間に外で何をしてるんだろうと首を傾げる。そんなわたしに気付いた刃霧くんが、気付いたように腕に込めた力を緩めると、ゆっくりと手を離す。ありがとうと場違いなお礼をしたら、お前こそ何をしていたんだという視線で彼はわたしを見つめた。

「あ、うんちょっと…。息抜きに散歩」
「こんな時間に?まぁ俺も似たようなもんだ」
「そうだったの。でもすごい偶然だね!」

家着のラフな格好のまま刃霧くんに会っている自分が、なんだか自分じゃないみたいだ。夜特有の澄んだ空気と色が、昼間の彼を連想させない。むしろ刃霧くんはもともとこちら側の人間だったんじゃないだろうかと思わせるほどに、今目の前でちいさく笑ったクラスメイトは、艶美の色に満ちている。風に流れる髪にさえ、何かが宿っている気がした。

「そうだな」

こんな風に学校以外で会うのは初めてなのに、刃霧くんがぽんぽんと優しく撫でた頭が心地いい。闇夜のせいか、普段授業に休みがちで、気まぐれに来ても誰かと交流するわけでもない、かといって友達がいないわけでもない刃霧くんは、本当に、違う世界の人みたいに思う。高校生が出歩いていれば確実に補導される時間というのが気持ちに拍車をかけると、わたしたちは特に何かを言い出したわけではなかったけど、そのまま隣を歩き出した。刃霧くんはとても夜が似合っていた。

「よく、夜に出歩くの?」
「たまに。呼ばれたりすれば」
「呼ばれる?誰に?」

そう訊ねると、刃霧くんは綺麗な笑顔を向けた。少しだけぞっとするほど、あまりに出来すぎる笑顔だ。

「仙水さん」
「仙水さん?」
「あぁ」

それだけいって前を向くと、これ以上は詮索になりそうで怖かったのと、どことなく踏み入ってはいけない気がしてわたしはそうなんだとだけ呟いた。仙水さん、と呼ばれた人は彼にとってきっと特別な誰かなんだろう。もしかしたら彼女かも知れないし、そうじゃないかも知れない。考えながら覗くように彼を見つめたら、刃霧くんはこれから何かを見つけにいく物語の主人公のような清々しい顔で夜空を仰いでいる。いつも、どこかつまらなそうなクールなイメージの彼しか見ていなかったので、新しい発見だと胸が騒いだ。それだけ刃霧くんの中で、仙水さんという人の存在は大きいのかもしれない。うらやましいとさえ思うほどに。

は?」
「わたし?」
「あぁ。女ひとりで歩く時間じゃないよ」
「あはは…う、ん。…なんか、家にいるの嫌で」
「家に?」
「そう。父が、みっともなくて…すぐに暴力を振るう人なの。あのときの音が全部怖い」
「…へぇ」

特別親しい間柄でもない彼に、何を言ってるんだろうと思う。困らせたかなと一瞬不安が過ぎったけど、言葉は戻らない。わたしが訪れそうな沈黙を恐れて口をあけたと同時に、刃霧くんはピタリと立ち止まり、わたしを正面から見据えた。

「刃霧く、」
「消してやろうか」

黒髪が揺れる。何を言われたのかすぐには理解できなくて、わたしはえ?と聞き返した。刃霧くんは俯きもせずにその瞳でわたしを捉えつづけている。真夏なのに冷たい空気が流れ込むと、彼はもう一度言葉を紡いだ。

「父親」
「父を?」
「俺が消してやるよ」
「消すって…どうやって?」

これはきっと、マジックや冗談の類ではない。まっすぐ過ぎる刃霧くんの声音と視線がそれを物語るには充分だった。ひょっとして彼は、いつもそうしてきたのだろうか。真夜中に出歩く理由は、そこにあるのだろうか。だとしたら刃霧くんのいう仙水さんという人も、ものすごく夜の似合う人かも知れない。

「…刃霧くん」


俺が怖い?刃霧くんがそう呟いた。紡いだ言葉は恐ろしいはず。なのに不思議なくらい恐怖は感じなかった。わたしが首を横に振ると、刃霧くんの細くて長い指がわたしの頬を捕らえる。冬の、深雪のような冷たさが心地よくて、さっき撫でられた頭も再び熱を帯びていく。ひんやりしているのに熱を帯びさせる彼の手。綺麗で長くて、なんだって出来てしまいそうな男の人の手。刃霧くんのこの手で父を消すというのだろうか。だとすれば、それは。

「刃霧くんが汚れちゃうよ」

いいながら彼の手に自分の手を重ねる。刃霧くんは少しだけ眉根を寄せながらその光景を見つめていた。

「もう汚れてる」

怒られて項垂れるこどもみたいな表情は、わたしの心を掻き立てる。その言葉の意味は計り知れない。一体彼が、どこでどんな風に汚れたというのか。どうしたら汚れたことになるのかさえ、わたしには見当もつかなかった。月明かりが薄くわたしたちを照らしている。とても儚い目の前の彼を、このまま連れて行ってしまいそうだ。

「連れ出してやろうか」

親指が、そっと頬を撫でた。くすぐったかったのと、優しい彼に嬉しくなって思わず綻ぶ。さっきから彼は全部本気なのかさえわからなくなってきた。例えばここで頷いたとして、刃霧くんはわたしをどこへ連れて行ってくれるのだろう。

「刃霧くんの手は汚れない?」
「わからない。俺はもう汚れてるから。でもの居場所くらい作ってやれる」
「…ありがとう」

もうその一言で充分だった。わたしはもういちどありがとうと呟いて、重ねていた手をゆっくり離す。

「ありがとう刃霧くん。でもわたし、もう少し頑張ってみるよ」


最後に呼ばれた名前は、とても美しく響いた。彼に、刃霧くんに呼ばれるためにつけられたような、そんな錯覚を覚えるほどに。こぼれそうになる涙をそっと拭いて、少しだけ距離を置いて彼の前に立つと、刃霧くんがふっと小さく微笑んでくれた。


「いつか、また」


それが彼にもらった最後の言葉。振り返ることなく歩き出した彼の背中をずっと見送って、それは見えなくなるまでだったか、途中で消えてしまったのかわからなくなるほど、まるで夢のような時間だった。もしかしたらもう、逢うこともないかもしれない。





けれど、鮮明に思い出せる声音は今も胸の奥で響いている。会いたいと願うときに会えないことは苦しかったけど、彼の言葉を信じていよう。そうしていつかまた出逢えたら、今度はわたしから連れ出して下さいとお願いしてみようと思う。




真夏の夜の夢


彼は優しさも何もかもが過ぎる人で、極端な言葉ばかりが並ぶ人だった。