The outside is rainy. 「そういえば先日、隣のクラスで暴力事件がありましてね」 担任は然も他人事のように呟くと、教室にいる何人かが耳を傾けるくらいであとは誰も気にしていない様子だった。気にしていない、というよりはむしろ話すタイミングもきっかけもすべてにおいて担任が逃していたように思う。昨日の今日で知っている人もそうでない人もいるんだろうけど、そんな呟く程度でいいのだろうか。わたしに直接的に関係ないそれも、まぁ他人事ではなかったので、机に肘をつきながら静かに聞き入っていた。後ろで騒ぐ中学生顔負けの男の子たちのざわめきを完全に断ち切ると、面倒くさそうに「余計なことしやがってガキども」という態度が見え見えな担任のか細い声を拾い上げた。途中に聞こえた刃霧要という部分で、わたしはなんだか誇らしげになる。 「いやぁ、みなさんも気をつけてね。くれぐれも暴力はやめましょう」 それではというよりも早く、誰もが教室を後にすると、人の話は聞いていないくせに帰り際の雰囲気は読み取れるクラスメイトたちに思わず噴出しそうになった。やれやれと帰り支度を整えると、話をまともに聞いてもらえない担任どうこうより、暴力事件と大きく題されたにもかかわらずこの程度の話で終わった当事者がなんだか哀れになって、仕方がないから帰りにケーキのひとつでも買っていってあげようと思った。それほどまでに、わたしのなかの刃霧要の存在は脅威で偉大だった。 ◇◆◇ 「ぴんぽーん!かーなめくーん!」 「…近所迷惑だし俺にも迷惑なんだけど」 「いいからいいから!」 「なにが」 薄暗いマンションのチャイムを押してドアの向こうでピンポーンと鳴るのと同時にわたしも同じ音を繰り返した。すると、中からは具合と機嫌が悪そうな要が部屋着のまま出てきて、その異様なオーラが陽の当たらない廊下にとてもよく似合っているなぁと思った。風邪でもないのに風邪を引いたような、けれどもいつもどおりに悪びれた様子もない要にすこしだけ安心すると、何しに来たんだという視線と目が合って、手に持ったケーキの箱を見せびらかした。 「じゃーん!お見舞いです」 「擬音多い」 そういってドアを更に開けると、入ればと促される。その仕草に思わずドキッとして、買ってきたショートケーキのいちごが落っこちたんじゃないかと心配になった。挙動不審のわたしに呆れた視線を寄越す要のとなりをすり抜けて、相変わらず静かで暗くて昼間とは思えない要の家の玄関でくつをそろえた。あーもうほんとカッコイイ! 「要、停学処分オメデトウ」 「ありがとう」 「これ、ケーキだよ。もしかしたらいちごが落ちたかもしれない」 要がかっこいいから。そう告げて箱を手渡すと、要は何も言わずにそれを受け取ってリビングのテーブルで中をのぞいた。要は何事もシンプルなのがすきだから、じゃあここは王道いっとく?と思って買ったショートケーキのいちごは、ものの見事に箱の余白の部分におっこちて、ただの情けない苺になっていた。失敗したわけでもないのにそれが寂しくて、でも要がめずらしくブハってわらうからそんなことはどうだってよくなった。かなめ、わらった…!元気そうで何よりだ。 「ありがとうな、」 「どういたしまして」 かっこいいといったことに対してなのか。それともケーキを買ってきたことに対してか。いつだって彼には主語がないから、わたしには到底わからなかったけど、要がわらったことは消えない事実だったのでもうなんでもよいのだ。電気の点いていない部屋にはさっきまで眠っていたような温もりと冷たさが混同している。大きな窓があるのに、まるで光が入らないそれは、要のどこか人間的な部分に似ていてすごくすきだった。景色がとてもいい。この空間は要のために存在している。 「紅茶でいい?」 「あ、お構いなく」 そんな遠慮をするような仲でもないのに。わたしは変なところで気を使うからいつだって要に不思議がられるんだなぁ。そう思いながら部屋の中を見渡すと、本棚には相変わらず膨大な本と共にいくつもの夢が存在している。障害児との教育、施設の現状、幼少時の脳とその発達、過程における医療、様々だ。そのひとつを手に取ると、あるページには線が引かれ、またあるページには栞が挟まっている。何度も繰り返し読んでいるのがわかるほど年季が入ったその本も、最終ページの発行年月日を見るとまだ3ヶ月も経っていないことに気付いた。彼が勉強家であることは知っていたので、あまり驚くことではなかったけれど。 「オイ、勝手に見んな」 「いいじゃんかー」 「そういう本ばっかじゃねぇんだよ」 「…要のえっち」 「悪いか」 コン、とガラス製のテーブルにコップがぶつかる音がした。開き直ったような態度のくせに顔色はいつだって変わらない。ショートケーキと小さめのフォークがのったお皿を置くと、わたしの手からその本を取り上げて本棚へしまう。別に悪いことをしているわけじゃないのにとは思ったものの、どれほど本に記されているような世界について、真剣に取り組んでいるかをわかっているだけに文句は言えなかった。いただきます、と呟いてケーキを食べようとしたら、わたしの方にはいちごがきれいにのったままのショートケーキで、要のほうはよく見たら再び乗せたような跡がある。 「要こっちでもいいよ」 「俺はこれがいい」 目を伏せていただきますと呟く要が綺麗だった。これがいいって、そんな真顔で言われたらわたしだって恥ずかしい、のに。ドキドキと高鳴る心臓がうらめしかったけど、気にせず一口ケーキを含んだ。しばらく沈黙が続いて、聞こえるのは敷かれているアルミやコップを置く音くらいだ。食べるときに話す人はあまりすきじゃないわたしだったけど、なんともバツが悪い気がして(ただ恥ずかしいだけなんだけど!)今日学校であったことでも話そうと考えていたときだった。 「あいつ、目暗なんか言いやがった」 割れるような冷たい音が胸の奥に響く。主語のない要の会話にはいつだって考えさせられたりもするのに、その言葉が何を伝えたいのか、どんな想いを抱いたのか、わたしには手をとるように理解できた。世間がひとえに障害者と結びつける最中、彼はそういった人たちと積極的に関わりたいのだと心から願って日々勉強に勤しんでいた。要の夢は出逢った頃からほぼ決定項で、それは今まで一度も薄れることはなく、そればかりか日増しに強くなる一方のようだった。わたしも、となりにいてそれは誰よりも感じていたから、いつかこの思いが熱くなりすぎることはないのかと心配していた矢先、どうやら、同じ人間にも拘らず、そうとは思えない心の狭いクラスメイトの会話を耳に気持ちが高ぶってしまったらしい。人を傷つけるのは時として拳だけじゃない。けれど、傍から見れば目に見える要の行いの方を暴力と決めつけ、彼を停学処分にしたというところだろう。どこまでもふざけた世の中だ。学校も、まぁあんな担任のような教師を教師として置いているようなところだから、仕方がないのかも知れないけれど。やさしい彼がもっとも憎むべきものを起こしてしまった。もちろんそれをわかっているから、要だって自宅謹慎を重んじて受けているんだ。 「なんでが泣くんだ」 「だ、て…っ、くやし…もん、…」 「いいんだよ別に。俺が証明すれば」 俺のやったことが本当に間違っていたのかどうか、夢を叶えればわかることだ。要はそういって紅茶を口に含む。その姿もやっぱり綺麗で格好よくて、男の人に綺麗なんておかしいのかも知れないけど、でも要を表現するのにぴったりだと思った。自分を何よりわかっているから、どんなことが起きてもぶれない要は素直にかっこいい。担任にもクラスメイトにも要のクラスの人にも、わたしのすきな人がどれほどかっこよくて、ぶれなくて、芯があって、勉強家で、やさしくて、部屋が暗くても違和感がなくて、落っこちたいちごのケーキにわらってこれがいいと食べてくれる人間なんだって、伝えつくして自慢してやりたい。そんなことしたら要が恥ずかしがるからしないけど、それでも。 「要のそういうところに救われている人間がきっといるから大丈夫」 今は陳腐なその台詞が、いつか大舞台で活躍する彼の誇りになりますように。降り注ぐ雨からどうか彼を守れますように。 「俺ものそういうところに救われてるから、何も心配してないよ」 |